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第五十三話 二度目の世界で、彼は嘘をついた

悪役令嬢は愛されている


第五十三話 二度目の世界で、彼は嘘をついた


十二月三日。


レオンは、その日付を紙に書いた。


続けて、前の世界で起きた出来事を書き並べる。


十二月六日。公爵邸の採用試験。


十二月中旬。夜空に五つの光。


その数日後。空に赤い亀裂。


そして、自分の死。


書き終えたところで、レオンはペンを置いた。


紙を眺める。


「……馬鹿馬鹿しい」


夢にしては、鮮明すぎた。


あのとき嗅いだ、石畳の焦げる臭い。


魔法陣が砕けた感触。


何より、ガルドが床に倒れていた姿。


思い出すだけで胃が縮んだ。


しかし、夢ではないと証明する方法もなかった。


「おい、レオン!」


階下から声がした。


「組合に行って、部品を取ってこい!」


「……分かりました」


レオンは紙を折り畳み、上着の内側へしまった。


そして、工房を出た。


*


魔術師組合の掲示板には、まだ求人が貼られていなかった。


レオンは、しばらくその前に立っていた。


「何かお探しですか?」


受付の女性が声をかけてきた。


「……アルヴェイン公爵家の求人は?」


「公爵家ですか?」


「はい」


女性は台帳を確認した。


「そのような募集は、現在ございませんね」


「……そうですか」


「ご希望でしたら、募集が出た際にお知らせできますが」


「お願いします」


レオンは自分の名前を記入した。


前の世界では、この日に求人が出ていた。


だが、今はない。


(……時間が違う?)


