第五十八話 知らない明日
悪役令嬢は愛されている
第五十八話 知らない明日
レオンは、何度目かの世界で、一つの決断をした。
もう、未来を変えようとしない。
正確には、未来を知っているという理由で、人の選択を奪わないことにした。
それまでの彼は、失敗を避けるために行動していた。
誰が何を言うか。
どこで事件が起きるか。
エリザベートが何を望むか。
知っていることは多かった。
しかし、知っているからこそ、彼はいつも先回りしていた。
彼女が何かを欲しがる前に与え、危険な場所へ向かう前に止め、間違った選択をする前に正しい答えを教えようとした。
その結果、エリザベートは彼に尋ねるようになった。
「レオン、次は何をすればいいの?」
彼女は、何も決めなくなっていた。
その世界も、崩壊した。
レオンはようやく、自分が守ろうとしていたものに気づいた。
世界を救うことに必死になるあまり、彼女自身の人生を、自分の知っている未来に押し込めていたのだ。
⸻
次の世界で、レオンは一つだけ行動を変えた。
エリザベートが願いを口にしても、すぐには答えを出さなかった。
「レオン! 私、月が欲しいわ!」
「本物でございますか?」
「当然でしょう!」
「では、月がなくなった夜空は、どうなさいますか?」
エリザベートは窓の外を見た。
「……暗くなるわね」
「はい」
「それは嫌だわ」
彼女は少し考え、指を鳴らした。
「じゃあ、もう一つ作りなさい!」
レオンは思わず笑った。
「それなら、できるかもしれません」
「最初からそう言いなさいよ!」
少女は満足そうに笑った。
レオンも笑った。
彼女の答えは、予想していたものとは違っていた。
だが、悪くなかった。
⸻
その世界では、多くの出来事が、レオンの知る歴史と異なる形で進んだ。
エリザベートは学校へ通い、友人を作り、敵を作り、結婚式まで開いた。
レオンは彼女の命令を聞き、ときには断り、ときには叱った。
世界を救う方法は、まだ分からなかった。
それでも、彼女が何かを選ぶたびに、以前とは違う結果が生まれた。
そして、最後の星が消える夜。
エリザベートは、自分の幼い頃の願いを知った。
世界中の人に、永遠に愛されたい。
その願いが残る限り、世界は壊れる。
レオンは、彼女の隣に立っていた。
何度も見た光景だった。
しかし、今回は何も言わなかった。
エリザベートは、しばらく夜空を見つめていた。
そして、あっさりと言った。
「もう、そんなお願いはいらないわ」
星が消えた。
空の亀裂が閉じていく。
レオンは、息を止めた。
これまで、どれほど言葉を尽くしても取り消されなかった願い。
それが、彼女自身の言葉で終わった。
誰かに命じられたからではない。
世界を救うためでもない。
今の彼女には、もう必要なかったからだ。
レオンは、その場に膝をついた。
「……終わった」
初めてだった。
世界が崩壊しないまま、最後の星が消えたのは。
⸻
翌朝。
レオンは、公爵邸の庭園にいた。
空は青かった。
鳥が鳴いていた。
使用人たちが、いつもどおり働いていた。
何も壊れていない。
彼は、長い時間、その光景を眺めていた。
「レオン!」
背後から声がした。
振り向くと、エリザベートが立っていた。
「何をぼんやりしているの!」
「……少々、考え事を」
「そんな暇があるなら、私のお願いを聞きなさい!」
レオンは、思わず身構えた。
「……何でしょう」
エリザベートは、満面の笑みで言った。
「世界中の人に、私を嫌ってもらうの!」
レオンは、目を閉じた。
そして、笑った。
「……お嬢様」
「何よ!」
「それは、お断りいたします」
「どうしてよ!」
「世界中の人間の気持ちを、勝手に決めるわけにはまいりませんので」
エリザベートは、頬を膨らませた。
「つまらない男ね!」
そう言って、屋敷へ戻っていく。
レオンは、その背中を見送った。
彼女は、何も変わっていないように見えた。
しかし、確かに変わっていた。
そして、自分も。
⸻
それから数日後。
レオンは、夜の廊下で立ち止まった。
東棟の一室から、かすかな鈴の音が聞こえた。
ノアの部屋だった。
彼は、扉を見つめた。
これまでの世界で、ノアの存在を何度も調べた。
しかし、すべてを知ることはできなかった。
そして、今。
願いが消えたことで、ノアは肉体を失っていた。
レオンは、扉に手を伸ばしかけた。
そのとき。
「レオン」
声がした。
振り向くと、ミラが立っていた。
「……どうしました?」
「ノアが、呼んでる」
レオンは、彼女を見た。
ミラは、小さな銀の鈴を持っていた。
「あなたに、話があるって」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして、扉を開けた。
部屋の中には、誰もいなかった。
ただ、窓辺に置かれた鈴が、かすかに揺れていた。
『……レオン』
ノアの声がした。
『ありがとう』
レオンは、息を止めた。
「……何のことでしょう」
『エリザベートを、ここまで連れてきてくれて』
レオンは、答えなかった。
ノアは、少しだけ笑ったようだった。
『でも、ここから先は、君も知らないんだよね』
「……はい」
レオンは、静かに答えた。
「私も、初めてです」
『……そう』
鈴が、小さく鳴った。
『じゃあ、一緒に考えよう』
レオンは、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
願いを宿した星ではない。
ただの、星だった。
「……はい」
彼は、静かに頷いた。
「今度は、私も答えを知りませんから」
その言葉を聞いて、ミラが笑った。
「それ、少し安心した」
「……なぜですか」
「全部知ってる人がいたら、私の出番がなくなるもの」
レオンは、彼女を見た。
そして、初めて少しだけ笑った。
「……確かに」
窓の外で、風が吹いた。
鈴が鳴った。
ノアが戻るまで、あと三日。
その三日間に何が起きるのか。
レオンは、知らなかった。
そして。
知らない未来を、初めて恐れずに迎えようとしていた。
第五十八話 終




