第2話 意地悪な姉
ずっと横になっているわけにもいかないので、私はベッドの上で起きあがった。床に散らばった硝子を踏まないよう慎重にベッドから降りると、一先ず部屋の様子を確認する。
ここは地下室で、もともと部屋ではなく倉庫として使われていた場所のようだ。狭くてジメジメしていて、カビも生えていれば虫や鼠も出る。
ベッドと小さなテーブル、申し訳程度の洋服箪笥、そして姿見。それがこの部屋の全てだった。この部屋から出られる機会は、トイレに出る時と、一週間に一度のお風呂の時間だけ。それも全て侍女の許しが必要になる。
馬鹿げた話だ。けれど、それがアンジェリカの現実である。では何故、この少女は皇女でありながらこのような生活を強いられているのか。
それは単純で、アンジェリカには何の後ろ盾もないからだ。彼女の母親は庶民で、皇宮で働く侍女だった。それが『皇帝』――私からすれば『父親』に見染められて、アンジェリカが生まれたのである。
よくある話だ。しかし、母親は皇妃として認められることはなく、アンジェリカを産むとすぐに国から追い出されたらしい。
本当に追い出されたのか、はたまた殺されてしまったのかは分からないが、彼女の母親はこの国に存在しない。それが現実だった。
では次に、そんな酷いことをしたのは誰なのか。もちろん、父親ではない。
答えは、皇妃たちである。父親には4人の皇妃がいた。皆由緒正しいルクレッシオの貴族令嬢たちだ。
彼女たちがアンジェリカの母親を追い出したのは、愛する男を盗られるという嫉妬心――ではなかった。
彼女たちには、それぞれ自分の子供がいて、皇位を狙っている。そこに突如現れた新しい子供は、邪魔者以外の何者でもない。
本当は私を始末できれば一番安泰だったのかもしれないが、皇帝の血を引く子供を処分するのは容易でないため、一先ず何の力も持たない母親が排除されたのだろう。
私は父親にとって6人目の子供。つまり、アンジェリカには5人の兄姉がいた。
中でも私を虐めてくる筆頭は、皇帝の2番目の子供。アンジェリカにとって唯一の姉である、第一皇女だった。
私が閉じ込められている地下室は、広い皇宮の中でも『マゼンタ宮』と呼ばれる建物にある。ここは代々、皇女だけが暮らせる伝統となっていた。兄たちが暮らすのは『ターコイズ宮』、皇帝と皇妃たちが暮らすのは『プラチナ宮』だ。
皇帝の子供たちは皆、5歳まではプラチナ宮で父母と過ごす。そして5歳の誕生日と共に、それぞれの宮殿へ部屋が移されるのである。
基本的にはプラチナ宮は皇帝と第一皇妃が権力を握り、マゼンタ宮は第一皇女、ターコイズ宮は第一皇子が責任者となる。他の弟妹と、侍女や使用人の監督も、責任者の仕事だった。
私がこの地下室に連れてこられたのは5歳。そしてそれ以降3年間、父親が訪ねてきたことは一度もなかった。父親のことは正直よく知らないが、つまりそれだけ、私に対して無関心だということは分かる。
それは悲劇的かも知れないが、私にとっては好都合だった。この皇宮を出て平凡に暮らすためには、誰からも無関心である方が都合はいい。
お世辞にも綺麗とは言えない床を裸足で歩いて、私は姿見の前に立った。鏡に映る少女の姿を、自分だと認識するのに少し時間が掛かる。
『アンジェリカ』は鏡を見るのが好きではなかったので、自分の頭の中にはエルサの姿の方がハッキリと記憶されている。エルサは長い銀髪で、戦場で生きてきたせいか肌も健康的な色をしており、どちらかというと鋭い目つきの女性だった。
しかし、この少女が今の自分だ。腕と足は細く、3年間ろくに日差しを浴びていない肌は雪のように白い。顔は子どもながらに美しく、愛らしい大きな瞳は紛れもなく皇帝の血を継いでいることを物語っていた。
