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第四十話 私のものなら返さないわ

悪役令嬢は愛されている


第四十話 私のものなら返さないわ


『公爵様は、死ぬ前にご自身の魂をお嬢様へ渡していた』


光の幕の向こうで、もう一人のレオンがそう告げた。


こちらのレオンは、すぐには答えなかった。


「……魂を、ですか」


『ああ』


「どのような術式でしょう」


『契約魔法だ。正確には、所有権の譲渡に近い』


「……」


『公爵様は、ご自身の魂をお嬢様の所有物にした』


レオンは眉を寄せた。


魂の所有権。


それ自体は、珍しい魔法ではない。


悪魔との契約。


死霊術。


古い王家の誓約。


しかし、人間が自分の魂を娘に譲渡するという話は、聞いたことがなかった。


「……目的は?」


『分からない』


「お嬢様は、そのことをご存じなのですか」


『知らない』


「では、誰が契約を成立させたのでしょう」


向こうのレオンは、机に一枚の紙を置いた。


『公爵様の遺品から、これが見つかった』


古びた契約書だった。


そこには、短い文章が記されていた。


我が魂のすべてを、エリザベート・フォン・アルヴェインに譲渡する。


そして、署名。


アウグスト・フォン・アルヴェイン。


レオンは文字を見つめた。


「……契約の相手は、お嬢様ご本人ではないのですね」


『どういう意味だ』


「所有者と、契約を成立させた相手は、必ずしも同じではございません」


向こうのレオンは黙った。


「誰がこの契約を受理したのか。それを調べる必要がございます」


『……分かった』


「それから、一つ」


『何だ』


「この契約書だけでは、公爵様の魂が実際に移動した証拠にはなりません」


向こうのレオンは、しばらくこちらを見ていた。


そして、頷いた。


『……そうだな』


その返事に、レオンは少しだけ安堵した。


同じ顔をした青年は、少なくとも自分の知らないことを知っている。


だが、彼もまた、すべてを知っているわけではなかった。


◇


翌朝。


「私のものなら、返さないわ!」


エリザベートは、きっぱりと言った。


レオンは、少女の髪を梳いていた手を止めた。


「……何のお話でしょうか」


「お父様の魂よ!」


「……」


「昨日、お父様が私に魂をくれたって言ってたでしょう?」


レオンは鏡越しに少女を見た。


「……お聞きになっていたのですか」


「途中からね!」


昨夜、エリザベートは父親とのかくれんぼを終えた後、眠れずに廊下を歩いていた。


研究室から聞こえてきた話を、少しだけ聞いたらしい。


「それで?」


少女は椅子の上で振り返った。


「魂って、何に使うの?」


「……用途によります」


「食べられる?」


「おすすめいたしません」


「飾れる?」


「形を与えれば可能です」


「じゃあ、綺麗な宝石にしなさい!」


レオンは櫛を置いた。


「お嬢様」


「何?」


「魂は、単なる宝石とは異なります」


「知ってるわ!」


「……」


「だって、お父様のものでしょう?」


レオンは少女を見つめた。


「……はい」


「だったら、綺麗にしなくちゃ!」


エリザベートは笑った。


「お父様、綺麗なものが好きだもの!」


◇


午前十時。


公爵邸の応接室に、アウグスト、エレオノーラ、エルマー、セバスチャン、レオンが集まっていた。


中央の机には、向こうの世界から送られた契約書の写しが置かれている。


アウグストは、それを読んでいた。


「……私の署名だね」


エレオノーラが尋ねた。


「覚えはある?」


「ないよ」


「本当に?」


「ああ」


公爵は苦笑した。


「少なくとも、今の私はこんな契約を結んでいない」


エルマーが紙を手に取った。


「術式の痕跡はございます。ただし、かなり特殊です」


「どのように?」


セバスチャンが尋ねた。


「通常、魂の譲渡には受取人の同意が必要です」


「……」


「しかし、この契約では受取人の意思が確認できません」


エレオノーラが口を開いた。