彼は組合を出た。


通りの向こうに、菓子屋が見えた。


前の世界で、同じ店があった。


しかし、看板の色が違っていた。


赤ではなく、青。


それだけなら、塗り替えたのかもしれない。


レオンは店に入った。


「すみません」


「はいよ!」


店主の女性が振り向いた。


「この店、以前は赤い看板でしたか?」


「いいや。開店してからずっと青だよ」


「……そうですか」


「何か欲しいのかい?」


「いえ」


帰ろうとして、足を止めた。


「……一つください」


「何を?」


レオンは、棚に並んだ焼き菓子を指さした。


前の世界で、ガルドが好んで食べていたものだった。


*


夕方。


工房に戻ったレオンは、ガルドへ菓子を渡した。


「何だ、これ」


「……差し入れです」


「珍しいな」


ガルドは袋を開けた。


一つ食べる。


そして、顔をしかめた。


「甘すぎる」


レオンは、手を止めた。


「……嫌いですか?」


「嫌いだな」


「……」


「俺は塩気のあるもんが好きなんだよ」


前の世界では違った。


ガルドは、この菓子を好んでいた。


仕事の合間に何度も食べていた。


レオンは、椅子に腰掛けた。


「……そうですか」


ガルドは菓子をもう一つ食べた。


「まあ、もらったもんは食うけどな」


その姿は、確かにガルドだった。


同じ顔。


同じ声。


同じように、椅子を乱暴に引く癖。


それでも、違う。


レオンは、その日の夜、紙に一行を書き加えた。


同じ人間でも、同じではない。


*


十二月六日。


アルヴェイン公爵家から、求人が出た。


二度目の世界では、三日遅かった。


レオンは、組合の掲示板を見つめていた。


募集人数は一名。


報酬は、前の世界の半分。


採用試験の内容は、公開されていない。


レオンは、応募用紙を取った。


その手を、隣にいた男が見ていた。


「受けるのか?」


「……はい」


「やめとけ」


男は笑った。


「公爵家の娘、相当なわがままらしいぞ」


レオンは、男を見た。


「……知っています」


「なら、なおさらだろ」


「……確かめたいことがあるので」


男は肩をすくめた。


「変わった奴だな」


レオンは、応募用紙に名前を書いた。


今度は、逃げない。


少なくとも、何が起きるのかを確かめる。


*


採用試験の日。


庭園に集まった受験者は、三十八人だった。


前の世界より、ずっと少ない。


レオンは、周囲を見回した。


見覚えのある顔もいた。


しかし、ほとんどは知らない人間だった。


やがて、エリザベートが現れた。


金色の髪。


高価なドレス。


自信に満ちた表情。


「皆さん!」


少女は、明るく言った。


「今日は、私のために集まってくれてありがとう!」


レオンは、息を止めた。


同じ声だった。


同じ笑顔だった。


前の世界で、空から響いた声。


あの声を聞いた瞬間、レオンは背筋が冷たくなった。


「それじゃあ、試験を始めるわ!」


少女は、庭園の中央を指さした。


「ここに、大きな海を作りなさい!」


レオンは、目を見開いた。


月ではない。


今度は、海だった。


「本物の海よ!」


エリザベートは続けた。


「魚も泳いでいて、波もあって、砂浜もあるの!」


受験者たちは、ざわめいた。


レオンは、考えた。


(……違う)


前の世界と、出来事が違う。


だが、少女は同じだ。


欲しいものを、欲しいと言う。


それが世界にどんな影響を与えるのか、考えていない。


レオンは、手を挙げた。


「質問があります」


エリザベートが振り向いた。


「何よ!」


「……海を作れば、満足されるのですか?」


少女は、目を丸くした。


「当たり前でしょう!」


「……本当に?」


「何ですって?」


レオンは、一歩前へ出た。


「海ができたら、次は何を望まれますか?」


庭園が静まり返った。


エリザベートは、しばらく彼を見つめた。


そして。


「……知らないわ!」


そう答えた。


「できてから考えるもの!」


レオンは、黙った。


前の世界で、彼女は月を欲しがった。


今度は、海。


だが、どちらも同じだった。


願いが叶ったあと、次の願いが生まれる。


それを繰り返して、何かが起きる。


(……止めなければ)


レオンは、決めた。


「……私が作ります」


エリザベートの顔が明るくなった。


「本当!?」


「はい」


「じゃあ、今すぐ!」


「……ただし、一つ条件があります」


少女の笑顔が消えた。


「条件?」


「はい」


「私に条件をつけるの?」


「……海を作ったら、それ以上の願いはしないでください」


庭園が、完全に静まり返った。


エリザベートは、しばらく彼を見つめていた。


そして。


「……嫌よ!」


即答だった。


「どうして私が、あなたの言うことを聞かなきゃいけないの!」


レオンは、息を吐いた。


「……世界が危険だからです」


「世界?」


「はい」


「……」


少女は、少し考えた。


そして。


「……変な人!」


そう言って笑った。


「海を作るだけで、世界が危険になるわけないじゃない!」


レオンは、答えられなかった。


証拠がなかった。


まだ、何も起きていない。


この世界では、まだ誰も死んでいない。


赤い亀裂も、五つの星も現れていない。


彼だけが知っている。


彼だけが、見てきた。


「……」


レオンは、静かに頭を下げた。


「……失礼いたしました」


*


その日の試験で、レオンは海を作った。


正確には、庭園の地下に巨大な空間を設け、そこへ水を満たした。


波は魔法で起こした。


魚は、王都の市場から運んだ。


砂浜は、白い砂を敷き詰めた。


本物の海ではない。


しかし、見た目は十分だった。


エリザベートは、大喜びした。


「素敵!」


少女は、靴を脱いで砂浜を走った。


「本当に海みたい!」


レオンは、少しだけ安心した。


(……これで)


