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第二話 新人教育

悪役令嬢は愛されている


第二話 新人教育


「海がないわ」


王国歴三百二十七年、十二月十八日。


午前七時三十二分。


エリザベート・フォン・アルヴェインは、窓の外を眺めながらそう言った。


庭園には白い砂浜が広がっている。


椰子の木が風に揺れ、色鮮やかな魚たちが透明な水の中を泳いでいた。


気温二十八度。


湿度六十二パーセント。


南国の海を再現した、実に見事な光景である。


「ございますよ、お嬢様」


セバスチャンが答えた。


「どこに?」


「お庭にございます」


「違うわ!」


エリザベートは頬を膨らませた。


「これは池じゃない!」


「左様でございますか」


「海には波があるでしょう!」


「おっしゃるとおりでございます」


「それに、もっと広いわ!」


「ごもっともでございます」


「あと、お魚が少ない!」


「申し訳ございません」


セバスチャンは深々と頭を下げた。


「直ちに改善いたします」


「お昼までよ!」


「かしこまりました」


少女は満足そうに頷いた。


「それと、朝ご飯はパンケーキがいいわ」


「すでにご用意しております」


「苺は?」


「三粒でございます」


「今日は五粒!」


「かしこまりました」


「やっぱり六粒!」


「承知いたしました」


「……あなた、少しは困りなさいよ」


「申し訳ございません」


今日もお嬢様は大変お元気でいらっしゃる。


実に喜ばしいことであった。


◇


午前八時。


地下第三会議室。


「では、緊急会議を始めます」


セバスチャンが告げた。


「本日の議題は、海洋環境の再構築についてです」


「波でしたら、すでに対応可能です」


エルマーが答える。


「水流制御魔法を用いれば、最大波高八メートルまで再現できます」


「お嬢様は波の高さについて言及されておりません」


「失礼いたしました」


「広さについては?」


「現在の水域面積は約四ヘクタールです」


「不足しております」


「承知しております」


「では、どの程度まで拡張できますか」


「王都全域を水没させれば、十分な面積を確保できます」


「却下です」


「なぜでしょう」


「お嬢様は王都を水没させるようにはおっしゃっておりません」


「なるほど」


エルマーは感心したように頷いた。


「では、王都を移動させましょう」


「それも却下です」


「難しいものですな」


「ええ」


セバスチャンは微笑んだ。


「お嬢様のご要望にお応えするのは、常に容易ではございません」


その言葉に、会議室の全員が深く頷いた。


彼らの表情は、どこか誇らしげだった。


「ところで」


マリアンヌが手を挙げた。


「本日の新人教育ですが、海洋環境の再構築を課題としてはいかがでしょう」


「ほう」


グレゴールが笑った。


「それはいい」


「レオン殿の能力を測るには、ちょうどよい機会かと」


「しかし」


エルマーが首を傾げた。


「新人に海を作らせるのは、少々難しすぎませんかな」


「何をおっしゃいます」


マリアンヌは微笑んだ。


「お嬢様のご要望にお応えするのですよ?」


「……確かに」


「海の一つも用意できず、どうしてお嬢様にお仕えできましょう」


「ごもっともです」


こうして、新人教育の課題が決定した。


◇


午前八時三十分。


「海を作っていただきます」


「承知いたしました」


レオンは即答した。


マリアンヌは満足そうに頷いた。


「よろしい。では、制限時間は三時間三十分です」


「はい」


「なお、失敗した場合は解雇となります」


「承知しております」


「解雇の意味はご存じですね?」


「はい」


「結構です」


彼女は一枚の地図を広げた。


「現在の庭園はこちら。お嬢様の寝室は東棟三階。海はそこから見える位置に設置してください」


「承知いたしました」


「水質は南方海域に準拠。魚類は最低三百種。波は自然発生型。潮の満ち引きも必要です」


「はい」


「それと、海には水平線がございます」


「承知しております」


「結構」


マリアンヌは微笑んだ。


「では、始めてください」


レオンは一礼し、部屋を出た。


◇


午前九時。


庭園。


レオンは地面に魔法陣を描いていた。


複雑な幾何学模様が幾重にも重なり、淡い青色の光を放っている。


「空間拡張術式ですか」


背後から声がした。


振り返ると、エルマーが立っていた。


「はい」


「なるほど。確かにそれなら、屋敷の敷地を拡張せずに広大な海を作れますな」


「ありがとうございます」


「しかし、空間拡張術式には重大な欠点がございます」


「魔力消費量でしょうか」


「いえ」


エルマーは首を振った。


「外部から観測した際の空間座標の不一致です」


「……」


「お嬢様が窓から海をご覧になる分には問題ありません。しかし、実際に海へ足を運ばれた場合、空間の境界を越える必要があります」


「境界は無効化できます」


「ほう」


「座標固定型の転移術式を併用します」


「なるほど」


エルマーは感心したように頷いた。


「素晴らしい発想です」


「ありがとうございます」


「ですが、それでは不十分です」


「……なぜでしょう」


「お嬢様が海に入られた場合、どうなさいます?」


