第五十二話 最初の世界
悪役令嬢は愛されている
第五十二話 最初の世界
レオンが最初に死んだのは、十七歳の冬だった。
その頃の彼は、魔法が得意なだけの、ごく普通の少年だった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
*
王都の南にある、小さな魔術工房。
そこでレオンは、壊れた魔道具を修理して暮らしていた。
仕事は単純だった。
持ち込まれた品を調べ、壊れた術式を直し、代金を受け取る。
難しい仕事ほど報酬が高い。
だから、レオンは難しい仕事が好きだった。
「おい、レオン!」
工房の主人、ガルドが奥から怒鳴った。
「三番の時計、まだ終わらんのか!」
「終わりました」
「だったら持ってこい!」
レオンは、修理した時計を差し出した。
ガルドは針を確認した。
「……お前、これ、どうやって直した?」
「壊れていた部分を直しました」
「それを聞いてるんじゃねえ!」
「では、何を?」
ガルドは額を押さえた。
「……もういい」
レオンは、少しだけ笑った。
この工房で働き始めて三年。
ガルドは毎日のように怒鳴ったが、一度も給料を遅らせたことはなかった。
それだけで、レオンには十分だった。
「そういや、聞いたか?」
ガルドが言った。
「アルヴェイン公爵家が、また妙なことを始めたらしいぞ」
「……何をですか」
「冬に夏を作るんだと」
「……?」
「庭園を夏にしろって、娘が言い出したらしい」
レオンは、時計を磨く手を止めた。
「……冬なのに?」
「そうだ」
「……なぜ?」
「知らん!」
ガルドは笑った。
「貴族様の考えることなんざ、俺たちには分からんよ」
レオンは、少し考えた。
「……無駄ですね」
「何が?」
「冬に夏を作ることです」
「まあな」
「暖かい部屋を用意すれば済む話でしょう」
「それじゃ駄目なんだろ」
「……なぜ?」
「だから知らんって!」
レオンは、再び時計を磨き始めた。
そのときの彼にとって、エリザベート・アルヴェインとは、名前を聞いたことがあるだけの貴族令嬢だった。
会ったこともない。
話したこともない。
ましてや。
彼女のために、何度も死ぬことになるなど。
想像したことすらなかった。
*
三日後。
レオンは、王都の中央広場にいた。
修理した魔道具を納品するためだった。
広場には、普段より多くの人が集まっていた。
「何かあるんですか?」
レオンが尋ねると、近くの商人が答えた。
「公爵家の馬車が通るんだよ」
「……それだけで?」
「それだけで、ってお前……」
商人は呆れた。
「アルヴェイン家だぞ。王様だって頭を下げるような連中だ」
「……そうですか」
レオンは興味を失った。
納品を終えたら帰ろう。
そう思ったとき。
広場の向こうから、悲鳴が聞こえた。
「どいて!」
「馬が!」
一頭の馬が暴走していた。
荷車を引いたまま、人混みに突っ込んでくる。
御者は振り落とされ、手綱が宙を舞っていた。
レオンは、反射的に手を上げた。
「《拘束》」
青い魔法陣が広がる。
馬の脚が止まった。
荷車が大きく揺れたが、倒れなかった。
周囲から歓声が上がった。
「すげえ!」
「助かった!」
レオンは、馬に近づいた。
怯えた動物を落ち着かせる魔法を使おうとした、そのとき。
「邪魔よ!」
少女の声がした。
レオンが振り向く。
豪華な馬車の窓から、金髪の少女が顔を出していた。
「早くどかしなさい!」
彼女は、止まった馬を指さした。
「私の馬車が通れないじゃない!」
レオンは、しばらく少女を見つめた。
そして。
「……人が死にかけていたんですが」
そう答えた。
少女は、目を丸くした。
「だから?」
「……」
「助かったんでしょう?」
「……はい」
「だったら、もういいじゃない!」
レオンは、言葉を失った。
少女は、馬車の中へ顔を引っ込めた。
「セバスチャン! あの馬をどかして!」
「承知いたしました」
老執事が降りてくる。
彼は、レオンに深く頭を下げた。
「ご尽力、感謝いたします」
「……いえ」
「お嬢様がお急ぎですので、こちらはお任せください」
「……分かりました」
レオンは、魔法を解除した。
老執事が別の術式で馬を落ち着かせる。
