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第五十五話 正解を知っている男

悪役令嬢は愛されている


第五十五話 正解を知っている男


十六度目の世界で、レオンは一冊の手帳を買った。


革張りの、ごく普通の手帳だった。


一ページ目に、彼はこう書いた。


『エリザベート・アルヴェインについて』


その下には、三つの項目。


好きなもの。


嫌いなもの。


大切にしているもの。


書き始めて、すぐに手が止まった。


好きなものは分かる。


珍しいもの。美しいもの。自分の思いどおりになるもの。


嫌いなものも、ある程度は分かる。


退屈。拒絶。説教。


しかし、三つ目。


大切にしているもの。


そこには何も書けなかった。


レオンはペンを置いた。


「……十六回目で、これか」


何度も世界を渡った。


何度も彼女の願いを聞いた。


何度も彼女を止めようとした。


それなのに、彼女が何を大切にしているのか、知らなかった。


*


その世界で、レオンは再び公爵邸に雇われた。


今度は、少女の願いを先回りして叶えなかった。


「レオン!」


「はい」


「私、空を飛びたいわ!」


「どちらへ向かわれますか」


「どこでもいいわ!」


「では、飛んだ先で何をなさいますか」


「……何ですって?」


「空から何をご覧になりたいのかと」


エリザベートは、しばらく考えた。


「……鳥よ!」


「鳥でございますか」


「そうよ! 鳥はいつも空にいるでしょう!」


「はい」


「だから、私も鳥になればいいの!」


レオンは手帳を取り出した。


『空を飛びたい理由――鳥と同じことをしたい』


「何を書いてるの?」


「お嬢様のお言葉を」


「まあ! 私の言葉を記録しているのね!」


「はい」


「素敵だわ!」


エリザベートは満足そうに笑った。


そして、レオンの手帳を奪った。


「私も書く!」


「お嬢様、それは――」


「いいでしょう!」


少女は一ページを開き、大きな文字を書いた。


『レオンはしつもんがおおい』


レオンは、その文字を見つめた。


「……承知いたしました」


*


一週間後。


レオンは、エリザベートに一つの実験をした。


「お嬢様」


「何?」


「本日は、何でも一つだけ願いを叶えます」


少女は、椅子から飛び上がった。


「本当!?」


「はい」


「じゃあ、お城が欲しいわ!」


「承知いたしました」


「それから、馬車も!」


「一つだけでございます」


「……けち!」


エリザベートは頬を膨らませた。


レオンは、静かに尋ねた。


「では、お城でよろしいですか」


少女は、しばらく考えた。


「……待ちなさい」


「はい」


「一つだけなら、もっとすごいものがいいわ!」


「何をお望みですか」


「……」


エリザベートは、窓の外を見た。


庭園では、使用人たちが働いていた。


セバスチャンが指示を出し、マリアンヌが花壇を整えている。


少女は、その様子を眺めていた。


そして。


「……今日は、皆と遊びたいわ!」


レオンは、ペンを止めた。


「……皆様と?」


「そうよ!」


「お城ではなく?」


「お城なんて、いつでも作れるでしょう!」


レオンは、手帳を見た。


『大切にしているもの』


空白だった欄。


そこに、一つ書き加えた。


『自分のそばにいる人間』


*


その日の午後。


公爵邸では、奇妙な遊びが始まった。


エリザベートが、使用人全員を集めたのである。


「今日は、かくれんぼをするわ!」


セバスチャンが一礼した。


「承知いたしました」


「私が鬼よ!」


「かしこまりました」


「皆、隠れなさい!」


使用人たちは、一斉に散った。


しかし。


十分後。


エリザベートは、誰も見つけられなかった。


「……おかしいわ!」


少女は、庭園の中央で怒った。


「誰もいないじゃない!」


レオンは、少し離れた場所に立っていた。


「皆様、隠れておられますので」


「隠れすぎよ!」


「……」


「私が見つけられないでしょう!」


レオンは、しばらく考えた。


そして。


「お嬢様」


「何よ!」


「皆様に、見つかりやすい場所へ移動していただきましょうか」


少女は、目を丸くした。


「……それじゃ、つまらないわ!」


「……」


「私が見つけたいの!」


レオンは、手帳を開いた。


『願いを叶えることと、満足させることは違う』