「水温は適切に管理します」


「違います」


エルマーは微笑んだ。


「お嬢様のお召し物が濡れてしまいます」


沈黙。


「……水着をご用意するのでは?」


「お嬢様は水着をご所望になりましたか?」


「いいえ」


「では、どうして水着をお召しになるとお考えになったのです?」


レオンは答えなかった。


エルマーは満足そうに頷いた。


「よろしい。考えることは大切です」


そう言って立ち去ろうとする。


「あの」


「何でしょう」


「エルマー様なら、どうなさいますか?」


老人は振り返った。


「私ですか?」


「はい」


「簡単なことです」


エルマーは微笑んだ。


「お嬢様がお濡れにならない海をご用意いたします」


◇


午前十時。


庭園の一角に、巨大な水域が現れた。


空間拡張魔法によって形成された海は、見渡す限り青く広がっている。


白い波が砂浜に打ち寄せ、遠くには水平線が見えた。


魚類三百二十種。


海鳥十二種。


珊瑚礁、海藻、貝類。


潮汐、海流、水温。


すべてが精密に再現されている。


「完成です」


レオンが告げた。


マリアンヌは海を眺めた。


「素晴らしい」


「ありがとうございます」


「実に見事です」


「光栄です」


「ですが」


彼女は足元の砂を指差した。


「こちらは何でしょう」


「砂浜でございます」


「そうですね」


「はい」


「お嬢様がお歩きになれば、靴の中に砂が入りますね」


「……」


「いかがなさいますか?」


レオンは少し考えた。


「砂が付着しないよう、表面に魔法を施します」


「結構です」


「ありがとうございます」


「ですが、お嬢様が砂遊びをご所望になった場合は?」


「……」


「砂が付着しないのでは、お城を作ることもできません」


「……おっしゃるとおりです」


「難しいですね」


マリアンヌは楽しそうに笑った。


「お嬢様にお仕えするというのは」


◇


午前十一時五十分。


「できました」


レオンは静かに告げた。


目の前には、完璧な海が広がっていた。


砂は触れる者の意思によって性質を変える。


水は衣服を濡らさず、しかし泳ぐことはできる。


魚は人を傷つけず、波は自然に発生する。


空間は無限に近く拡張され、水平線の向こうには本物の空が続いている。


「見事です」


マリアンヌが拍手した。


「ありがとうございます」


「合格といたしましょう」


レオンは深く頭を下げた。


そのとき。


「まあ!」


少女の声が響いた。


エリザベートだった。


「海だわ!」


彼女は嬉しそうに駆け寄った。


「本当に海になってる!」


「はい、お嬢様」


セバスチャンが答える。


「ご所望の海でございます」


「素敵!」


少女は砂浜を走った。


青い蝶が舞い、暖かな風が金色の髪を揺らす。


「ねえ、セバス!」


「はい」


「お魚は?」


「こちらに」


セバスチャンが指を鳴らす。


すると、海面から巨大な魚が飛び跳ねた。


「きゃあ!」


エリザベートは歓声を上げた。


「すごい!」


「お気に召しましたか」


「ええ!」


少女は満面の笑みを浮かべた。


「でも、ちょっと待って」


彼女は首を傾げた。


「海って、しょっぱいのよね?」


「はい」


「飲んでみたいわ」


「かしこまりました」


セバスチャンは銀の杯を差し出した。


エリザベートは一口飲んだ。


「……まずい!」


杯を放り投げた。


「何よこれ!」


「海水でございます」


「知ってるわよ!」


「失礼いたしました」


「こんなもの、誰が飲むの!」


「通常、飲用には適しておりません」


「なら先に言いなさいよ!」


「申し訳ございません」


少女は頬を膨らませた。


「もういいわ!」


そして、海を指差した。


「全部、甘くしなさい!」


「かしこまりました」


セバスチャンは頭を下げた。


「レオン殿」


「はい」


「追加のご指示です」


「……承知いたしました」


「お嬢様は海を甘くするようにとおっしゃいました」


「はい」


「よろしくお願いいたします」


◇


午後一時。


「海を甘くする、ですか」


エルマーが腕を組んだ。


「なかなか興味深い課題ですな」


「はい」


「糖分を加えるのは簡単ですが、海洋生態系への影響が懸念されます」


「承知しております」


「それに、海水全体を甘くすれば、魚類が生存できなくなる可能性があります」


「はい」


「どうなさいます?」


レオンは少し考えた。


「海水の味覚情報のみを変換します」


「ほう」


「実際の成分は変えず、飲んだ際に甘味を感じるようにします」


「なるほど」


エルマーは微笑んだ。


「ですが、それでは海が甘くなったとは言えませんね」


「……」


「お嬢様は海を甘くするようにとおっしゃいました」


「はい」


「味を甘くするようにとは、おっしゃっておりません」


沈黙。


レオンは額に手を当てた。


「……少々、お時間をいただけますか」


「もちろん」


エルマーは嬉しそうに頷いた。


「お嬢様にお仕えする者には、考える時間も必要ですからな」


◇


午後三時。


地下第三会議室。


「新人の様子はいかがですか」


セバスチャンが尋ねた。


「非常に優秀です」


マリアンヌが答える。


「本日の課題を、すべて達成しております」


