第四十四話 お父様の休日
悪役令嬢は愛されている
第四十四話 お父様の休日
アルヴェイン公爵アウグストには、三つの仕事がある。
一つ、王国の政治を支えること。
二つ、アルヴェイン領を統治すること。
三つ、娘のわがままを聞くこと。
最も難しいのは、三つ目だった。
「お父様!」
執務室の扉が開いた。
「今日は、お仕事禁止よ!」
アウグストは書類から顔を上げた。
「……どうしてだい?」
「お休みの日だから!」
「今日は平日だよ」
「私が決めたの!」
「そうか」
公爵は笑った。
「では、今日は何をしようか」
「何もしないわ!」
「……何もしない?」
「そうよ!」
エリザベートは胸を張った。
「お父様を、長生きさせるの!」
◇
その日の朝。
エリザベートは、エルマーから一つの話を聞いていた。
「人間の寿命には、生活習慣が影響いたします」
「生活習慣?」
「はい。十分な睡眠、適度な運動、栄養のある食事、そして休養です」
「休養?」
「心身を休ませることでございます」
「……」
少女は、しばらく考えた。
そして。
「じゃあ、お父様は毎日休めばいいのね!」
エルマーは、少し困った顔をした。
「……毎日というのは」
「何?」
「適度な活動も必要でございます」
「……」
「運動も、健康には重要です」
エリザベートは、目を輝かせた。
「じゃあ!」
勢いよく立ち上がった。
「お父様を、いっぱい運動させるわ!」
エルマーは、静かに頭を下げた。
「……ほどほどにお願いいたします」
◇
午前十時。
公爵邸の庭園。
アウグストは、運動着を着せられていた。
「……エリザベート」
「何?」
「これは、何かな」
「運動よ!」
少女は、巨大な障害物競走のコースを指さした。
高さ五メートルの壁。
幅十メートルの水路。
燃え盛る輪。
そして、最後には巨大な黒竜ポチが待ち構えている。
「……」
アウグストは、しばらくコースを見つめた。
「……少し、難しそうだね」
「大丈夫よ!」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「お父様なら、できるわ!」
そのとき、レオンが現れた。
「お嬢様」
「何?」
「こちらのコースでは、旦那様の寿命が縮む可能性がございます」
「……」
少女は、目を見開いた。
「……何ですって?」
「心臓への負担が大きすぎます」
「……」
「特に、最後の竜との戦闘は」
「戦闘じゃないわ!」
エリザベートは頬を膨らませた。
「ポチと遊ぶのよ!」
ポチが大きく口を開けた。
鋭い牙が並んでいる。
アウグストは、静かに微笑んだ。
「……なるほど」
レオンは、深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
そして、少女に尋ねた。
「では、旦那様の健康に適した運動へ変更してもよろしいでしょうか」
「……」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……いいわ!」
こうして。
高さ五メートルの壁は、三十センチになった。
水路は、小さな水たまりになった。
燃え盛る輪は、花の輪になった。
そして、ポチは。
「……」
巨大な黒竜のままだった。
「ポチは、そのままでいいわ!」
少女は、満足そうに笑った。
◇
午前十一時。
アウグストは、庭園を歩いていた。
隣には、エリザベート。
後ろには、レオン。
「お父様!」
「何だい?」
「もっと早く!」
「……これくらいかな」
「遅いわ!」
「……」
「走りなさい!」
アウグストは、少し笑った。
「……分かった」
公爵は、軽く走り始めた。
少女も、その隣を走った。
「ふふっ!」
庭園に、笑い声が響いた。
しばらくして。
「……はあ、はあ」
アウグストが足を止めた。
「……少し、休もうか」
「駄目よ!」
少女は、頬を膨らませた。
「まだ、十周しかしてないわ!」
レオンが、静かに声をかけた。
「お嬢様」
「何?」
「旦那様には、休養も必要でございます」
「……」
「運動と休養は、両方必要です」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……じゃあ」
小さく呟いた。
「……休みなさい!」
アウグストは、ほっと息を吐いた。
「ありがとう」
◇
昼食。
エリザベートは、父親の皿に大量の野菜を盛っていた。
「お父様!」
「何だい?」
「全部食べなさい!」
「……これは、少し多いね」
「健康のためよ!」
「……」
「残しちゃ駄目!」
アウグストは、困ったように笑った。
「……分かった」
そのとき。
エレオノーラが、食堂へ入ってきた。
「何をしているの?」
「お父様を長生きさせているの!」
「……そう」
エレオノーラは、夫の皿を見た。
山のような野菜。
そして、疲れ切った顔。
「……あなた」
「……ああ」
「……大丈夫?」
アウグストは、静かに微笑んだ。
「……たぶんね」
エレオノーラは、娘を見た。
