第十七話 花嫁は誰も愛さない
悪役令嬢は愛されている
第十七話 花嫁は誰も愛さない
王都最大の大聖堂には、三百年の歴史がある。
歴代国王の戴冠式。
王族の婚礼。
国家の存亡をかけた誓約。
そのすべてを見届けてきた、由緒ある建物だ。
そして今日。
大聖堂の正面には、巨大な看板が掲げられていた。
『エリザベート・フォン・アルヴェイン様 ご結婚式』
その下には、小さく一文が添えられている。
『※新郎はおりません』
通りかかった市民は足を止めた。
そして、看板を二度見した。
「……どういうことだ?」
誰にも分からなかった。
◇
「嫌よ!」
アルヴェイン公爵邸の衣装室に、少女の声が響いた。
「絶対に嫌!」
エリザベートは、鏡の前で腕を組んでいた。
その周囲には、十二人の仕立て職人。
そして、三十七着の純白のドレス。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
侍女長マリアンヌが尋ねる。
「全部、白いじゃない!」
「婚礼衣装でございますので」
「知ってるわ!」
少女は頬を膨らませた。
「でも、つまらないもの!」
「何色をご希望でしょう」
「黒!」
職人たちの手が止まった。
「黒いウェディングドレスがいいわ!」
「かしこまりました」
マリアンヌは即座に振り返った。
「黒絹を」
「はい!」
職人たちが動き出す。
「それから!」
エリザベートは鏡を見つめた。
「宝石もいっぱいつけて!」
「承知いたしました」
「裾は長く!」
「はい」
「でも、歩きにくいのは嫌!」
「調整いたします」
「あと、私が一番綺麗に見えるように!」
「もちろんでございます」
少女は満足そうに笑った。
「ふふっ! 楽しみだわ!」
◇
一方、王宮。
「黒い婚礼衣装?」
国王アルベルト三世は、報告書を見つめていた。
「はい、陛下」
宰相が答える。
「エリザベート嬢のご希望です」
「……そうか」
国王は頷いた。
すでに新郎のいない結婚式を認めてしまった以上、衣装の色など些細な問題だった。
「それで、式はいつだ?」
「本日の正午です」
「……今日?」
「はい」
「……今、何時だ」
「午前十時でございます」
国王は立ち上がった。
「なぜ誰も起こさなかった!」
「陛下は先ほどまで、エリザベート嬢に関する報告書をお読みになっておりました」
「……」
国王は時計を見た。
そして、静かに尋ねた。
「……私は出席するのか?」
「主賓でございます」
「誰が決めた!」
「エリザベート嬢です」
「……」
国王は、ゆっくりと椅子へ座った。
「……礼服を持ってこい」
◇
大聖堂の控室。
「どうして私まで……」
クラリス・フォン・ベルモンドは、鏡の前で呟いた。
彼女が着ているのは、淡い桃色のドレス。
胸元には、小さな花飾り。
本来なら、結婚式に参列する貴族令嬢として、ごく自然な装いだった。
問題は、その役割である。
「クラリス様」
侍女が声をかけた。
「花嫁介添人のお支度が整いました」
「……ありがとうございます」
クラリスは小さく息を吐いた。
昨日、エリザベートから届いた手紙には、こう書かれていた。
『あなた、私のお友達でしょう? だから隣に立ちなさい!』
断る理由を考えているうちに、馬車が迎えに来てしまった。
「……せめて、普通の結婚式なら」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「クラリス!」
「ひゃっ!」
エリザベートだった。
漆黒のドレス。
銀糸の刺繍。
夜空を閉じ込めたような宝石。
長い金髪には、黒い薔薇の髪飾り。
クラリスは、思わず息を呑んだ。
「……綺麗」
「でしょう!」
エリザベートは得意げに笑った。
「私もそう思うわ!」
そして、クラリスの服を見た。
「あなたも可愛いわね!」
「……ありがとうございます」
「でも、私より綺麗になっちゃ駄目よ!」
「……その心配はございませんわ」
「ふふっ!」
少女は満足そうに頷いた。
「じゃあ、行きましょう!」
◇
正午。
大聖堂の鐘が鳴った。
王国中の貴族が、長椅子に並んでいる。
最前列には、国王アルベルト三世。
その隣には、王妃。
さらに、各国から招かれた使節たち。
参列者は千人を超えていた。
祭壇の前には、大司教が立っている。
その手には、婚姻の誓約書。
ただし。
新郎の名前を書く欄だけが、空白だった。
「……」
大司教は、何度も書類を確認した。
間違いではない。
正式な依頼書には、確かにこう記されている。
『新婦のみ』
「……神よ」
大司教は、小さく呟いた。
「私は、何を祝福すればよいのでしょう」
そのとき。
大聖堂の扉が開いた。
◇
エリザベートが、ゆっくりと歩いてきた。
漆黒のドレスが、白い大理石の床を滑る。
金色の髪が、陽光を受けて輝く。
千人の視線が、一斉に少女へ向けられた。
「まあ……」
「なんて美しい……」
「黒いドレスなのに……」
ざわめきが広がる。
エリザベートは、その反応を見て満足そうに笑った。
(みんな、私を見ているわ!)