彼女が満足すれば。


次の願いを出さなければ。


世界は、壊れないかもしれない。


そう思った。


しかし。


夕方。


エリザベートは、海を眺めながら言った。


「ねえ、レオン!」


「……はい」


「今度は、太陽を作って!」


レオンは、目を閉じた。


「……太陽、ですか」


「そうよ!」


「……」


「海があるなら、太陽も必要でしょう!」


レオンは、空を見上げた。


本物の太陽が、沈みかけていた。


「……すでに、ございますが」


「夜でも欲しいの!」


「……」


「ずっと、明るくしてほしいの!」


レオンは、何も言わなかった。


少女は、笑っていた。


何も知らずに。


何も疑わずに。


ただ、欲しいものを欲しいと言っていた。


*


それから、レオンは公爵家に仕えた。


海を作った。


太陽を作った。


星を作った。


エリザベートの願いを、できる限り安全な形で叶えた。


彼女が本物の月を欲しがれば、模型を作った。


空を飛びたいと言えば、浮遊魔法を教えた。


世界中の人間に愛されたいと言えば、舞踏会を開いた。


できるだけ、願いを小さくした。


できるだけ、危険を避けた。


その結果。


エリザベートは、ますます多くの願いを口にするようになった。


「次は、何をしようかしら!」


彼女は、毎日楽しそうだった。


レオンは、毎日疲れていた。


しかし。


空に亀裂は現れなかった。


五つの星も、増えなかった。


(……成功した?)


レオンは、そう思い始めた。


*


春。


公爵邸で、盛大な舞踏会が開かれた。


エリザベートのために、王都中の貴族が集められた。


レオンは、会場の隅に立っていた。


少女は、楽しそうに踊っていた。


「レオン!」


呼ばれる。


「はい」


「私、今日はとっても楽しいわ!」


「……それは、何よりでございます」


「皆が私を見てる!」


「はい」


「皆が私を褒めてくれる!」


「はい」


少女は、笑った。


「……ねえ」


「何でしょう」


「……これが、ずっと続けばいいのに」


レオンは、静かに答えた。


「……続きますよ」


その言葉は、嘘だった。


彼には、何の保証もなかった。


ただ、そう言えば少女が満足すると思った。


エリザベートは、嬉しそうに笑った。


「……そうね!」


そして。


「じゃあ、皆がずっと私を好きでいてくれるようにして!」


レオンは、息を止めた。


「……お嬢様」


「何?」


「……それは」


言いかけて、止まった。


前の世界で、聞いた声が蘇る。


『どうして、誰も私のことを好きになってくれないの?』


レオンは、少女を見つめた。


(……これか)


願いの形は違う。


しかし、同じところへ向かっている。


「……できません」


レオンは、初めてはっきり言った。


エリザベートは、目を丸くした。


「……何ですって?」


「人の心を、永遠に固定することはできません」


「……」


「それは、願ってはいけないことです」


少女の表情が変わった。


「……どうして?」


「……」


「どうして、私の願いを叶えてくれないの?」


レオンは、答えられなかった。


世界が壊れるから。


そう言えばいい。


しかし、証拠はない。


少女が信じる理由もない。


そして、彼は思ってしまった。


(……ここで、嫌われたら)