「エリザベート」
「何?」
「お父様は、野菜が嫌いなわけではないけれど」
「……」
「これだけ食べると、お腹を壊すかもしれないわ」
少女は、目を丸くした。
「……そうなの?」
「ええ」
「……」
エリザベートは、しばらく皿を見つめた。
そして。
「……じゃあ!」
勢いよく立ち上がった。
「残りは、レオンが食べなさい!」
レオンは、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
午後。
アウグストは、庭園の椅子に座っていた。
隣には、エリザベート。
二人は、何もしていなかった。
「……」
「……」
しばらくして。
「……お父様」
「何だい?」
「……つまらないわ」
アウグストは、少し笑った。
「……そうか」
「……」
「……何か、したいことはあるかい?」
少女は、少し考えた。
そして。
「……ないわ!」
「……」
「だって、今日は何もしない日なんだもの!」
アウグストは、静かに頷いた。
「……そうだね」
二人は、また黙った。
風が吹く。
木々が揺れる。
遠くで、ポチが欠伸をした。
しばらくして。
エリザベートが、父親の肩に寄りかかった。
「……ねえ」
「何だい?」
「……お父様」
「うん」
「……長生きしてね」
アウグストは、娘の頭を撫でた。
「……ああ」
「……」
「……できる限りね」
少女は、頬を膨らませた。
「また、それ!」
アウグストは、笑った。
「ははは」
◇
夕方。
セバスチャンは、アウグストに報告していた。
「旦那様」
「何だい?」
「本日の業務についてでございます」
「……ああ」
「お嬢様のご命令により、すべて停止しております」
「……」
「そのため、明日の業務量が三倍になりました」
アウグストは、静かに目を閉じた。
「……そうか」
「はい」
「……」
「……いかがなさいますか」
アウグストは、しばらく考えた。
そして。
「……明日、頑張るよ」
静かに答えた。
セバスチャンは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
その夜。
エリザベートは、レオンを呼び出した。
「レオン!」
「はい、お嬢様」
「お父様、長生きできそう?」
「健康状態は良好でございます」
「まあ!」
少女は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、成功ね!」
「はい」
「ふふっ!」
少女は、満足そうに頷いた。
そして。
「……ねえ」
「はい」
「……向こうのお父様も、長生きするかしら」
レオンは、少し考えた。
「……その可能性はございます」
「……」
「……ですが、未来のことは、まだ分かりません」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……じゃあ」
小さく笑った。
「……また死んだら、生き返らせればいいわ!」
レオンは、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
◇
深夜。
エレオノーラは、夫の執務室を訪ねた。
アウグストは、大量の書類に囲まれていた。
「……あなた」
「……ああ」
「……まだ、お仕事?」
「……明日の分を、少しだけ」
エレオノーラは、机の上を見た。
書類の山。
そして、疲れ切った夫。
「……エリザベートは、あなたを長生きさせたいのよね」
「……ああ」
「……」
「……でも」
アウグストは、少し笑った。
「……今日が、一番疲れたかもしれない」
エレオノーラは、静かに笑った。
「……そうね」
そして。
「……あなた」
「何だい?」
「……明日は、私が休ませるわ」
アウグストは、目を丸くした。
「……本当かい?」
「ええ」
「……」
「……ただし」
エレオノーラは、微笑んだ。
「……仕事は、全部終わらせてからね」
アウグストは、静かに目を閉じた。
「……そうか」
◇
翌朝。
エリザベートは、父親の執務室に飛び込んだ。
「お父様!」
「おはよう、エリザベート」
「今日も、お休みよ!」
アウグストは、書類を見た。
そして、娘を見た。
「……エリザベート」
「何?」
「……父さんは、今日も休むのかい?」
「そうよ!」
「……」
「だって、長生きしてほしいんだもの!」
アウグストは、静かに笑った。
「……ありがとう」
そして。
「……でも、今日は少し仕事をさせてくれないかな」
少女は、目を丸くした。
「……どうして?」
「……仕事も、父さんの大切なことだからね」
「……」
エリザベートは、しばらく考えた。
そして。
「……じゃあ!」
勢いよく言った。
「私も、お仕事するわ!」
アウグストは、目を見開いた。
「……え?」
「私が手伝えば、早く終わるでしょう!」
「……」
「ふふっ!」
少女は、満面の笑みを浮かべた。
「今日は、私が公爵になるわ!」
アウグストは、静かに目を閉じた。
「……そうか」
第四十四話 終




