第一話 お嬢様のわがまま
悪役令嬢は愛されている
第一話 お嬢様のわがまま
「春が欲しいわ」
公爵令嬢エリザベート・フォン・アルヴェインは、そう言ってフォークを置いた。
窓の外では雪が降っていた。
王国歴三百二十七年、十二月十七日。
例年よりも厳しい寒波が王都を襲い、昨夜からの積雪は三十センチを超えている。
「かしこまりました」
老執事セバスチャンは、静かに頭を下げた。
「明日の朝食までにお願いね」
「承知いたしました」
「それと、蝶が見たいわ。青い蝶。大きいのがいいわね」
「何羽ほどご用意いたしましょう」
「百羽」
「かしこまりました」
「やっぱり千羽」
「承知いたしました」
「……あなた、少しは驚いたらどうなの?」
「申し訳ございません」
「つまらない男ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないわよ!」
エリザベートは頬を膨らませた。
セバスチャンは微笑んだ。
今日もお嬢様は大変お元気でいらっしゃる。
実に喜ばしいことであった。
◇
午前九時。
アルヴェイン公爵邸、地下第三会議室。
円卓には十二名の男女が集まっていた。
「では、定例会議を始めます」
セバスチャンが告げる。
「本日の議題は三件。第一に春季環境の構築。第二に青色大型蝶の調達。第三に、新規使用人の採用についてです」
「春季環境については、すでに準備を終えております」
そう答えたのは、宮廷魔術師団の元総長、エルマーだった。
「屋敷を中心に半径十二キロメートルの気象を改変いたします。気温二十二度、湿度五十五パーセント。桜の開花も可能です」
「桜?」
セバスチャンが眉を上げた。
「お嬢様は桜をご所望ではありません」
「春といえば桜でしょう」
「それはあなたの解釈です」
「しかし、春らしさを演出するには――」
「エルマー様」
セバスチャンの声が低くなる。
「お嬢様は春をご所望になりました。桜をご所望になったわけではございません」
沈黙。
「……失言でした」
エルマーは深々と頭を下げた。
「処分は会議終了後に」
「承知いたしました」
「次に蝶の件ですが」
「すでに確保しております」
黒髪の侍女長、マリアンヌが答えた。
「南方大陸に生息する青帝蝶を千二百羽。輸送中の損失を考慮し、予備を含めて調達いたしました」
「千羽でございます」
「はい。余剰分は隔離いたします」
「結構です」
「ただし、一点問題が」
「何でしょう」
「青帝蝶は冬季に活動しません」
「春にすればよろしいでしょう」
「そのとおりでございます」
会議は滞りなく進んだ。
最後に、セバスチャンが一枚の書類を取り出した。
「本日の採用試験ですが、最終候補者が一名残っております」
「ほう」
騎士団長グレゴールが顔を上げた。
「珍しいな。何年ぶりだ?」
「七年と四か月です」
「どこの家の者だ?」
「平民です」
「平民?」
「はい。名はレオン。十七歳」
書類が回される。
そこには、簡素な経歴と試験結果が記されていた。
魔術適性、最高評価。
剣術、最高評価。
礼儀作法、最高評価。
毒物鑑定、最高評価。
記憶力、最高評価。
「……ずいぶん優秀ではないか」
「ええ」
セバスチャンは頷いた。
「ですが、不可解な点もございます」
「何だ?」
「彼は一次試験の開始前から、試験官の配置を正確に把握しておりました」
「情報漏洩か?」
「いいえ。配置は試験開始の三分前に決定しております」
「予知魔法か」
「その可能性もございます」
「調べたのか?」
「もちろん」
セバスチャンは微笑んだ。
「すべて調査済みでございます」
「ならば問題あるまい」
グレゴールは書類を置いた。
「それで、最終試験は?」
「お嬢様にお会いいただきます」
会議室が静まり返った。
「……それは」
エルマーが口を開く。
「少々、早すぎるのでは?」
「私もそう思います」
マリアンヌが頷く。
「まだ十七歳でしょう」
「しかし、能力は十分です」
「能力の問題ではありません」
「承知しております」
セバスチャンは書類を閉じた。
「ですが、彼はどうしてもお嬢様にお会いしたいそうです」
「……そうか」
グレゴールが笑った。