彼女のそばにいられなくなる。


次の願いを止められなくなる。


そうなれば、世界はまた壊れるかもしれない。


レオンは、口を開いた。


「……お嬢様」


「何よ」


「……少し、時間をください」


エリザベートは、しばらく彼を見つめた。


そして。


「……いいわ!」


笑った。


「あなたなら、きっとできるもの!」


レオンは、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


その瞬間。


彼は、二度目の嘘をついた。


*


三日後。


王都の空に、星が一つ現れた。


レオンは、窓からそれを見上げた。


「……」


一つ。


前の世界では、五つだった。


まだ、間に合う。


そう思った。


彼は、エリザベートのもとへ向かった。


「お嬢様」


「何?」


「……先日の願いについて、お話がございます」


少女は、嬉しそうに振り向いた。


「できたの!?」


「……いいえ」


「……」


「……取り消していただきたいのです」


エリザベートは、首を傾げた。


「どうして?」


「……危険だからです」


「何が?」


「……世界が」


「またそれ?」


少女は、少し呆れたように笑った。


「レオン、あなた、世界のことばっかりね!」


「……」


「私のことは、どうでもいいの?」


レオンは、言葉を失った。


少女は、窓の外を見た。


「……私、ただ」


小さく呟いた。


「……皆に、好きでいてほしいだけなのに」


レオンは、何も言えなかった。


その願いを否定する言葉が、見つからなかった。


しかし。


その夜。


星は、二つになった。


*


五日後。


王都の空が、赤く染まった。


レオンは、エリザベートの部屋へ走った。


「お嬢様!」


扉を開ける。


少女は、窓辺に立っていた。


空を見上げている。


「……レオン」


「……はい」


「……何か、変ね」


赤い亀裂が、広がっていた。


少女は、少し不安そうに尋ねた。


「……あれ、何?」


レオンは、答えた。


「……お嬢様の願いが、原因です」


エリザベートは、目を丸くした。


「……私の?」


「はい」


「……」


「……どうか、取り消してください」


少女は、しばらく黙っていた。


そして。


「……嫌よ」


小さく答えた。


レオンは、息を止めた。


「……なぜ」


「……だって」


少女は、窓の外を見た。


「……私、何も悪いことしてないもの」


レオンは、何も言えなかった。


少女は、ただ願っただけだった。


誰かを傷つけようとしたわけではない。


世界を壊そうとしたわけでもない。


しかし。


結果として、世界は壊れ始めていた。


レオンは、少女の前に膝をついた。


「……お願いします」


初めて、頭を下げた。


「……願いを、取り消してください」


エリザベートは、彼を見下ろした。


「……」


そして。


「……嫌」


もう一度、言った。


その瞬間。


窓の外で、赤い亀裂が大きく広がった。


*


レオンは、最後まで諦めなかった。


魔法で亀裂を閉じようとした。


失敗した。


星を壊そうとした。


壊せなかった。


エリザベートを説得しようとした。


彼女は、首を横に振った。


やがて、屋敷の壁が崩れ始めた。


使用人たちが、エリザベートを守るために集まった。


セバスチャンが、巨大な防壁を展開した。


レオンの魔法とは比べものにならないほど、強固な防壁だった。


しかし。


世界そのものが壊れる前では、意味がなかった。


「……レオン」


エリザベートが、彼を呼んだ。


「……はい」


「……どうして、こんなことになったの?」


レオンは、答えられなかった。


彼女は、泣いていなかった。


ただ、困っていた。


自分の願いが、なぜ世界を壊すのか。


理解できなかった。


レオンは、静かに答えた。


「……私が、間違えました」


エリザベートは、首を傾げた。


「……あなたが?」


「……はい」


「……」


「……最初から、嘘をつくべきではありませんでした」


少女は、しばらく彼を見つめた。


そして。


「……そう」


小さく答えた。


「……じゃあ、次は嘘をつかないでね」


レオンは、息を止めた。


次。


そんなものは、ないはずだった。


この世界は、もう終わる。


彼女も、自分も、死ぬ。


それなのに。


少女は、当たり前のように言った。


「……次は、ちゃんと教えてね」


レオンは、何も言えなかった。


赤い亀裂が、屋敷を飲み込んだ。


そして。


彼は、二度目の死を迎えた。


*


目を開けると、天井があった。


木造の、見慣れた天井。


レオンは、しばらく動かなかった。


階下から、ガルドの声が聞こえた。


「おい、レオン! 起きろ!」


彼は、ゆっくり身体を起こした。


机の上には、修理途中の時計。


壁には、古い外套。


窓の外には、青い空。


レオンは、震える手で暦を確認した。


十二月一日。


前より、二日早かった。


「……」


彼は、ベッドに腰掛けた。


そして、笑った。


乾いた、短い笑いだった。


「……次、か」


エリザベートの言葉が、頭の中で響いていた。


『次は、ちゃんと教えてね』


レオンは、顔を覆った。


「……あるんだな」


小さく呟いた。


「……次が」


しかし。


彼は、まだ知らなかった。


自分が戻ったのではないことを。


前の世界も、その前の世界も。


彼が死んだあと、消えたとは限らないことを。


そして。


これから何度も死ぬことになる自分が。


いつか、エリザベートの願いを叶えるために生きるようになることを。


第五十三話 終

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