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第五十一話 私のことを忘れなさい

悪役令嬢は愛されている


第五十一話 私のことを忘れなさい


ノアの部屋から、家具が消えた。


ベッドも、机も、本棚も。


壁に掛けられていた木剣まで。


残されたのは、青い毛布と、耳の欠けた木馬だけだった。


「……誰がやったの?」


エリザベートの声は低かった。


扉の前には、セバスチャンとレオン。


そして、部屋の中央にミラが立っていた。


「私だよ」


ミラは答えた。


「あなたが?」


「うん」


「どうして?」


「ノアに頼まれたから」


エリザベートは、しばらく彼女を見つめた。


「……戻しなさい」


「できない」


「戻しなさい!」


「ごめんね」


少女の声が廊下に響いた。


「私の家族の部屋を、勝手に片づけるんじゃないわよ!」


ミラは口を閉じた。


レオンが一歩進み出る。


「お嬢様。家具は廃棄されておりません。すべて隣室へ移されております」


「だったら戻せるでしょう!」


「はい」


「今すぐ!」


「承知いたしました」


使用人たちが動き出した。


ミラは止めなかった。


ただ、青い毛布を拾い上げた。


「……ノア、怒るかな」


エリザベートは振り返った。


「怒るなら、帰ってきてから怒ればいいのよ!」


◇


一時間前。


ミラは銀の鈴を通して、ノアと話していた。


『部屋を空にしてほしいんだ』


「どうして?」


『身体を作る場所が必要だから』


「ほかの部屋じゃ駄目?」


『僕が長く暮らした場所がいい。そこには、僕の形を覚えているものがあるから』


ミラは室内を見回した。


「家具とか?」


『うん。でも、術式を描くには邪魔になる』


「分かった」


『それと、エリザベートには――』


そこで声が途切れた。


「ノア?」


返事はない。


ミラは鈴を振った。


ちりん。


『……言わないで』


「何を?」


『僕が、何をしようとしているのか』


「……どうして?」


『あの子は、きっと止めるから』


ミラは眉を寄せた。


「帰ってきてほしいって言ってたよ」


『うん』


「だったら、喜ぶんじゃない?」


長い沈黙があった。


やがてノアは答えた。


『……僕が帰る方法を知ったら、怒ると思う』


◇


家具が戻される間、エリザベートはミラを庭園へ連れ出した。


「あなた、ノアの言うことなら何でも聞くの?」


「何でもじゃないよ」


「じゃあ、どうして私の部屋を空にしたの!」


「ノアの部屋でしょう?」


「私の家族の部屋よ!」


「……そっか」


ミラは考え込んだ。


「じゃあ、あなたにも聞けばよかったね」


「当たり前でしょう!」


「ごめんね」


エリザベートは腕を組んだ。


「それで?」


「何?」


「ノアは何をするつもりなの?」


ミラは黙った。


「言いなさい!」


「……約束したから」


「誰と?」


「ノアと」


「私には秘密にするって?」


ミラは頷いた。


エリザベートは、しばらく彼女を睨んだ。


そして、唐突に言った。


「じゃあ、その約束を破りなさい!」


「嫌だよ」


「何ですって?」


「私がノアにした約束だから」


「……」


「あなたに怒られても、守りたい」


エリザベートは目を丸くした。


ミラは逃げなかった。


二人はしばらく向かい合っていた。


やがてエリザベートが口を開く。


「……変な子ね」


「よく言われる」


「誰に?」


「初めて言われた」


「嘘つき!」


ミラが笑った。


エリザベートも、少しだけ笑った。


ただし、その直後に命じた。


「セバスチャン! この子の夕食からデザートを抜きなさい!」


「承知いたしました」


「えっ」


ミラの笑顔が消えた。


「それは困る」


「約束を守るんでしょう!」


「……うん」


「なら我慢しなさい!」


ミラは、今日初めて本気で悔しそうな顔をした。


◇


午後。


レオンはノアの部屋を調べていた。


家具が運び出された床には、薄い線が残っている。


円。


その内側に、七つの小さな印。


ミラが描いたものではない。


古い魔法陣だった。


六年前から、床板の下に隠されていたらしい。


レオンは膝をつき、指で線をなぞった。


「……存在の固定」


魔法陣の中心には、名前が刻まれていた。


NOAH ELDIS


その周囲に、もう一つ。


ELISABETH


二人の名前は、一本の線で結ばれていた。


レオンは、その線を見つめた。


第一部。


エリザベートが願いを取り消した瞬間。


空の亀裂が閉じた。


世界は救われた。


あの選択は、間違っていない。


何度試しても、あれ以外の結末では世界が裂けた。


だからこそ。


「……触れたくない」


誰にも聞こえない声が漏れた。


そのとき、背後で床板が鳴った。


「何に?」


ミラだった。


レオンは立ち上がった。


「……古い術式に、でございます」


「危ないの?」


「使い方によります」


「ノアが使うんだよ」


「……存じております」


ミラは魔法陣を覗き込んだ。


「これ、読める?」


「はい」


「何て書いてあるの?」


レオンは答えた。


「……二人の名前です」


「ノアとエリザベート?」


「はい」


ミラはしゃがみ込んだ。


「……私の名前、ないね」


「六年前に作られたものでしょう」


「そっか」


彼女は指で、二人の名前の間をなぞった。


「じゃあ、今度は三人にすればいいのかな」


レオンの表情が変わった。


「……お待ちください」


「何?」


「この術式は、安易に書き換えてよいものではございません」


「どうして?」


「……」


レオンは答えられなかった。


正確には、答えたくなかった。


彼は、この術式と似たものを知っている。


