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第五十九話 姿のない客人

悪役令嬢は愛されている


第五十九話 姿のない客人


ノアが姿を現すまで、あと三日。


アルヴェイン公爵邸では、朝から大騒ぎが起きていた。


「ノアの服がないわ!」


エリザベートの叫び声に、東棟の使用人たちが一斉に動いた。


六年前から保管されていた衣服は、すべて小さすぎたのである。


「背丈が伸びたのなら、新しく作ればよろしいかと」


マリアンヌが提案すると、エリザベートは当然のように頷いた。


「百着用意なさい!」


「採寸はいかがいたしましょう」


「ミラに聞けばいいでしょう!」


その場にいた全員が、ミラを見た。


「……私?」


「あなた、ノアとお話しできるのでしょう?」


「できるけど、背の高さまでは……」


「聞きなさい!」


ミラは銀の鈴を取り出した。


軽く鳴らす。


しばらくして、彼女の表情が変わった。


「……百着はいらないって」


「誰がそんなことを聞いたの!」


「ノアが最初に言ったの」


エリザベートは不満そうに腕を組んだ。


「じゃあ、何着欲しいのよ」


ミラは鈴に耳を澄ませた。


「……一着でいいって」


「駄目よ!」


即答だった。


「着替えがないじゃない!」


結局、十着になった。


ノア本人の希望は、最初から最後まで採用されなかった。


*


昼過ぎ、ミラは屋敷の温室を訪れた。


そこではレオンが、古い魔術書と小さな水晶を並べていた。


「何をしているの?」


「ノア様の姿を、こちらから確認する方法を調べています」


「私がいるのに?」


「あなたがいない場所でも、会話ができれば便利でしょう」


ミラは少し考えた。


「……それは、無理だと思う」


レオンが顔を上げた。


「なぜですか」


「私がノアの声を聞けるのは、鈴のおかげじゃないから」


彼女は銀の鈴を掌に載せた。


「最初にノアの声が聞こえたとき、鈴なんて持ってなかったもの」


「では、これは?」


「合図。私が呼んでいるって、ノアに知らせるためのもの」


レオンは水晶を置いた。


「……なるほど」


「声が聞こえる理由は、私にも分からない。でも、聞こえるのはノアだけじゃないの」


「ほかの魂も?」


ミラは頷いた。


「たまにね。知らない人の声が聞こえることもある。でも、会話ができるとは限らない」


「ノア様とは、会話ができる」


「うん。最初は一言だけだったけど、少しずつ長く話せるようになった」


ミラは鈴を握った。


「それで、手紙を書いてもらったの。声だけだと、私が聞き間違えてるかもしれないから」


レオンは彼女を見た。


「ノア様の手紙を、どうやって受け取ったのですか」


「私が書いたのよ」


「……あなたが?」


「ノアが話して、私が書く。だから字は私の字」


彼女は少し笑った。


「最初の手紙なんて、三時間もかかったんだから」


レオンは、机の上の魔術書を閉じた。


ミラは特別な儀式を使ってノアとつながったわけではない。


偶然、声が届いた。


そして、返事をした。


それが始まりだった。


「……では、あなたがいなければ」


「ノアは、エリザベートと話せなかったと思う」


ミラは窓の外を見た。


「でも、ずっと私が間に入るのも変でしょう?」


レオンは頷いた。


「ええ」


「だから、三日後にはちゃんと会わせたいの」


*


夕方。


エリザベートは、ノアの部屋にいた。


新しく仕立てる服の布見本が、ベッドいっぱいに広げられている。


青、白、黒、深緑。


彼女は一枚ずつ持ち上げては、首を傾げた。


「ノアって、何色が好きだったのかしら」


隣にいたミラが答えた。


「青が好きだって言ってたよ」


「そう」


エリザベートは青い布を手に取った。


それから、部屋の隅に置かれた古い木馬を見た。


片方の耳が欠けている。


六年前、自分が作ったものだという。


「……あれも青く塗ればよかったわね」


「どうして?」


「ノアが青を好きなら、そのほうがよかったでしょう」


ミラは木馬を見た。


「でも、ノアはあれを大事にしてるみたい」


「知ってるわ。だから置いてあるんでしょう?」