荷車が移動する。
馬車が走り出した。
レオンは、その後ろ姿を見つめていた。
「……何なんだ、あれ」
彼が初めてエリザベートに会った日の感想は、それだけだった。
*
翌週。
王都の魔術師組合に、一枚の求人が貼り出された。
『アルヴェイン公爵家 専属魔術師募集』
報酬は、通常の十倍。
住居と食事が保証される。
さらに、採用者には王立魔術学院の研究資料を閲覧する権利が与えられるという。
レオンは、しばらく求人を眺めた。
「……十倍」
思わず声が出た。
隣でガルドが笑った。
「やめとけ」
「……なぜですか」
「お前、あの家の娘と会ったんだろ?」
「……はい」
「なら分かるだろ」
レオンは、少し考えた。
「……給料は魅力的です」
「命がいくつあっても足りねえぞ」
「……大げさですよ」
ガルドは、肩をすくめた。
「まあ、好きにしろ」
レオンは、応募用紙を取った。
それが、彼の人生で最初の間違いだった。
*
採用試験は、三日後に行われた。
場所は、アルヴェイン公爵邸。
受験者は、百四十二人。
試験内容は、当日まで知らされなかった。
レオンは、広い庭園に集められた魔術師たちを見回した。
年配の大魔術師。
王宮の元研究員。
軍の魔法部隊に所属していた者。
自分より優秀そうな人間が、いくらでもいた。
「……帰ろうかな」
小さく呟いたとき。
庭園の扉が開いた。
エリザベートが現れた。
「皆さん!」
少女は、満面の笑みで言った。
「今日は、私のために集まってくれてありがとう!」
受験者たちが、一斉に頭を下げた。
「それじゃあ、試験を始めるわ!」
彼女は、空を指さした。
「あのお月様を、私の部屋に持ってきなさい!」
沈黙。
昼間だった。
月は、空に見えなかった。
受験者の一人が、おそるおそる尋ねた。
「……お嬢様」
「何?」
「月を、でございますか」
「そうよ!」
「……本物の月を?」
「当たり前でしょう!」
受験者たちは、顔を見合わせた。
レオンは、思った。
(……無理だろ)
月を地上へ移動させる。
そんなことをすれば、世界の均衡が崩れる。
潮の流れも、夜の光も、すべてが変わる。
そもそも、月を動かす魔法など存在しない。
「……」
レオンは、手を挙げた。
「質問があります」
「何よ!」
「月を持ってくることは、不可能です」
庭園が静まり返った。
エリザベートは、目を丸くした。
「……何ですって?」
「不可能です」
「あなた、魔術師でしょう!」
「はい」
「だったら、できるでしょう!」
「できません」
少女の顔が赤くなった。
「……失礼ね!」
レオンは、静かに答えた。
「事実です」
「……」
「月を動かせば、世界に重大な影響が出ます」
エリザベートは、しばらく彼を睨んでいた。
そして。
「……じゃあ、あなたは失格よ!」
「……そうですか」
レオンは、あっさり頷いた。
「では、失礼します」
踵を返す。
その背中に、少女の声が飛んだ。
「待ちなさい!」
レオンは振り向いた。
「……何でしょう」
「あなた、私に逆らったわね!」
「……はい」
「……」
「ですが、不可能なことは不可能です」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……面白いわ!」
突然、笑った。
「あなた、名前は?」
「……レオンです」
「レオン!」
少女は、指を突きつけた。
「あなた、私の専属魔術師になりなさい!」
「……は?」
「決まりよ!」
レオンは、しばらく動かなかった。
そして。
「……お断りします」
そう答えた。
庭園が凍りついた。
セバスチャンが、一歩前へ出た。
「……レオン様」
「……はい」
「お嬢様のご命令でございます」
「……」
「お受けいただけますね」
レオンは、老執事を見た。
その瞬間。
身体が、重くなった。
膝が折れそうになる。
呼吸が浅くなる。
魔力が、急速に失われていく。
「……っ」
レオンは、地面に手をついた。
(……何だ、これ)
セバスチャンは、穏やかに微笑んでいた。
「いかがなさいましたか」
「……あなたが、何か……」
「私は、何もしておりません」
レオンは、歯を食いしばった。
魔法を使おうとする。
しかし、魔力が集まらない。