「ならば会わせてやろうではないか」
誰も反対しなかった。
◇
午後一時。
レオンは、屋敷の廊下を歩いていた。
先導するのは、白髪の老執事。
足音がしない。
それだけで、この老人が尋常ではないことが分かる。
「緊張しておりますか?」
「少しだけ」
「それは結構」
セバスチャンは振り返らずに答えた。
「お嬢様の御前では、誰しも緊張するものです」
「……そうですか」
「ええ。私など、四十七年お仕えしておりますが、いまだに胸の高鳴りが収まりません」
老人の声は弾んでいた。
「本日も大変お美しくいらっしゃいました」
「……」
「朝食では苺を三粒も召し上がられました」
「そうですか」
「ええ。実に素晴らしいことでございます」
レオンは返答に困った。
しかし、老人は気にした様子もない。
やがて、巨大な扉の前に到着した。
「一つだけ、忠告を」
セバスチャンが足を止める。
「お嬢様の御前では、決して嘘をつかぬよう」
「承知しております」
「それと、余計なことを考えぬよう」
「……余計なこと?」
「ええ」
老人は穏やかに微笑んだ。
「お嬢様は、あなたが思うよりもずっと素晴らしいお方です」
扉が開いた。
◇
「遅いわ!」
第一声は叱責だった。
豪奢な椅子に腰掛けた少女が、こちらを睨んでいる。
金色の髪。
透き通るような白い肌。
宝石のような青い瞳。
エリザベート・フォン・アルヴェイン。
十六歳。
アルヴェイン公爵家の一人娘。
そして、王都の貴族たちから密かにこう呼ばれている。
悪役令嬢。
「申し訳ございません、お嬢様」
セバスチャンが頭を下げる。
「本日の最終候補者をお連れいたしました」
「ふうん」
エリザベートはレオンを見た。
上から下まで。
じっくりと。
「あなた、名前は?」
「レオンと申します」
「そう」
「はい」
「嫌いだわ」
「……」
「その顔、気に入らない」
セバスチャンが一歩前に出た。
「かしこまりました」
レオンの背筋に冷たいものが走る。
だが、エリザベートは手を振った。
「まだ何も言ってないでしょう!」
「失礼いたしました」
「まったく。あなたたちはいつもそうなんだから」
彼女は不満そうに足を組み直した。
「ねえ、レオン」
「はい」
「あなた、何ができるの?」
「一通りのことは」
「一通り?」
「はい」
「じゃあ、私を楽しませなさい」
「承知いたしました」
「今すぐよ」
「はい」
レオンは懐から一枚の硬貨を取り出した。
それを指先で弾く。
硬貨は宙を舞い、瞬く間に七羽の銀色の鳥へと姿を変えた。
鳥たちは部屋を旋回し、少女の頭上で花の形を作る。
最後に一斉に弾け、青い花びらとなって降り注いだ。
「まあ!」
エリザベートの瞳が輝いた。
「綺麗!」
「お気に召しましたか」
「ええ!」
少女は立ち上がった。
「もう一回!」
「かしこまりました」
レオンは再び硬貨を弾いた。
今度は十四羽。
鳥たちは少女の周囲を踊り、光の輪を描く。
「すごいわ!」
エリザベートは笑った。
それは年相応の、無邪気な笑顔だった。
「あなた、なかなかやるじゃない!」
「光栄です」
「気に入ったわ!」
セバスチャンが深々と頭を下げた。
「おめでとうございます、レオン殿」
「ありがとうございます」
「本日より、あなたを当家の使用人として迎え入れます」
レオンは静かに息を吐いた。
その瞬間だった。
「あ、そうだわ!」
エリザベートが手を叩いた。
「あなた、明日までに虹を持ってきなさい!」
「……虹、でございますか」
「そう! 虹!」
少女は満面の笑みを浮かべる。
「私のお部屋に飾りたいの!」
「かしこまりました」
レオンは即答した。
エリザベートは満足そうに頷いた。
「楽しみにしているわ!」
◇
午後二時。
使用人控室。
「虹ですか」
マリアンヌが紅茶を注ぎながら言った。
「はい」
「素敵ですね」
「……そうですね」
「お嬢様は昔から虹がお好きでいらっしゃいます」
「存じております」
「まあ」
マリアンヌは微笑んだ。
「よくお調べになりましたね」
「当然のことです」
「ええ。当然のことです」
彼女はカップを置いた。
「ところで、レオン様」
「はい」
