第三十話 お母様は私を知らない
悪役令嬢は愛されている
第三十話 お母様は私を知らない
「お母様!」
翌朝、エリザベートは母親の寝室に押しかけた。
「私、今日はお母様と遊ぶわ!」
エレオノーラは、鏡の前で髪を結っていた。
「おはよう、エリザベート」
「おはよう!」
「何をして遊びたいの?」
「それを考えるのがお母様のお仕事でしょう!」
エレオノーラは手を止めた。
「……そうね」
少し考えてから、微笑む。
「では、乗馬はどうかしら」
「嫌よ!」
「お茶会は?」
「昨日もしたわ!」
「お芝居は?」
「つまらない!」
「そう」
エレオノーラは頷いた。
「では、今日は何もしない日にしましょう」
エリザベートは目を丸くした。
「……何もしない?」
「ええ。朝から晩まで、何もしないの」
「……」
少女は少し考えた。
「それ、何が楽しいの?」
「分からないわ」
「分からないの?」
「ええ」
エレオノーラは微笑んだ。
「だから、試してみましょう」
◇
午前十時。
エリザベートは、庭園の椅子に座っていた。
隣にはエレオノーラ。
目の前には、何もない。
お菓子もない。
紅茶もない。
楽団もいない。
黒竜ポチですら、遠くで昼寝をしていた。
「……」
「……」
五分が経過した。
「……お母様」
「何?」
「つまらないわ」
「そうね」
「……」
「……」
さらに三分。
「……お母様」
「何?」
「私、何かしたいわ」
「何を?」
「分からない!」
「そう」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「では、もう少し考えてみましょう」
「……」
エリザベートは、頬を膨らませた。
「お母様、意地悪ね!」
「そうかもしれないわ」
「……」
少女は、少し考えた。
そして。
「……私、お母様のこと嫌いになるわ!」
エレオノーラは、微笑んだ。
「それは困ったわね」
「困るでしょう!」
「ええ」
「じゃあ、何かしなさい!」
「何を?」
「……」
エリザベートは、黙り込んだ。
◇
午前十一時。
レオンは、庭園の様子を遠くから見守っていた。
隣には、セバスチャン。
「……奥様は、何をなさっているのでしょう」
セバスチャンが呟いた。
「お嬢様と、お過ごしになっているようです」
「それは分かっています」
「……」
「しかし、お嬢様が退屈なさっている」
セバスチャンは、静かに目を細めた。
「……何か、ご用意するべきでしょうか」
レオンは、少し考えた。
そして。
「……今は、必要ないかと」
「……」
「お嬢様は、まだ何もお命じになっておりません」
セバスチャンは、静かに頷いた。
「……確かに」
しかし。
その表情には、わずかな不安が浮かんでいた。
◇
正午。
「もう嫌!」
エリザベートが、椅子から立ち上がった。
「私、帰るわ!」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「ええ」
「止めないの?」
「止めてほしいの?」
「……」
少女は、少し考えた。
「……分からない!」
「そう」
エレオノーラは微笑んだ。
「では、帰りたくなったら帰りなさい」
「……」
エリザベートは、母親を見つめた。
そして。
「……お母様」
「何?」
「……私のこと、嫌い?」
エレオノーラは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「どうして?」
「だって!」
少女は、頬を膨らませた。
「私がつまらないって言ってるのに、何もしてくれないんだもの!」
エレオノーラは、静かに娘を見つめた。
そして。
「……エリザベート」
「何?」
「あなたが何をしたいのか、私は知りたいの」
「……」
「でも、あなたが何をしたいのか、私が決めてしまったら」
エレオノーラは、少し考えた。
「……それは、あなたの望みではなくなるでしょう?」
沈黙。
エリザベートは、母親を見つめた。
そして。
「……でも」
小さく呟いた。
「……私、何がしたいのか分からないわ」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「ええ」
「……」
「だから、考えてみましょう」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……お母様」
「何?」
「……私、あなたと遊びたいの」
エレオノーラは、目を細めた。
「ええ」
「……でも、何をしたらいいのか分からない」