そう書いた。


その瞬間。


彼は、少しだけ理解した。


これまで、自分はエリザベートの願いを叶えようとしていた。


しかし。


彼女が何を楽しみ、何を嫌がり、何を望んでいるのか。


それを、考えていなかった。


*


十六度目の世界は、長く続いた。


レオンは、エリザベートのそばで働いた。


彼女の言葉を記録した。


行動を観察した。


願いを聞いた。


そして、少しずつ理解していった。


エリザベートは、誰かに嫌われることを極端に恐れているわけではなかった。


嫌われれば、怒る。


しかし、相手が自分を嫌っていると分かれば、それを面白がることもあった。


一方で。


誰かが、自分の前からいなくなることには、強く反応した。


ある日。


庭師の一人が、故郷へ帰ることになった。


家族の病気が理由だった。


エリザベートは、それを聞くなり怒った。


「駄目よ!」


庭師は、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


「どうして帰るの!」


「母が病に伏しておりまして」


「だったら、お母様をここへ連れてきなさい!」


「……は?」


「お医者様も呼びなさい!」


少女は、セバスチャンを振り向いた。


「今すぐよ!」


「承知いたしました」


三日後。


庭師の母親は、公爵邸の医療棟で治療を受けていた。


庭師は、泣きながら頭を下げた。


エリザベートは、不思議そうに首を傾げた。


「どうして泣いてるの?」


「……ありがとうございます」


「何が?」


「母を助けていただいて……」


少女は、少し考えた。


そして。


「……あなたがいなくなったら、庭のお花が枯れるでしょう!」


そう言って、立ち去った。


レオンは、その背中を見つめていた。


彼女は、善意で動いたわけではない。


少なくとも、本人はそう思っていない。


ただ、自分の庭師がいなくなることを嫌がった。


その結果、一人の命が救われた。


レオンは、手帳に書いた。


『動機と結果は、必ずしも一致しない』


*


しかし。


その世界も、終わった。


原因は、同じだった。


エリザベートが、世界中の人間に愛されることを望んだ。


レオンは、何度も説得した。


彼女の願いを聞いた。


理由を尋ねた。


別の方法を提案した。


しかし、最後には同じ場所へ辿り着いた。


「だって、皆が私を好きだったら、素敵でしょう!」


少女は、笑っていた。


レオンは、静かに答えた。


「……はい」


その言葉は、嘘ではなかった。


彼女にとっては、本当に素敵なことなのだろう。


しかし。


世界は、その願いに耐えられなかった。


赤い亀裂が、空に広がった。


レオンは、手帳を抱えたまま死んだ。


*


十七度目の世界。


レオンは、手帳を持っていなかった。


当然だった。


身体も、持ち物も、前の世界には残されている。


しかし。


内容は、覚えていた。


彼は、新しい手帳を買った。


そして、書き直した。


『エリザベート・アルヴェインについて』


好きなもの。


嫌いなもの。


大切にしているもの。


今度は、空白がなかった。


レオンは、少しだけ笑った。


「……やり直しか」


それから。


彼は、何度も世界を渡った。


ある世界では、エリザベートが王宮へ嫁いだ。


ある世界では、彼女が魔法を失った。


ある世界では、アルヴェイン家が没落した。


ある世界では、彼女が病に倒れた。


そして。


ある世界では、エリザベートが死んだ。


レオンは、その世界を忘れなかった。


*


その世界で、エリザベートは事故に遭った。


馬車の転落事故だった。


彼女を守ろうとした騎士たちは、全力を尽くした。


しかし、間に合わなかった。


レオンが駆けつけたとき。


少女は、すでに息をしていなかった。


「……」


レオンは、彼女の顔を見つめた。


何度も殺そうとした少女。


何度も世界を壊した少女。


そして。


何度も、自分を困らせた少女。


その少女が、もう動かない。


「……」


レオンは、何も言えなかった。


セバスチャンが、彼女を抱き上げた。


老執事は、泣いていなかった。


ただ、静かに言った。


「……お嬢様」


その声は、レオンが聞いたことのないものだった。


マリアンヌが、膝をついた。


騎士たちが、頭を下げた。


誰も、動かなかった。


レオンは、初めて思った。


(……世界は、壊れなかった)