「では、契約は無効なの?」


「いいえ。成立しております」


「……どうして?」


エルマーは紙の裏面を示した。


そこには、細い文字が浮かんでいた。


受取人の意思確認を免除する。


「……誰が、そんなことを」


アウグストが呟いた。


エルマーは首を振った。


「分かりません」


そのとき。


「お嬢様なら、ご存じかもしれません」


セバスチャンが言った。


全員が彼を見た。


「お嬢様は、幼い頃から多くの願いを口になさっております」


「……」


「その中に、魂の譲渡に関わるものがあった可能性も」


エレオノーラは、静かに首を振った。


「可能性だけで、あの子の願いに結びつけるべきではないわ」


セバスチャンは頭を下げた。


「……失礼いたしました」


レオンは契約書を見つめていた。


そして、ふと気づいた。


署名の下。


肉眼ではほとんど見えない、小さな文字。


譲渡者の死亡をもって、契約を完了する。


レオンは、その一文を指さした。


「……エルマー様」


「はい」


「これは、どういう意味でしょうか」


エルマーは目を細めた。


そして。


「……なるほど」


小さく呟いた。


「この契約は、生前には成立しないのです」


「……」


「死亡した瞬間に、魂の所有権が移る」


アウグストは、静かに息を吐いた。


「……つまり」


エルマーは頷いた。


「公爵様は、ご自身が死んだ後のために、この契約を結んだことになります」


◇


昼過ぎ。


エリザベートは、父親の執務室へやってきた。


「お父様!」


「どうした、エリザベート」


「魂をちょうだい!」


アウグストは、手にしていた書類を落とした。


「……魂?」


「そうよ!」


少女は、当然のように手を差し出した。


「私にくれるんでしょう?」


アウグストは、しばらく娘を見つめた。


そして。


「……誰から聞いたんだい?」


「レオンよ!」


「……」


「正確には、レオンが誰かと話していたのを聞いたの!」


アウグストは苦笑した。


「……そうか」


「ねえ、早く!」


「……エリザベート」


「何?」


「父さんの魂は、まだ父さんのものだよ」


「どうして?」


「まだ生きているからね」


「……」


少女は、少し考えた。


そして。


「じゃあ、死んだら私のものになるの?」


アウグストは答えなかった。


エリザベートは、父親の顔を覗き込んだ。


「ねえ!」


「……」


「死んだら、私にくれる?」


アウグストは、ゆっくりと娘の手を取った。


「……父さんは」


少し言葉を選んだ。


「……死んだ後も、君のことを大切に思っていたいな」


エリザベートは眉をひそめた。


「そんなの、当たり前でしょう!」


「そうかい?」


「だって、お父様なんだもの!」


アウグストは笑った。


「……そうだね」


◇


午後三時。


研究室。


レオンは、エルマーと共に契約書を調べていた。


「……この術式」


エルマーが呟いた。


「どこかで見たことがあります」


「どちらで?」


「古い禁書です」


「……」


「魂を他者へ譲渡することで、死後もその者を守る契約」


レオンは顔を上げた。


「……守る?」


「はい」


エルマーは書棚から一冊の本を取り出した。


題名は、擦り切れて読めない。


ページをめくる。


そこには、古い魔法陣が描かれていた。


「この契約は、魂を所有させることが目的ではありません」


「……」


「譲渡された魂は、所有者に危険が迫ったとき、身代わりとして消費されるのです」


レオンは、目を細めた。


「……つまり」


「はい」


エルマーは、静かに答えた。


「公爵様は、ご自身の死後も、お嬢様を守ろうとなさったのでしょう」


沈黙。


レオンは、契約書を見つめた。


向こうの世界。


燃える王都。


公爵の死。


そして、泣いていたエリザベート。


「……」


彼は、静かに尋ねた。


「……魂が消費された場合、蘇生は可能でしょうか」


エルマーは首を振った。


「分かりません」


「……」


