第四十一話 お父様は私のもの
悪役令嬢は愛されている
第四十一話 お父様は私のもの
「お父様を生き返らせられるかもしれません」
レオンがそう告げたとき、もう一人のエリザベートは花瓶を投げつけた。
水晶の花瓶が壁に当たり、砕け散る。
『嘘つき!』
光の幕の向こうで、少女が叫んだ。
『みんな、そう言ったわ!』
こちらの研究室にまで、割れた花瓶の音が届いた。
『できるかもしれない。きっとできる。もう少し待ってくださいって!』
金色の髪が乱れている。
『それで三年よ!』
向こうのレオンは、黙って少女の隣に立っていた。
『三年も待ったの!』
こちらのレオンは、頭を下げなかった。
「はい」
『……』
「三年間、待たれたのですね」
『そうよ!』
「でしたら、これ以上、根拠のない約束はいたしません」
少女の怒りが、一瞬止まった。
「公爵様の魂を取り戻せる可能性が見つかりました。しかし、蘇生できるかどうかは、まだ分かりません」
『……』
「それを確かめるために、お嬢様のご協力が必要です」
向こうのエリザベートは、割れた花瓶を見た。
そして、低い声で言った。
『……嫌よ』
「承知いたしました」
『……』
『……え?』
「お嬢様がお望みでなければ、行いません」
少女は、しばらくこちらを見つめた。
『……あなた』
「はい」
『……本当に、レオンなの?』
「はい」
『……変なレオンね』
その言葉に、隣の青年が小さく笑った。
◇
「どうして断られたの?」
こちらのエリザベートは、研究室の長椅子に座り、足を揺らしていた。
「お父様が戻ってくるかもしれないのに!」
レオンは答えた。
「向こうのお嬢様には、向こうのお嬢様のお考えがございます」
「私なのに?」
「はい」
「変なの!」
少女は頬を膨らませた。
「私なら、絶対に生き返らせるわ!」
「左様でございますか」
「そうよ!」
エリザベートは立ち上がった。
「じゃあ、私が代わりに決める!」
「……」
「同じ私なんだから、いいでしょう!」
レオンは少女を見た。
「お嬢様」
「何?」
「向こうのお嬢様は、こちらのお嬢様とは別の方でございます」
「でも、私よ!」
「はい。よく似ておられます」
「だったら!」
「しかし、同じものをお望みになるとは限りません」
エリザベートは眉をひそめた。
「……あなた、私の命令を聞かないつもり?」
「いいえ」
レオンは一礼した。
「お嬢様が向こうの世界へ行くことをお望みでしたら、その方法を探します」
「……」
「ですが、向こうのお嬢様の願いを、こちらのお嬢様が決めることはできません」
少女は、しばらく黙った。
そして。
「……じゃあ!」
突然、笑った。
「向こうの私に、私の言うことを聞かせればいいじゃない!」
レオンは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そのようにお考えでしたか」
「当たり前でしょう!」
少女は胸を張った。
「私、私には負けないもの!」
◇
その日の午後。
アルヴェイン公爵邸の大広間には、奇妙なものが運び込まれていた。
巨大な鏡。
金色の額縁。
その前には、二脚の椅子。
一脚は赤。
もう一脚は青。
「何ですか、これは」
エレオノーラが尋ねると、マリアンヌが答えた。
「お嬢様のご命令でございます」
「……何のために?」
「お嬢様同士で、勝負をなさるそうです」
エレオノーラは、しばらく鏡を見つめた。
「……勝負?」
「はい」
「何を競うの?」
「それは、まだ」
そのとき。
「決まったわ!」
エリザベートが駆け込んできた。
「私と私で、どっちが偉いか決めるの!」
エレオノーラは娘を見た。
「……どうやって?」
「命令よ!」
「……」
「先に相手を言うことを聞かせた方が勝ち!」
エレオノーラは、ゆっくりと目を閉じた。
「……なるほど」
「素敵でしょう!」
「……そうね」
その返事を聞いて、エリザベートは満足そうに笑った。
◇
夕方。
鏡の表面に、向こうの世界が映し出された。
もう一人のエリザベートが、青い椅子に座っている。
『……何、これ』
「勝負よ!」
こちらの少女が宣言した。
『……は?』
「どっちが偉いか決めるの!」
『……』
向こうのエリザベートは、しばらく黙った。
そして。
『……私が偉いに決まってるでしょう』
「まあ!」
こちらの少女は、目を輝かせた。
「やっぱり私ね!」
『……意味が分からないわ』
「じゃあ、始めるわよ!」
『……』
「私の言うことを聞きなさい!」
向こうのエリザベートは、即答した。
『嫌よ』
「もう!」
こちらの少女は、頬を膨らませた。
「じゃあ、あなたも命令しなさい!」
向こうの少女は、少し考えた。
そして。
『……帰りなさい』
「嫌よ!」
『……』
「ふふっ!」
こちらのエリザベートは笑った。
「これで引き分けね!」
向こうの少女は、額に手を当てた。
『……馬鹿みたい』
「私が馬鹿ですって!」
『そうよ』
「あなたも私でしょう!」
『……』
向こうの少女は、言葉に詰まった。
その瞬間。
こちらのエリザベートは、立ち上がった。
「私の勝ち!」
『……何でよ!』
「あなた、何も言えなかったもの!」
『……』
「ふふっ!」
向こうのエリザベートは、深く息を吐いた。
そして。
ほんの少しだけ。
笑った。
◇
その笑顔を見た瞬間。
向こうのレオンが、目を見開いた。