何度も見た。


何度も壊した。


そして、そのたびに世界が終わった。


ミラは立ち上がった。


「じゃあ、ノアに聞くね」


レオンは、思わず彼女の腕を掴みかけた。


しかし、途中で止めた。


「……はい」


ミラは不思議そうに彼を見た。


「レオンって、ノアのことになると変だね」


「……申し訳ございません」


「謝らなくていいよ」


彼女は鈴を取り出した。


「私、ただ帰ってきてほしいだけだから」


レオンは、何も言わなかった。


◇


その日の夕方。


エリザベートは、セバスチャンを呼びつけた。


「六年前のことを話しなさい!」


「……お嬢様」


「ノアがいなくなった日のことよ!」


老執事は深く頭を下げた。


「その件につきましては――」


「ノアに聞けって言うんでしょう!」


「……はい」


「じゃあ、ノアが帰ってきたら聞くわ!」


「承知いたしました」


「でも!」


エリザベートは机を叩いた。


「一つだけ教えなさい!」


「何でございましょう」


「私は、ノアがいなくなることを知っていたの?」


セバスチャンは、すぐには答えなかった。


長い沈黙のあと。


「……はい」


「……」


「お嬢様は、ご存じでした」


エリザベートは目を見開いた。


「じゃあ、どうして止めなかったの?」


「……」


「私なら、絶対に止めるでしょう!」


セバスチャンは、静かに目を伏せた。


「……止められました」


「……え?」


「お嬢様は、ノア様を引き止められました」


「……」


「しかし、最後には、お見送りになったのです」


エリザベートは、しばらく動かなかった。


そして。


「……私が?」


小さく尋ねた。


「はい」


「……どうして?」


「それは、ノア様からお聞きください」


少女は唇を噛んだ。


「……分かったわ」


それから、椅子を蹴るように立ち上がった。


「でも、帰ってきたら絶対に怒るから!」


セバスチャンは深く頭を下げた。


「承知いたしました」


◇


夜。


ミラは客室で、銀の鈴を鳴らしていた。


ちりん。


『……ミラ』


「ノア」


『……うん』


「部屋、元に戻されちゃった」


『……そう』


「エリザベート、すごく怒ってたよ」


ノアは少し笑った。


『……だろうね』


「ねえ」


『……何?』


「どうして、エリザベートに秘密にするの?」


沈黙。


ミラは続けた。


「あなた、帰りたいんでしょう?」


『……うん』


「エリザベートも、帰ってきてほしいって言ってる」


『……』


「だったら、二人で話せばいいじゃない」


長い沈黙のあと。


ノアが答えた。


『……昔、約束したんだ』


「何を?」


『……僕がいなくなっても、探さないでって』


「……」


『……でも、あの子は嫌だって言った』


ミラは、静かに聞いていた。


『……だから、もう一つ約束した』


「……何を?」


ノアは、少しだけ笑った。


『……僕が帰るまで、僕のことを忘れていてって』


ミラは息を止めた。


『……あの子は、怒ったよ』


「……」


『……でも、最後には約束してくれた』


「……それで、忘れたの?」


『……うん』


ミラは、しばらく黙っていた。


そして。


「……それ、ひどくない?」


小さく言った。


ノアは答えなかった。


「帰ってくるまで忘れててって」


「……」


「でも、帰ってこなかったんでしょう?」


長い沈黙。


やがて。


『……そうだね』


ノアは、静かに答えた。


『……僕が、約束を破ったんだ』


◇


同じ夜。


エリザベートはノアの部屋で眠っていた。


夢を見た。


六年前。


庭園の大きな木の下。


黒い髪の少年が、彼女の前にしゃがんでいる。


『エリザベート』


『何よ!』


『僕がいなくなったら、どうする?』


『探すわ!』


『……そうだよね』


『当たり前でしょう!』


少年は、少し困ったように笑った。


『じゃあ、約束してほしいことがあるんだ』


『何?』


『……僕が帰ってくるまで、僕のことを忘れていて』


幼い少女は、怒った。


『嫌よ!』


『……』


『そんなの、絶対に嫌!』


少年は、何も言わなかった。


しばらくして。


少女が、小さく尋ねた。


『……帰ってくるの?』


少年は頷いた。


『うん』


『絶対?』


『絶対』


『……』


『約束する』


少女は、しばらく考えた。


そして。


『……じゃあ』


小さな手を差し出した。


『……絶対に、帰ってきなさいよ』


少年は、その手を握った。


『……うん』


二人は、指切りをした。


その瞬間。


夢の景色が、白く染まった。


◇


エリザベートは、目を覚ました。


窓の外は、まだ暗い。


少女は、しばらく天井を見つめていた。


そして。


「……ノア」


小さく呟いた。


枕元の銀の鈴が鳴った。


ちりん。


『……エリザベート?』


声がした。


少女は、鈴を掴んだ。


「……思い出したわ」


『……』


「あなた、私に忘れろって言ったでしょう!」


長い沈黙。


そして。


『……うん』


ノアは答えた。


エリザベートは、怒った。


「だったら、早く帰ってきなさいよ!」


『……』


「私、ずっと待ってたんだから!」


ノアは、何も言わなかった。


ただ。


『……ごめんね』


小さく呟いた。


少女は、鈴を握りしめた。


「謝るくらいなら、帰ってきなさい!」


『……うん』


「絶対よ!」


『……約束する』


鈴の音が、静かに響いた。


ちりん。


ちりん。


そして。


『……あと、四日』


ノアは、静かに言った。


『……必ず、帰るよ』


第五十一話 終

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