「ですが、魂そのものが完全に失われた場合、通常の蘇生術では戻せません」


レオンは、目を閉じた。


◇


夕方。


エリザベートは、庭園でポチと遊んでいた。


巨大な黒竜の背中に寝転がり、空を見上げている。


「ねえ、ポチ!」


黒竜が低く唸った。


「あなた、死んだことある?」


ポチは首を傾げた。


「ないの?」


再び、低い唸り声。


「つまらないわ!」


少女は笑った。


そして。


「……ねえ」


小さく呟いた。


「……死んだ後も、誰かを守れるのかしら」


ポチは答えなかった。


エリザベートは、しばらく空を見つめた。


そして。


「……だったら」


小さく笑った。


「……お父様は、ずっと私を守ってくれるのね!」


◇


その夜。


レオンは、向こうの世界と接続した。


光の幕に、もう一人のレオンが現れる。


『……何か分かったか』


「はい」


レオンは、契約の内容を説明した。


向こうのレオンは、黙って聞いていた。


そして。


『……そうか』


小さく呟いた。


『……だから、蘇生できなかったのか』


「可能性はございます」


『……』


「ですが、魂が完全に消費されたかどうかは、まだ分かりません」


向こうのレオンは、目を閉じた。


『……分かった』


そして。


『……お前に、一つ聞きたい』


「何でしょう」


『……もし』


青年は、静かに続けた。


『……お嬢様が、自分のために誰かが死んだと知ったら』


「……」


『……お前なら、どうする』


レオンは、しばらく黙っていた。


そして。


「……まず、お嬢様にお伝えします」


『……』


「その方が、なぜそうなさったのかを」


向こうのレオンは、目を細めた。


『……それで?』


「……その後は」


レオンは、静かに答えた。


「……お嬢様がお決めになることです」


沈黙。


向こうのレオンは、しばらくこちらを見つめていた。


そして。


『……お前は、変わったな』


小さく呟いた。


レオンは、何も答えなかった。


◇


翌朝。


エリザベートは、父親の部屋に押しかけた。


「お父様!」


「おはよう、エリザベート」


「決めたわ!」


「何を?」


少女は、満面の笑みを浮かべた。


「お父様の魂は、私のものにする!」


アウグストは、少し困ったように笑った。


「……そうか」


「でも!」


少女は、父親の手を握った。


「まだ、いらないわ!」


「……?」


「だって!」


エリザベートは、胸を張った。


「お父様が生きている間は、お父様のものなんでしょう?」


アウグストは、目を瞬かせた。


「……ああ」


「だったら、今はあげないわ!」


「……」


「私が欲しくなったら、もらうんだから!」


アウグストは、静かに笑った。


「……分かったよ」


少女は満足そうに頷いた。


そして。


「だから!」


父親を指さした。


「それまで、絶対に死んじゃ駄目よ!」


アウグストは、娘の手を握り返した。


「……できる限り、そうするよ」


エリザベートは頬を膨らませた。


「また、できる限りって言った!」


「ははは」


公爵は笑った。


その笑顔を見て、少女も笑った。


◇


その頃。


レオンは、研究室で契約書を見つめていた。


魂の譲渡。


死後の守護。


そして、蘇生不能。


彼は、静かにページをめくった。


古い禁書の最後の頁。


そこには、一文が記されていた。


魂の譲渡契約は、所有者の意思によってのみ解除される。


レオンは、目を細めた。


「……所有者の意思」


小さく呟いた。


向こうの世界のエリザベート。


彼女は、父親の魂を所有している。


だが、そのことを知らない。


もし、契約を解除できれば。


公爵の魂を、取り戻せるかもしれない。


しかし。


レオンは、静かに本を閉じた。


「……」


それを決めるのは、自分ではない。


向こうのエリザベートだった。


第四十話 終

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