彼女は嬉しかった。
誰もが自分に注目している。
誰もが自分を美しいと思っている。
少なくとも、少女にはそう見えた。
それだけで、この結婚式を開いた価値があった。
祭壇の前に到着すると、エリザベートは大司教を見上げた。
「始めなさい!」
「……かしこまりました」
大司教は、深く息を吸った。
「それでは、これより婚姻の儀を……」
そこで、言葉が止まった。
新郎がいない。
当然だ。
最初からいないのだから。
「……」
大司教は、助けを求めるようにセバスチャンを見た。
老執事は穏やかに頷いた。
「予定どおりお願いいたします」
「……」
大司教は、覚悟を決めた。
「エリザベート・フォン・アルヴェイン」
「はい!」
「あなたは、健やかなるときも、病めるときも……」
「ええ!」
「富めるときも、貧しきときも……」
「貧しくなるのは嫌よ!」
大聖堂が静まり返った。
「……」
大司教は咳払いをした。
「……生涯、愛を誓いますか」
「誰に?」
沈黙。
大司教は、ゆっくりと目を閉じた。
もっともな質問だった。
「……それは」
「ねえ、誰に誓うの?」
エリザベートは首を傾げた。
「新郎がいないもの」
「……そのとおりでございます」
「じゃあ、誓わなくてもいいわね!」
「……」
「次!」
大司教は、静かに誓約書を閉じた。
◇
「それでは、指輪の交換を……」
大司教は言いかけた。
そして、再び止まった。
交換する相手がいない。
「……」
そのとき、セバスチャンが銀の盆を差し出した。
盆の上には、一つの指輪。
巨大な青い宝石が輝いている。
「お嬢様」
「何?」
「こちらを」
「まあ!」
エリザベートは目を輝かせた。
「綺麗!」
「お嬢様のためにご用意いたしました」
「素敵!」
少女は指輪を手に取った。
そして、自分の指にはめた。
「ふふっ!」
満面の笑み。
「似合うでしょう?」
「大変お似合いでございます」
「でしょう!」
大司教は、その光景を見つめていた。
自分で指輪をはめる花嫁。
神聖な祭壇。
千人の参列者。
そして、誰もいない新郎席。
「……」
彼は、長い聖職者人生の中で初めて思った。
今日は、早く帰りたい。
◇
式が終わると、大聖堂の庭園で盛大な祝宴が始まった。
料理は百種類。
花は一万本。
中央には、高さ十メートルのウェディングケーキ。
エリザベートは、目を輝かせた。
「まあ!」
「お気に召しましたか」
セバスチャンが尋ねる。
「ええ!」
少女は嬉しそうに笑った。
「でも、ケーキが高すぎて切れないわ!」
「こちらを」
レオンが、一本のナイフを差し出した。
「何?」
「ケーキ入刀用でございます」
「そう!」
エリザベートはナイフを受け取った。
「じゃあ、切るわ!」
少女が軽く刃を振る。
その瞬間。
十メートルのケーキが、真っ二つに分かれた。
「まあ!」
エリザベートは歓声を上げた。
「切れたわ!」
「お見事でございます」
レオンが一礼する。
参列者たちは拍手した。
その中で、クラリスだけが気づいていた。
ナイフは、ケーキに触れていなかった。
◇
午後三時。
祝宴の一角。
アレクシスは、不機嫌そうに紅茶を飲んでいた。
「……くだらん」
隣にいたクラリスが、小さく頷く。
「……ええ」
「新郎のいない結婚式など、聞いたことがない」
「……わたくしもですわ」
「しかも、王族まで呼びつけて」
「……」
「何を考えているんだ、あの女は」
クラリスは、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……何も考えていないのかもしれませんわ」
「……」
アレクシスは、遠くにいるエリザベートを見た。
少女は、巨大なケーキを前に嬉しそうに笑っている。
「……」
彼は、小さく息を吐いた。
「……あいつは、誰かを好きになったことがあるのか」
クラリスは、目を瞬かせた。
「……どうして、そのようなことを?」
「……別に」
アレクシスは顔を背けた。
「ただ、気になっただけだ」
◇
午後四時。
庭園。
「ねえ、レオン!」
エリザベートが声をかけた。
「はい、お嬢様」
「あなた、結婚したい?」
「……」
レオンは、少し考えた。
「現在、その予定はございません」
「そう!」
少女は満足そうに頷いた。
「じゃあ、私と同じね!」
「左様でございます」