(……強い)
初めてだった。
自分の魔法が、何の抵抗もできずに封じられたのは。
エリザベートが、彼を見下ろした。
「……どうしたの?」
「……」
「さっきまで、偉そうだったじゃない!」
レオンは、答えなかった。
少女は、少し考えた。
そして。
「……まあ、いいわ!」
そう言って、セバスチャンに命じた。
「この人、帰してあげなさい!」
「承知いたしました」
次の瞬間。
身体が軽くなった。
魔力が戻る。
レオンは、ゆっくり立ち上がった。
「……」
セバスチャンは、深く頭を下げた。
「お疲れ様でございました」
レオンは、何も言わずに庭園を出た。
門を抜ける。
大通りに出る。
そこで、ようやく息を吐いた。
「……何なんだ、あの家は」
彼は、二度と関わるまいと思った。
*
その夜。
レオンは、工房に戻っていた。
ガルドが、酒を飲みながら笑った。
「だから言っただろ!」
「……はい」
「どうだった、アルヴェイン家は」
「……最悪でした」
「だろうな!」
レオンは、椅子に座った。
「……あの家の人間は、全員おかしいんですか」
「知らん」
「……」
「ただな」
ガルドは、少しだけ真面目な顔になった。
「お前が帰ってこられたなら、それでいい」
レオンは、顔を上げた。
「……どういう意味ですか」
「昔、あの家に雇われた魔術師がいたんだ」
「……」
「腕は良かった。俺なんかより、ずっとな」
ガルドは、酒を飲んだ。
「でも、半年で辞めた」
「……なぜ?」
「分からん」
「……」
「辞めたあと、一度だけ会ったんだが」
ガルドは、少し考えた。
「……変なことを言ってた」
「何を?」
「『あの家では、できないと言うことが一番難しい』ってな」
レオンは、黙った。
ガルドは笑った。
「まあ、お前には関係ない話だ」
「……そうですね」
レオンは、時計を手に取った。
壊れた歯車を交換する。
針が動き出す。
かち。
かち。
かち。
いつもどおりの夜だった。
*
翌朝。
王都に、奇妙な噂が流れた。
アルヴェイン公爵令嬢が、月を欲しがった。
その願いを叶えるため、百四十二人の魔術師が集められた。
そして。
そのうち、百四十一人が採用された。
レオンだけが、断った。
「……全員?」
工房で噂を聞いたレオンは、思わず聞き返した。
「そうらしいぞ」
ガルドが答えた。
「……何のために?」
「月を持ってくるためだろ」
「……」
レオンは、窓の外を見た。
青い空。
そこに、月は見えなかった。
(……本当に、やるつもりなのか)
胸の奥に、嫌な予感が生まれた。
しかし。
彼は、その予感を無視した。
自分には関係ない。
あの家とは、もう関わらない。
そう決めたのだから。
*
それから、二週間が過ぎた。
王都では、夜空に奇妙な光が現れるようになった。
最初は、小さな光だった。
星が一つ、増えたように見えた。
次の日には、二つ。
三日後には、五つ。
人々は、それを美しいと喜んだ。
「流れ星みたいだな」
「願い事をすると叶うらしいぞ」
「アルヴェイン家のお嬢様が作ったんだって」
レオンは、工房の屋根から空を見上げていた。
「……星?」
光は、動かなかった。
夜空の同じ場所に、固定されている。
(……魔法か)
彼は、目を細めた。
光の周囲に、薄い魔力の流れが見えた。
それは、通常の魔法とは違っていた。
術式がない。
魔力の供給源も分からない。
ただ、そこに存在している。
「……何だ、あれ」
レオンは、初めて不安を覚えた。
*
三日後。
王都の空が、赤く染まった。
夕焼けではなかった。
真昼だった。
太陽は、頭上にあった。
それなのに、空の一部が赤く裂けていた。
「……?」
レオンは、工房の窓から空を見た。
亀裂の向こうには、何もなかった。
黒でもない。
白でもない。
色という概念が、存在しないような空間だった。
「……ガルドさん」
返事はなかった。
振り向く。
ガルドは、床に倒れていた。
「……ガルドさん?」
レオンは駆け寄った。
肩を揺する。
反応がない。
呼吸は、ある。
しかし、目が開かない。
「……何が」
そのとき。
外から、悲鳴が聞こえた。
「空が!」
「逃げろ!」
「何なんだ、あれ!」
レオンは、工房を飛び出した。