「ほう」


「ただし、追加課題で少々苦戦しているようです」


「海の甘味化ですね」


「はい」


エルマーが頷いた。


「実に興味深い発想を持つ青年です」


「そうですか」


「彼は、海水の構造そのものを変えようとしております」


「なるほど」


「通常ならば、数十年を要する研究でしょう」


「それを本日中に?」


「ええ」


エルマーは楽しそうに笑った。


「実に素晴らしい」


セバスチャンも微笑んだ。


「お嬢様のおかげですね」


「まったくです」


「お嬢様は、いつも私どもに成長の機会を与えてくださいます」


全員が深く頷いた。


◇


午後五時。


「できました」


レオンは、海を前に立っていた。


水は青く澄み、波は穏やかに打ち寄せている。


海水の分子構造を魔法によって再構築し、塩分を保持したまま甘味成分を生成する。


魚類への影響は最小限。


海洋環境も維持されている。


「見事です」


エルマーが拍手した。


「ありがとうございます」


「ですが、一つだけ」


「……何でしょう」


「お嬢様は、もう海に飽きていらっしゃいます」


沈黙。


「……はい?」


「現在は、雪をご所望です」


「……」


「冬が恋しくなられたようで」


レオンは空を見上げた。


青い空。


白い雲。


暖かな風。


そして、目の前には広大な海。


「……承知いたしました」


彼は静かに頭を下げた。


「では、雪をご用意いたします」


エルマーは満足そうに頷いた。


「素晴らしい」


◇


午後六時。


エリザベートは暖炉の前でくつろいでいた。


窓の外では雪が降っている。


庭園には白銀の世界が広がり、木々には氷の結晶が輝いていた。


「やっぱり冬が一番ね」


「おっしゃるとおりでございます」


セバスチャンが答える。


「でも、少し寒いわ」


「暖炉の火を強めましょう」


「そうして」


「かしこまりました」


少女は満足そうに頷いた。


「ねえ、セバス」


「はい」


「今日の新人、なかなか優秀だったわね」


「はい」


「名前、何だったかしら」


「レオンでございます」


「そうそう、レオン」


彼女は少し考えた。


「明日は何をさせようかしら」


「何なりとお申しつけください」


「そうねえ……」


少女は窓の外を眺めた。


雪が静かに降っている。


「……あ!」


何かを思いついたように、手を叩いた。


「私、お月様が欲しいわ!」


「かしこまりました」


「明日の朝までよ!」


「承知いたしました」


「それと!」


「はい」


「お月様って、食べられるのかしら?」


「調査いたします」


「楽しみだわ!」


少女は嬉しそうに笑った。


◇


午後七時。


地下第三会議室。


「では、明日の課題についてですが」


セバスチャンが口を開いた。


「月の調達です」


「なるほど」


エルマーが頷いた。


「なかなか難しい課題ですな」


「ええ」


マリアンヌが微笑んだ。


「新人には、少々荷が重いかもしれません」


「しかし」


グレゴールが笑った。


「お嬢様のご要望だ」


「そのとおりです」


セバスチャンは微笑んだ。


「では、明日までに月を用意いたしましょう」


全員が頷いた。


「お嬢様の御心のままに」


◇


同時刻。


使用人控室。


レオンは、机の上に広げられた書類を眺めていた。


そこには、月の質量、軌道、魔力構造、そして天体移動に関する膨大な計算式が並んでいる。


「……月、か」


彼は小さく呟いた。


窓の外では雪が降っていた。


遠くに、白い月が浮かんでいる。


レオンはしばらくそれを見つめていた。


そして、静かに笑った。


「……承知いたしました、お嬢様」


◇


その頃。


王都、貴族院。


「またアルヴェイン家か!」


一人の男が机を叩いた。


「今度は何だ!」


「王都北部に海が出現しました」


「知っている!」


「その後、海水が甘くなりました」


「意味が分からん!」


「さらに、現在は雪が降っております」


「昨日は春だっただろう!」


「はい」


「今日は夏だったんじゃないのか!」


「はい」


「なぜ冬になっている!」


「不明です」


男は頭を抱えた。


「……あの悪役令嬢め」


その瞬間。


扉が開いた。


黒い礼服を着た男が立っていた。


「失礼いたします」


穏やかな声だった。


「アルヴェイン公爵家より参りました」


室内の空気が凍りつく。


「昨日も申し上げたはずですが」


男は微笑んだ。


「お嬢様についての発言には、十分お気をつけくださいませ」


◇


その夜。


エリザベートは寝台の上で、明日のことを考えていた。


月。


星。


そして、新しい使用人。


「ふふっ」


少女は笑った。


「明日も楽しみだわ」


窓の外では、白い月が輝いていた。


彼女は知らない。


その月を手に入れるために、何人の人間が動き始めているのか。


何人が研究を始め、何人が魔法を組み立て、何人が国家を動かそうとしているのか。


そして、彼女は知る必要もなかった。


なぜなら。


彼女の周囲には、彼女を愛する人々がいるのだから。


今日も悪役令嬢は、愛されている。


第二話 終

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