第二十八話 公爵は娘を叱れない
悪役令嬢は愛されている
第二十八話 公爵は娘を叱れない
アルヴェイン公爵家には、三つの決まりがある。
一つ。
当主の命令には従うこと。
二つ。
公爵家の秘密を外部に漏らさないこと。
そして三つ。
エリザベートお嬢様の機嫌を損ねないこと。
もっとも、三つ目は正式な家訓ではない。
いつの間にか、使用人たちの間で定着したものだった。
そして、その日の朝。
公爵家のすべての使用人が、三つ目の決まりを破ることになった。
◇
「お父様が帰ってくるですって?」
エリザベートは、朝食のパンを手にしたまま目を丸くした。
「はい、お嬢様」
セバスチャンが答える。
「本日正午、旦那様がお戻りになります」
「どうして?」
「王都での公務を終えられましたので」
「まあ!」
少女は、ぱっと笑顔になった。
「じゃあ、お迎えの準備をしなさい!」
「すでに整えております」
「お花は?」
「百二十種類をご用意いたしました」
「音楽は?」
「王立楽団が到着しております」
「ケーキは?」
「七段でございます」
エリザベートは、満足そうに頷いた。
そして。
「全部片付けなさい!」
セバスチャンの眉が、わずかに動いた。
「……と、おっしゃいますと」
「お父様を驚かせたいの!」
少女は嬉しそうに笑った。
「誰もいないお屋敷に帰ってきたと思わせて、それからみんなで飛び出すのよ!」
「承知いたしました」
「お父様、きっとびっくりするわ!」
「さようでございますね」
「ふふっ!」
セバスチャンは一礼し、部屋を出た。
廊下で待機していたマリアンヌに、静かに告げる。
「お嬢様は、旦那様を驚かせたいそうです」
「承知いたしました」
「屋敷を無人に見せるように」
「はい」
「ただし、警備は通常どおり」
「当然でございます」
二人は頷き合った。
その後ろで、レオンが小さく首を傾げた。
「……無人に見せる必要があるのでしょうか」
セバスチャンは、穏やかに答えた。
「お嬢様がお望みですので」
「……」
レオンは、それ以上何も言わなかった。
◇
正午。
アルヴェイン公爵家の正門に、一台の馬車が到着した。
扉が開く。
降りてきたのは、四十代半ばの男性だった。
深い金色の髪。
鋭い青い瞳。
黒い外套。
その胸元には、公爵家の紋章が輝いている。
アルヴェイン公爵、アウグスト・フォン・アルヴェイン。
王国でも屈指の権力者。
国王の古くからの友人であり、政敵でもある。
そして。
エリザベートの父親だった。
「……」
アウグストは、屋敷を見上げた。
静かだった。
門番がいない。
庭師もいない。
使用人の姿も見えない。
「……セバスチャン?」
返事はない。
「マリアンヌ?」
沈黙。
アウグストは、少し考えた。
そして。
「……なるほど」
小さく笑った。
「エリザベートか」
◇
屋敷の玄関。
アウグストが扉を開ける。
その瞬間。
「お帰りなさいませ!」
百人以上の使用人が、一斉に飛び出した。
王立楽団が演奏を始める。
天井から花びらが降り注ぐ。
そして。
「お父様!」
エリザベートが、満面の笑みで駆け寄った。
「びっくりした?」
アウグストは、娘を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「ああ。驚いたよ」
「でしょう!」
少女は嬉しそうに笑った。
「私が考えたの!」
「そうか」
アウグストは、娘の頭を撫でた。
「素晴らしい歓迎だ」
「ふふっ!」
エリザベートは満足そうに頷いた。
その後ろで、セバスチャンが深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
アウグストは、執事長を見た。
「……後で話がある」
「承知いたしました」
その声は、穏やかだった。
しかし。
セバスチャンの表情が、わずかに引き締まった。
◇
午後。
公爵家の書斎。
アウグストは、机の上に積まれた報告書を読んでいた。
王宮への無断転移。
王立魔法学院の校長交代。
黒竜の解放。
王都上空での飛行。
そして、昨日の鳩騒動。
「……」
アウグストは、ゆっくりと報告書を閉じた。
「セバスチャン」
「はい」
「……これは、すべて事実か」
「はい」
「……」
公爵は、深く息を吐いた。
「……随分と、楽しそうだな」
「お嬢様は、毎日大変お元気でいらっしゃいます」
「そうか」
アウグストは、少しだけ笑った。
そして。
「……だが」
その声が、低くなった。
「王国から正式な抗議が届いている」
「承知しております」
「学院からも」
「はい」
「王都の商人組合からも」
「はい」
「……」
アウグストは、静かに目を閉じた。
「……セバスチャン」
「はい」
「お前たちは、娘を愛しているな」
「もちろんでございます」
「……」
「命に代えましても」
公爵は、しばらく黙っていた。
そして。
「……それが、問題なのだ」
小さく呟いた。
◇
その頃。
庭園では、エリザベートがレオンを呼びつけていた。
「レオン!」
「はい、お嬢様」
「お父様に、嫌われたいの!」
「……」
レオンは、静かに顔を上げた。
「……旦那様に、でございますか」
「そうよ!」
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「だって!」
少女は、頬を膨らませた。
「お父様、いつも私のことを褒めるんだもの!」
「……」
「たまには怒らせてみたいわ!」
レオンは、少し考えた。
そして。
「……承知いたしました」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、どうすればいいの?」