宝石のような青い瞳に、緑色の虹彩が散りばめられている。ルクレッシオの皇族特有の瞳の色だ。
しかし髪の色は、母親譲りなのか淡い桃色をしている。だが色よりも気になるのは、ボサボサに切られた毛先だ。
ハサミで無理矢理切られた髪は整っておらず、貴族の――ましてや皇族の女性には有るまじき短さだと思う。だが侍女や姉に無理矢理髪を切られたのには、単なる虐めではなく、理由があった。
私の髪は桃色だが、毛先にかけて皇族特有の金色に変色している。それを気味悪がって無理矢理切られたのだが、また翌日になれば切られたところが金色に変わった。何度繰り返しても同じことが起こる。
皇室特有の金色の髪と、美しい青い瞳は、皇位継承の決定的な理由にはならないが、大きな判断材料だった。この色を持つ子供は、皇位に就きやすい伝統がある。姉は、たかが私生児の私の髪に、金色が宿ることを気に入らないのだろう。
状況がだいぶ整理できてきた。
私は鏡の前で大きく息を吐き出す。この皇宮から出て一般人として生きていくためには、とにかくこの地下室から出るのが先決だ。
そのためには、この鍵をどうにかしなくてはいけない。私は鍵の掛かった扉をじっと見つめた。すると頭の中に、良くない考えが思いつく。
この扉、壊せないだろうか。
少なくとも、エルサなら楽勝である。この程度の薄い扉、一番弱い魔法でも粉々にしてしまうはずだ。問題は、アンジェリカの身体で魔法が使えるのか。という点だった。
魔法を使うには身体に魔力が宿っていることが前提である。先ずはこの身体に少しでも魔力があるか確かめなくては。そう思って私は瞳を閉じる。そして、自分の中に流れる魔の力を感じ取ろうとした、その時。
部屋がまたミシミシと揺れた。誰かが慌ただしくこの部屋に向かってきているのだと分かるが、これでは自分の魔力に集中できない。私は再び目を開けると、扉の方を睨みつける。
すると、先ほどの侍女が鍵を開けて部屋の中に戻ってきた。しっかり着替えたのか、服はもう濡れていないようだ。しかし、そんなことはどうでも良い。侍女の後ろからついてきた女の方が、私にとっては大きな問題だった。
「アンジェリカ。貴女、問題を起こしたんですって?」
彼女の言葉は冷たく、そして私を赤い瞳で睨みつけている。皇室特有の金色の髪は、腰まで伸びて癖ひとつ無く、丁寧に手入れされているのが分かった。
部屋の汚さが気になるのか、はたまた私自身を汚いとでも言いたいのか、扇子で口元を隠しながらその女は続ける。
「どうしてそんなに傲慢な態度でいられるの? 貴女は生きているだけで感謝しないと。そうでしょう、アンジェリカ」
この女は、『エレオノーラ・ルクレッシオ』第一皇女だ。
アンジェリカにとっては唯一の姉で、そして最も恐れている対象だった。エレオノーラの言うことに逆らってはいけない。エレオノーラの言う通りにしなくてはいけない。そう刷り込まれて生きてきた。
しかし、あんなに恐ろしくて大きな存在に見えたエレオノーラも、今ではそこまで脅威に感じない。
8歳の少女にとって14歳の相手はもちろん体格的にも大きいのだが、それでもエレオノーラはこんなに小さかっただろうかと感じてしまう。間違いなく、エルサの記憶のおかげだろう。
この女は、自分よりも弱い相手を支配して楽しむタイプの人間で、自分自身の強さは持っていない。大したことはないし、自分に魔力があれば、いざとなっても負ける気がしない。
私は、無言でエレオノーラを睨みつけた。皇族特有の青い瞳で、エレオノーラの赤い瞳を見つめ返す。まるで見せつけるように。エレオノーラにとって、喉から手が出るほど欲しいであろう、この瞳を。