『……お嬢様』
少女は振り返る。
『何?』
『……いえ』
青年は、静かに頭を下げた。
『……何でもございません』
こちらのレオンは、その様子を見ていた。
そして、気づいた。
向こうのエリザベートは、笑ったことに気づいていない。
しかし、向こうのレオンは気づいていた。
彼は、その小さな変化を、何よりも大切そうに見つめていた。
◇
「ねえ!」
こちらのエリザベートが、再び声を上げた。
「お父様を生き返らせたいんでしょう?」
向こうの少女の表情が、消えた。
『……』
「だったら、やればいいじゃない!」
『……』
「私なら、そうするわ!」
向こうのエリザベートは、しばらく黙っていた。
そして。
『……あなたには、分からないわ』
静かに答えた。
「じゃあ、教えなさい!」
『……』
「私、知らないことが嫌いなの!」
向こうの少女は、目を伏せた。
『……お父様が死んだ日』
小さく呟いた。
『……私は、何もできなかった』
「……」
『……レオンも死んでいた』
こちらのレオンが、わずかに顔を上げた。
『……お母様は、王都から避難していた』
「……」
『……私だけが、残っていた』
向こうのエリザベートは、手を握りしめた。
『……みんな、私の命令を待っていた』
「……」
『……でも』
少女の声が震えた。
『……何を命令すればいいのか、分からなかった』
大広間が静まり返った。
『……お父様を生き返らせなさいって、何度も言ったわ』
「……」
『……でも、できなかった』
向こうの少女は、唇を噛んだ。
『……だから』
小さく呟いた。
『……もう、命令したくないの』
こちらのエリザベートは、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……変なの」
小さく言った。
向こうの少女が顔を上げる。
『……何が?』
「命令しなかったら、誰も何もしてくれないじゃない!」
『……』
「それに!」
こちらのエリザベートは、胸を張った。
「失敗したら、もう一回命令すればいいのよ!」
向こうの少女は、目を見開いた。
『……』
「私、何回でも命令するわ!」
『……』
「だって、私のお願いなんだもの!」
沈黙。
向こうのエリザベートは、しばらくこちらを見つめていた。
そして。
『……あなた』
小さく呟いた。
『……本当に、何も知らないのね』
こちらのエリザベートは、満面の笑みを浮かべた。
「そうよ!」
『……』
「だから、教えてって言ってるでしょう!」
◇
その言葉に、向こうのレオンが顔を上げた。
『……お嬢様』
向こうのエリザベートが振り返る。
『何?』
『……一つ、お願いしてもよろしいでしょうか』
『……』
『……公爵様の魂について、調べさせてください』
少女は、しばらく黙った。
そして。
『……嫌よ』
青年は、頭を下げた。
『承知いたしました』
『……』
少女は、目を伏せた。
『……でも』
小さく呟いた。
『……もし、本当に生き返らせられるなら』
青年が顔を上げる。
『……』
『……私、また失敗するかもしれない』
向こうのレオンは、静かに答えた。
『……はい』
『……』
『……それでも、よろしければ』
少女は、目を見開いた。
『……何?』
『……もう一度、私に命令してください』
長い沈黙。
そして。
『……レオン』
『はい』
『……お父様を』
少女は、言葉を詰まらせた。
『……お父様を、返して』
青年は、深く頭を下げた。
『……承知いたしました』
◇
接続が切れた後。
エリザベートは、椅子に座ったまま、鏡を見つめていた。
「……ねえ、レオン」
「はい、お嬢様」
「……あの私、泣いてばっかりね」
「……左様でございますね」
「……」
少女は、少し考えた。
そして。
「……でも」
小さく呟いた。
「……最後は、命令できたわね!」
レオンは、静かに頷いた。
「はい」
エリザベートは、満足そうに笑った。
「ふふっ!」
そして。
「……ねえ」
「はい」
「……あなたも、失敗するの?」
レオンは、少し考えた。
そして。
「……はい」
静かに答えた。
「……何度も、失敗してまいりました」
少女は、目を瞬かせた。
「……そうなの?」
「はい」
「……」
「……今も、失敗することがございます」
エリザベートは、しばらく彼を見つめていた。
そして。
「……じゃあ」
小さく笑った。
「……失敗したら、もう一回やりなさい!」
レオンは、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
◇
深夜。
研究室。
レオンは、古い禁書を開いていた。
魂の譲渡契約。
所有者の意思による解除。
そして、蘇生。
彼は、静かにページをめくった。
そのとき。
一つの記述が目に入った。
譲渡された魂は、所有者の願いを叶えるために消費される。
レオンは、目を細めた。
「……願いを叶えるために」
小さく呟いた。
向こうのエリザベート。
彼女は、父親が死んだ後、何度も願った。
お父様を生き返らせて。
お父様を返して。
そして。
その願いを叶えるために、父親の魂が消費されていたとしたら。
レオンは、静かに本を閉じた。
「……」
彼は、まだ答えを出さなかった。
ただ、一つだけ。
確かめなければならないことがあった。
向こうのエリザベートは、父親の魂を、どれほど残しているのか。
第四十一話 終