空に亀裂はない。


星もない。


人々は、生きている。


世界は、続いている。


しかし。


公爵邸の中だけが、終わっていた。


*


その夜。


レオンは、エリザベートの部屋にいた。


机の上には、彼女が書いた落書き。


壁には、彼女が欲しがった絵画。


窓辺には、彼女が集めた小さな宝石。


何も変わっていなかった。


ただ。


彼女だけが、いなかった。


レオンは、椅子に座った。


そして、手帳を開いた。


『エリザベート・アルヴェインについて』


何度も書き直した記録。


彼女の好きなもの。


嫌いなもの。


大切にしているもの。


レオンは、最後のページを開いた。


そこには、一つの問いが書かれていた。


『彼女がいなければ、世界は救われるのか』


レオンは、しばらくその文章を見つめていた。


そして。


線を引いて消した。


代わりに、こう書いた。


『彼女が生きたまま、世界を救う』


それは、初めてのことだった。


レオンは、世界を救うために、彼女を殺そうとしていた。


しかし。


今は違った。


彼女がいない世界を、見てしまった。


世界は続いていた。


だが。


そこには、彼女がいなかった。


レオンは、静かに手帳を閉じた。


「……次は」


小さく呟いた。


「……生きていてください」


*


その世界で、レオンは長く生きた。


エリザベートが死んだあとも。


公爵邸で働き続けた。


セバスチャンは、老いてもなお、屋敷を守った。


マリアンヌは、庭園の花を絶やさなかった。


アウグスト公爵は、娘の部屋をそのまま残した。


エレオノーラは、時折その部屋を訪れ、何も言わずに座っていた。


レオンは、彼らを見ていた。


そして、理解した。


彼らは、エリザベートの願いを叶えるためだけに生きていたわけではない。


彼女がいなくなっても。


彼女を愛していた。


その事実は、変わらなかった。


レオンは、ある日、セバスチャンに尋ねた。


「……お嬢様が、いなくなっても」


「はい」


「……あなたは、ここにいるのですね」


老執事は、静かに頷いた。


「当然でございます」


「……なぜ?」


セバスチャンは、少しだけ笑った。


「お嬢様が、帰ってこられるかもしれませんので」


レオンは、息を止めた。


「……帰って、くる?」


「はい」


「……」


「そのときに、お部屋が汚れていては困ります」


レオンは、何も言えなかった。


セバスチャンは、静かに頭を下げた。


「私は、ただ待つだけでございます」


*


その世界で、レオンは三十七歳まで生きた。


ある冬の日。


彼は、病に倒れた。


長い時間をかけて、身体が弱っていった。


魔法では治せなかった。


医師も、手を尽くした。


しかし、回復しなかった。


レオンは、ベッドの上で天井を見つめていた。


窓の外には、雪が降っていた。


「……長かったな」


小さく呟いた。


彼は、手帳を開いた。


最後のページ。


そこには、何度も書き直した言葉があった。


『彼女が生きたまま、世界を救う』


レオンは、その文章を見つめた。


そして。


「……次こそ」


小さく呟いた。


「……あなたを、生かします」


目を閉じた。


その世界で、レオンは静かに死んだ。


*


次に目を開けたとき。


彼は、十七歳だった。


木造の天井。


朝日。


見慣れた工房。


レオンは、しばらく動かなかった。


三十七歳まで生きた記憶がある。


しかし、身体は十七歳だった。


手を握る。


指は、若かった。


鏡を見る。


顔も、若かった。


レオンは、静かに息を吐いた。


「……また、最初からか」


しかし。


今度は、少し違った。


彼は、エリザベートを殺そうとは思わなかった。


彼女を遠ざけようとも思わなかった。


願いをすべて否定しようとも思わなかった。


ただ。


彼女が何を望んでいるのか。


それを、知ろうと思った。


そして。


世界が壊れない方法を、探そうと思った。


レオンは、新しい手帳を買った。


一ページ目に、こう書いた。


『エリザベート・アルヴェインを、生かす』


その下に、もう一行。


『ただし、世界も壊さない』


彼は、ペンを置いた。


そして、少しだけ笑った。


「……難しいな」


それは、これまでで一番難しい願いだった。


しかし。


初めて。


彼自身が、心から叶えたいと思った願いでもあった。


第五十五話 終

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