「そうね」
「……」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……じゃあ」
小さく呟いた。
「……お母様が、私と遊びたいことを教えて」
エレオノーラは、少し驚いたように目を見開いた。
そして。
「……そうね」
静かに微笑んだ。
「……私は、あなたとお話がしたいわ」
「……お話?」
「ええ」
「……何のお話?」
「何でもいいの」
「……」
少女は、少し考えた。
そして。
「……じゃあ!」
満面の笑みを浮かべた。
「私が昨日、鳩を百羽放したお話をしてあげる!」
エレオノーラは、静かに笑った。
「ええ。聞かせて」
◇
午後三時。
エリザベートは、母親の隣で楽しそうに話していた。
「それでね! おじいさんが怒ったの!」
「まあ」
「でも、私がもっと怒ってって言ったら、困った顔をしたのよ!」
「そうなの」
「ふふっ!」
少女は、満足そうに笑った。
「ねえ、お母様!」
「何?」
「私、みんなに嫌われたいの!」
エレオノーラは、静かに娘を見つめた。
「……どうして?」
「面白そうだから!」
「そう」
「でもね!」
少女は、少し考えた。
「……アレクシスは、最初から私を嫌ってるの!」
「まあ」
「だから、あの人は特別なの!」
エレオノーラは、微笑んだ。
「……そうね」
そして。
「……エリザベート」
「何?」
「……あなたは、嫌われることが怖くないの?」
少女は、目を瞬かせた。
「……怖い?」
「ええ」
「……」
エリザベートは、少し考えた。
そして。
「……分からないわ!」
満面の笑みで答えた。
エレオノーラは、静かに頷いた。
「……そう」
◇
夕方。
エリザベートは、庭園で眠ってしまった。
エレオノーラは、娘の髪を撫でていた。
そこへ、レオンが近づく。
「奥様」
「……レオン」
「お嬢様を、お部屋へお運びいたしましょうか」
「ええ。お願い」
レオンは、少女を抱き上げた。
そのとき。
エレオノーラが、静かに声をかけた。
「……レオン」
「はい」
「……あなたは、エリザベートのことを、どれくらい知っているの?」
レオンは、少し考えた。
そして。
「……多くのことを存じております」
「……」
「ですが」
レオンは、静かに続けた。
「……すべてではございません」
エレオノーラは、目を細めた。
「……そう」
そして。
「……それでいいのよ」
小さく呟いた。
◇
夜。
エレオノーラは、夫アウグストと向かい合っていた。
「……今日、エリザベートと話したわ」
「そうか」
「……あの子、何がしたいのか分からないことがあるのね」
「……」
「……私たちは、あの子のことを何でも知っているつもりだった」
アウグストは、静かに頷いた。
「……そうだな」
エレオノーラは、少し考えた。
そして。
「……でも、違った」
小さく呟いた。
「……私たちは、あの子を知らない」
沈黙。
アウグストは、窓の外を見た。
そして。
「……これから、知ればいい」
静かに答えた。
◇
深夜。
レオンは、エリザベートの寝室の前に立っていた。
中から、小さな声が聞こえた。
「……レオン」
「はい、お嬢様」
「……お母様、変なの」
「……左様でございますか」
「……私が何をしたいのか、聞いてくるのよ」
「……」
「……みんな、そんなこと聞かないのに」
レオンは、静かに答えた。
「……奥様は、お嬢様のお考えを知りたいのでしょう」
「……」
少しの沈黙。
そして。
「……ねえ、レオン」
「はい」
「……あなたは、私が何をしたいのか、分かる?」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……いいえ」
静かに答えた。
「……え?」
「お嬢様がお望みになるまで、私には分かりません」
「……」
「ですが」
レオンは、静かに続けた。
「……お望みになったことは、必ず叶えてみせます」
沈黙。
そして。
「……ふふっ」
少女が、小さく笑った。
「……そうよね」
「はい」
「……それでいいわ」
レオンは、静かに頭を下げた。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
「おやすみ、レオン」
扉の向こうで、少女は再び眠りについた。
レオンは、静かに廊下を歩き出した。
そして。
「……まだ」
小さく呟いた。
「……まだ、知らないことがある」
月明かりが、廊下を照らしていた。
第三十話 終