「ふふっ!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
「結婚式って、楽しいのね!」
「はい」
「でも、結婚は面倒そうだわ!」
「左様でございますか」
「だって、ずっと一緒にいなきゃいけないんでしょう?」
「必ずしも、そうではございません」
「そうなの?」
「はい」
少女は少し考えた。
そして、首を傾げた。
「じゃあ、結婚って何のためにするの?」
レオンは、静かに答えた。
「……人によって、異なるかと存じます」
「ふうん」
「愛する方と共に生きるため、という方もいらっしゃいます」
「愛する人?」
「はい」
エリザベートは、しばらく黙っていた。
そして。
「……よく分からないわ!」
満面の笑み。
「でも、私のことを愛してくれる人は、いっぱいいるもの!」
「はい」
「だから、結婚しなくてもいいわね!」
「……」
レオンは、静かに頭を下げた。
「お嬢様が、そうお望みであれば」
◇
午後五時。
祝宴が終わりに近づいた頃。
一人の老人が、エリザベートの前に現れた。
白い法衣。
長い銀髪。
そして、深い皺の刻まれた顔。
大司教だった。
「エリザベート様」
「何?」
「少々、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「いいわよ!」
老人は、静かに尋ねた。
「……あなたは、愛とは何だとお考えですか」
少女は首を傾げた。
「愛?」
「はい」
「そうねえ……」
エリザベートは、少し考えた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「私のことを好きでいてくれることでしょう?」
大司教は、静かに頷いた。
「……なるほど」
「違うの?」
「いいえ」
老人は微笑んだ。
「それも、一つの愛の形でしょう」
「そう!」
エリザベートは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私、愛されているのね!」
「……はい」
大司教は、静かに頭を下げた。
「あなたは、大変愛されていらっしゃいます」
◇
その夜。
アルヴェイン公爵邸。
エリザベートは、寝台の上で指輪を眺めていた。
青い宝石。
銀色の台座。
そして、指にぴったりとはまる、美しい輪。
「ふふっ」
少女は嬉しそうに笑った。
「綺麗ね!」
そのとき、扉がノックされた。
「お嬢様」
マリアンヌだった。
「何?」
「本日は、お疲れ様でございました」
「ええ!」
「お式は、お楽しみいただけましたか」
「もちろんよ!」
「それは何よりでございます」
少女は、少し考えた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「ねえ、マリアンヌ!」
「はい」
「私、また結婚式がしたいわ!」
「かしこまりました」
「今度は、もっと大きく!」
「承知いたしました」
「それから、もっと綺麗なドレスで!」
「はい」
「あと、もっと大きなケーキ!」
「かしこまりました」
少女は満足そうに頷いた。
「ふふっ! 楽しみだわ!」
◇
同じ夜。
王宮。
「また結婚式だと!?」
国王アルベルト三世は、報告書を握りしめた。
「はい、陛下」
宰相が答える。
「エリザベート嬢が、次回の開催をご希望です」
「……いつだ」
「未定でございます」
「……」
「ただし、今回より大規模になる見込みです」
「……」
国王は、ゆっくりと椅子に座った。
「……次は、何人招待するつもりだ」
「王国全土の住民を、との案が出ております」
沈黙。
「……」
国王は、静かに目を閉じた。
「……王国が、結婚式で滅ぶ」
◇
深夜。
アルヴェイン公爵邸。
レオンは、一人で庭園を歩いていた。
黒竜ポチが、巨大な身体を丸めて眠っている。
その背後には、屋敷の灯り。
そして、最上階には、エリザベートの寝室。
「……」
レオンは、静かに空を見上げた。
五つの流れ星。
そのうち、一つが。
今夜、完全に動きを止めた。
「……」
彼は、しばらくその光を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……間に合わないかもしれない」
その言葉は、夜風に消えた。
今日も悪役令嬢は、愛されている。
第十七話 終