「虹をどのようにお持ちするおつもりですか?」
「光学魔法を用いて、室内に固定いたします」
「なるほど」
「魔力供給は外部術式で補い、光源は自然光に近いものを使用します」
「素晴らしい」
マリアンヌは拍手した。
「ですが、一つだけ」
「何でしょう」
「お嬢様は、虹を持ってくるようにとおっしゃいました」
「はい」
「虹を作るようにとは、おっしゃっておりません」
沈黙。
レオンはカップを置いた。
「……失礼いたしました」
「いいえ」
マリアンヌは優しく微笑んだ。
「お気をつけくださいね」
◇
午後三時。
地下第三会議室。
「さて」
セバスチャンが口を開いた。
「新人の教育方針についてですが」
「優秀な青年ですね」
マリアンヌが答える。
「ええ。非常に」
「虹の件も、すでに解決策を用意しているようです」
「それは結構」
「ただし、少々気になることが」
「何でしょう」
「彼は、お嬢様のことを愛しておりません」
会議室が静まり返った。
グレゴールが腕を組む。
「……それは困ったな」
「ええ」
エルマーが頷く。
「重大な問題です」
「しかし」
セバスチャンは微笑んだ。
「お嬢様は彼をお気に召されました」
全員が頷いた。
「ならば、問題ございません」
「そのとおりです」
「実に喜ばしいことです」
「お嬢様の御心のままに」
会議は満場一致で終了した。
◇
午後四時。
エリザベートは庭園を歩いていた。
雪はすでに溶けている。
暖かな風が吹き、花々が咲き誇り、青い蝶が空を舞っていた。
「まあ、綺麗!」
少女は両手を広げた。
「本当に春になったのね!」
「はい、お嬢様」
セバスチャンが答える。
「ご所望の春でございます」
「素敵だわ!」
「恐悦至極に存じます」
「ねえ、セバス」
「はい」
「明日は夏がいいわ」
「かしこまりました」
「それと海!」
「承知いたしました」
「お魚も!」
「何匹ほどご用意いたしましょう」
「全部!」
「かしこまりました」
少女は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、セバスチャンも微笑んだ。
四十七年。
彼は、この家に仕えてきた。
数え切れないほどの命令を受け、数え切れないほどの願いを叶えてきた。
そのすべてが、彼にとってかけがえのない幸福だった。
「ねえ、セバス」
「はい」
「私って、幸せ者ね」
老人は深々と頭を下げた。
「はい、お嬢様」
そして、心から答えた。
「私どもも、幸せ者でございます」
◇
同時刻。
王都、貴族院。
「またアルヴェイン家か!」
一人の男が机を叩いた。
「今度は何だ!」
「王都北部の気象が改変されました」
「そんなことは分かっている!」
「農地への影響が懸念されます」
「それだけか!」
「……南方大陸から大量の希少蝶が輸入されております」
「だから何だ!」
「さらに、海岸沿いの土地が買収され始めました」
「何のために!」
「不明です」
男は頭を抱えた。
「……あの悪役令嬢め」
その瞬間。
扉が開いた。
黒い礼服を着た男が立っていた。
「失礼いたします」
穏やかな声だった。
「アルヴェイン公爵家より参りました」
室内の空気が凍りつく。
「ただいま、お嬢様について大変興味深いお話が聞こえたもので」
男は微笑んだ。
「少々、お時間をいただけますでしょうか」
◇
その夜。
エリザベートは寝台の上で、明日のことを考えていた。
夏。
海。
魚。
そして、新しい使用人。
「ふふっ」
少女は笑った。
「明日も楽しみだわ」
窓の外では、季節外れの蝶が舞っていた。
彼女は知らない。
自分の何気ない一言で、何人の人生が変わったのか。
何人が職を失い、何人が故郷を追われ、何人が命を落としたのか。
そして、彼女は知る必要もなかった。
なぜなら。
彼女の周囲には、彼女を愛する人々がいるのだから。
彼らは優秀だった。
誰よりも賢く、誰よりも強く、誰よりも勤勉だった。
彼女の願いを叶えるためなら、世界の理すら書き換える。
彼女の言葉を疑わず、彼女の意思を否定せず、彼女のために命を捧げる。
そんな人々に囲まれて。
今日も悪役令嬢は、愛されている。
第一話 終