「うん」


エリザベートは、しばらく木馬を眺めていた。


「……変なの」


「何が?」


「私、あんな下手なものを作ったのね」


木馬の脚は長さが揃っておらず、胴体も少し傾いていた。


ミラは笑った。


「六歳だったんでしょう?」


「六歳でも、もっと上手に作れたはずよ!」


「じゃあ、作り直す?」


エリザベートは即座に首を振った。


「嫌よ」


「どうして?」


「もうノアのものだもの。勝手に変えたら怒るでしょう」


ミラは少し驚いた。


「……エリザベートって、そういうことも考えるんだ」


「失礼ね!」


エリザベートは青い布を彼女に投げた。


ミラは慌てて受け止めた。


「それに、私が作り直したら、あれを作った六歳の私が可哀想じゃない!」


ミラは、思わず笑った。


「そっちなんだ」


「何よ!」


*


その夜。


ミラはノアと話した。


場所は、東棟の廊下。


エリザベートはすでに寝室へ戻っている。


銀の鈴を一度鳴らすと、ほどなくして声が届いた。


『ミラ』


「うん。聞こえるよ」


『今日も、ありがとう』


「お礼はもういいってば」


ミラは窓辺に腰掛けた。


「服、十着になったよ」


『……そうなんだ』


「本当は百着だった」


『それは困るな』


ノアが笑った。


ミラも笑った。


少しの間、二人は他愛のない話をした。


今日の夕食のこと。


エリザベートが選んだ布のこと。


温室でレオンが水晶を並べていたこと。


やがて、ミラは尋ねた。


「ねえ、ノア。三日後に姿を見せる準備って、私が何をすればいいの?」


『その日は、僕の声を聞いていてほしい』


「それだけ?」


『うん。君が僕を見つけてくれれば、僕は君のいる場所を目指せる』


ミラは鈴を見つめた。


「でも、私が見つけられなかったら?」


『そのときは、また別の方法を考えるよ』


「……軽く言うね」


『怖がらせたいわけじゃないから』


ミラは少し黙った。


そして、言った。


「私は怖いよ」


鈴の向こうが静かになった。


「だって、声だけの人を三日後に連れてくるんだよ。私が間違えたら、エリザベートはあなたに会えない」


『……うん』


「だから、ちゃんと教えて。私にできることも、できないことも」


しばらくして、ノアが答えた。


『分かった』


それから、二人は当日の手順を一つずつ確かめた。


ミラが声を聞く場所。


レオンが魔力の流れを観測する位置。


エリザベートが待つ場所。


ノアが姿を保てる時間は、まだ分からない。


だから、再会の瞬間に余計な魔法を使わないことも決めた。


話し終えたとき、ミラはようやく肩の力を抜いた。


「……これなら、できそう」


『ありがとう、ミラ』


「うん」


彼女は鈴を握り直した。


「ちゃんと、連れていくから」


*


翌朝。


エリザベートは食堂で、レオンとミラを呼びつけた。


「決めたわ!」


二人が顔を上げる。


「ノアが帰ってきたら、最初に何をするか決めたの!」


「何をなさるのですか?」


レオンが尋ねた。


エリザベートは胸を張った。


「朝ご飯を食べるわ!」


ミラは目を瞬かせた。


「……それだけ?」


「それだけって何よ!」


エリザベートは怒った。


「六年もいなかったんでしょう? だったら、まず家でご飯を食べるのが普通じゃない!」


レオンは、彼女を見た。


豪華な歓迎会でもない。


百着の衣装でもない。


彼女が選んだのは、家族の食卓だった。


「……承知いたしました」


レオンは頭を下げた。


「では、ノア様のお席を整えておきます」


「もう整ってるわよ!」


エリザベートは、隣の空席を指さした。


そこには、毎朝きちんと食器が並べられていた。


「遅いのよ、ノアは」


彼女は不満そうに言った。


「せっかく用意してあるのに」


ミラは、その席を見た。


そして、小さく頷いた。


「……うん」


あと三日。


ノアが本当に帰れるかどうかは、まだ分からない。


それでも、彼を迎える席だけは、もうそこにあった。


第五十九話 終

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