通りには、人々が倒れていた。
建物の壁が、ゆっくりと崩れていく。
しかし、瓦礫は地面に落ちなかった。
空中で止まり、細かな光になって消えていく。
「……」
レオンは、空を見上げた。
赤い亀裂が、広がっていた。
王都の上空を覆うように。
そして。
亀裂の中心に、少女の声が響いた。
『……どうして?』
レオンは、息を止めた。
聞き覚えのある声だった。
『……どうして、誰も私のことを好きになってくれないの?』
エリザベート。
あの少女の声だった。
レオンは、空を見つめた。
「……何を、したんだ」
返事はなかった。
ただ、赤い亀裂が広がっていく。
そして。
世界が、壊れ始めた。
*
レオンは走った。
どこへ向かえばいいのか、分からなかった。
ただ、工房から離れたかった。
倒れている人々を避ける。
崩れる建物を避ける。
空から降ってくる、色のない光を避ける。
しかし。
逃げる場所など、なかった。
王都の外も、同じだった。
遠くの山が、消えていく。
川が、空へ流れ始める。
鳥が、羽ばたいたまま止まる。
レオンは、足を止めた。
「……嘘だろ」
空の亀裂が、彼の頭上まで広がった。
その向こうから、何かが覗いていた。
目ではない。
顔でもない。
ただ、見られていると分かった。
レオンは、魔法を使おうとした。
「《防壁》!」
青い魔法陣が広がる。
しかし、すぐに砕けた。
「……っ」
もう一度。
「《防壁》!」
砕けた。
三度目。
「《防壁》!」
今度は、魔法陣すら現れなかった。
レオンは、膝をついた。
(……無理だ)
何もできない。
魔法も。
知識も。
努力も。
何一つ、役に立たない。
そのとき。
彼は、初めて思った。
(……あの少女が、いなければ)
あの少女が、願わなければ。
こんなことには、ならなかったのではないか。
レオンは、空を見上げた。
「……エリザベート」
名前を呟いた。
その瞬間。
赤い亀裂が、彼の身体を貫いた。
痛みは、なかった。
ただ、世界が遠ざかっていく。
音が消えた。
光が消えた。
そして。
最後に見えたのは。
空に浮かぶ、五つの星だった。
*
目を開けると、天井があった。
木造の、見慣れた天井。
窓から、朝日が差し込んでいる。
レオンは、ゆっくり身体を起こした。
「……?」
工房だった。
自分の部屋だった。
机の上には、修理途中の時計。
壁には、古い外套。
窓の外から、馬車の音が聞こえる。
「……夢?」
レオンは、胸に手を当てた。
傷はない。
痛みもない。
しかし。
確かに、死んだはずだった。
赤い亀裂に貫かれて。
世界が壊れて。
自分も消えた。
「……」
レオンは、ベッドから降りた。
階段を下りる。
工房には、ガルドがいた。
「おう、起きたか!」
「……ガルドさん」
「何だ?」
「……生きてるんですか」
ガルドは、眉をひそめた。
「寝ぼけてんのか?」
「……」
「早く飯食え。今日は忙しいぞ」
レオンは、しばらくガルドを見つめていた。
そして。
「……今日は、何日ですか」
そう尋ねた。
ガルドは、壁の暦を指さした。
「十二月三日だろ」
レオンは、息を止めた。
十二月三日。
あの日だ。
アルヴェイン公爵家の求人が、魔術師組合に貼り出された日。
「……」
レオンは、窓の外を見た。
青い空。
何もない空。
まだ、星は増えていない。
まだ、亀裂もない。
まだ、世界は壊れていない。
「……戻った?」
小さく呟いた。
そのとき。
工房の扉が開いた。
一人の客が入ってきた。
「すみません」
若い女性だった。
「時計の修理をお願いしたいんですが」
レオンは、その女性を見た。
そして、動けなくなった。
その女性は。
前の世界で、赤い亀裂に飲み込まれて死んだ人間だった。
レオンは、確かに見ていた。
彼女が、目の前で消えるところを。
しかし。
今、彼女は生きている。
何も知らない顔で。
時計を差し出している。
「……どうかしました?」
女性が尋ねた。
レオンは、答えられなかった。
ただ、震える手で時計を受け取った。
そして。
初めて理解した。
自分は、死んだ。
けれど。
世界は、終わっていなかった。
少なくとも。
今、この世界では。
第五十二話 終