レオンは、静かに答えた。
「旦那様が大切になさっているものを、お嬢様が壊されればよろしいかと」
エリザベートは、目を輝かせた。
「まあ!」
「ただし」
レオンは、続けた。
「旦那様が何を大切になさっているか、お確かめになる必要がございます」
「そんなの簡単よ!」
少女は、満面の笑みを浮かべた。
「私でしょう!」
レオンは、一瞬だけ黙った。
そして。
「……おっしゃるとおりでございます」
◇
夕方。
アウグストは、庭園に呼び出された。
そこには、エリザベートが立っていた。
「お父様!」
「どうした、エリザベート」
「私、今日は悪いことをするわ!」
公爵は、目を瞬かせた。
「……悪いこと?」
「そう!」
少女は、胸を張った。
「お父様が大切にしているものを壊すの!」
アウグストは、少し考えた。
そして。
「……何を壊すつもりだい?」
「秘密よ!」
「そうか」
公爵は、穏やかに微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
「ふふっ!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
そして。
「レオン!」
「はい」
「始めなさい!」
レオンが、静かに指を鳴らした。
その瞬間。
庭園の中央に、巨大な鏡が現れた。
高さ十メートル。
幅五メートル。
鏡の中には、エリザベートの姿が映っている。
「……これは?」
アウグストが尋ねた。
エリザベートは、満面の笑みを浮かべた。
「私よ!」
「……」
「お父様が一番大切にしているもの!」
公爵は、静かに頷いた。
「ああ」
「だから!」
少女は、鏡を指さした。
「壊すわ!」
レオンが、静かに手を上げた。
鏡が、砕けた。
無数の破片が、光となって消えていく。
沈黙。
アウグストは、しばらく娘を見つめていた。
そして。
「……素晴らしい」
小さく呟いた。
「……え?」
「見事な魔法だ」
「……」
「レオン、よくやった」
「恐れ入ります」
エリザベートは、頬を膨らませた。
「違うわ!」
「何がだい?」
「怒ってほしかったの!」
アウグストは、目を瞬かせた。
そして、少しだけ笑った。
「……そうか」
「そうよ!」
「……ならば」
公爵は、静かに娘の前に膝をついた。
そして。
「……エリザベート」
優しく声をかけた。
「お父様は、君を嫌いにはなれないよ」
「……」
「どんなことをしても」
少女は、しばらく父親を見つめていた。
そして。
「……つまらないわ!」
頬を膨らませた。
アウグストは、静かに笑った。
◇
夜。
公爵家の書斎。
アウグストは、レオンを呼び出した。
「……レオン」
「はい、旦那様」
「お前は、娘に仕えてどれくらいになる」
「まだ日が浅くございます」
「そうか」
公爵は、静かに頷いた。
そして。
「……一つ、聞きたい」
「何でしょう」
「お前は、娘をどう思っている」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……お仕えするべき方だと考えております」
「……」
アウグストは、静かに目を細めた。
「……それだけか」
「はい」
「……」
公爵は、少し考えた。
そして。
「……お前は、正直だな」
小さく笑った。
レオンは、何も答えなかった。
アウグストは、窓の外を見た。
庭園には、月明かりが差している。
「……セバスチャンたちは、娘を愛している」
「はい」
「だが、愛しているからこそ、見えなくなるものがある」
「……」
「お前には、それが見えるのかもしれないな」
レオンは、静かに頭を下げた。
「……恐れ入ります」
◇
その夜。
エリザベートは、寝台の上で銀色の鈴を鳴らしていた。
ちりん。
ちりん。
「……ふふっ」
少女は、満足そうに笑った。
そして。
「……ねえ、レオン」
扉の外に控えていたレオンが答える。
「はい、お嬢様」
「お父様、怒らなかったわね」
「左様でございます」
「……つまらないわ!」
「申し訳ございません」
「あなたのせいじゃないわよ!」
「……」
「でも、次は絶対に怒らせるわ!」
「承知いたしました」
少女は、満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ!」
そして。
「……ねえ、レオン」
「はい」
「あなたは、私を怒れる?」
レオンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……はい」
静かに答えた。
エリザベートは、目を輝かせた。
「まあ!」
「必要であれば」
「じゃあ、怒ってみなさい!」
レオンは、少し考えた。
そして。
「……お嬢様」
「何?」
「本日は、夜更かしをなさりすぎです」
沈黙。
エリザベートは、しばらく彼を見つめた。
そして。
「……それだけ?」
「はい」
「……」
少女は、少し考えた。
そして、くすくすと笑った。
「……変なの!」
レオンは、静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
「ふふっ!」
エリザベートは、楽しそうに笑った。
◇
深夜。
アルヴェイン公爵邸。
アウグストは、書斎で一人、古い手紙を読んでいた。
差出人は、妻。
エレオノーラ・フォン・アルヴェイン。
そこには、短い文章が記されていた。
『あなた。エリザベートのことを、使用人たちだけに任せてはいけません』
公爵は、静かに目を閉じた。
そして。
「……分かっている」
小さく呟いた。
「……だから、帰ってきたんだ」
窓の外には、静かな月が浮かんでいた。
第二十八話 終