するとエレオノーラは、持っていた扇子を閉じる。その音が、誰もが無言を貫く部屋の中で圧倒的な存在感を持った。そして、エレオノーラは、扇子の先を静かに床に向ける。
「何をしているの。早く床に頭をついて、謝るのよ。いつものように」
「……私は、謝るようなことはしていない」
「今なんて言ったの、よく聞こえなかったわ」
「生意気な侍女に躾をしただけ。それの何が――っ」
次の瞬間、私の左頬に痛みが走った。瞬時に、持っていた扇子で叩かれたのだと理解する。
避けようと思えば、避けられたかも知れない。だが、避けてしまうと余計に面倒なことになりそうな気がしたので、ここは敢えて大人しく殴られることにした。
エレオノーラは、私に触れた扇子を、汚物でも扱うように床に捨てる。そして不快そうにため息を漏らした。
「はあ……。貴女は私に口答えをしてはいけない。貴女は私に従わなくてはいけない。痛い目にあいたくなければ、言われた通りにする。思い出した?」
「……」
「ちゃんと思い出させてあげたかったけれど、今日はお父様との晩餐会なの。そこで反省していなさい。そこのあなた、アンジェリカに何も与えないで」
「はい、皇女様」
それだけ言い残して、エレオノーラは踵を返すと部屋を出ていく。侍女も私を鼻で笑うと、満足そうに部屋を出ていった。もちろん、鍵を掛けるのも忘れない。
2人の気配が遠ざかってから、私は鏡を見る。左頬は痛々しげに赤く腫れていた。
そんなことより、いま、晩餐会と言っていただろうか。この部屋は時間の分かるものが何も無いので、もうそんなに時間が経っているとは気が付かなかった。なるほど、エレオノーラがおめかしをしているわけだ。
今日が週に一度の晩餐会の日だと知れたことは、大きな収穫である。殴られた甲斐があったというものだ。
皇帝は毎日皇妃たちと食事をとる。しかし週に一度だけ、子供たちを集めて、皇帝と子供達だけの食事の時間を用意していた。それは親子の仲睦まじい時間であり、後継者を見極めるための時間でもある。
6歳から参加できるのだが、私はその晩餐会の存在だけ知っていて、参加できたことは一度もない。
つまり、今日は記念すべき初参加となる。
私は鏡の前で口端をつり上げる。いつも晩御飯と言って渡されるのは、泥水のようなスープと岩のように硬いパンだけだった。エレオノーラは普段どんな美味しいものを食べているのだろう。興味がある。
アンジェリカがどれだけ必要とされていないか、この8年間で痛いほどわかった。であれば、父親に直接この皇宮から出ていく許可をもらおう。ついでにエレオノーラにも、ちょっとだけ復讐させてもらおう。
私は再び瞳を閉じた。そして、自分の中に流れる魔の力を感じ取ろうとする。
そして自然と笑みが零れた。準備は、全て整ったようだ。
「さあ、お父様とお兄様たちの顔でも、久しぶりだし見に行こうかしら」
◆
晩餐会は、プラチナ宮の大食堂で行われる。
テーブルの上には豪勢な料理が何種類も並べられていて、さらにカトラリーは5人分用意された。皇帝の分、そして子供達4人分である。
皇帝は一番奥の席から子供たちの顔を見渡すと、少し寂しそうに微笑んだ。歳は既に40をとうに超えているが、未だに若々しい外見は、まだ現役の皇帝らしさを備えている。当然のように金色の髪、そして皇族特有の青い瞳の色だ。
子供達が揃わないことを残念そうにしながら、皇帝は静かに口を開いた。
「知っての通り、クリストフェルは西部の視察に行っているので、まだ暫く帰ってこれないだろう。エレオノーラ、アンジェリカの容態は――」
「今日も体調が優れないようです。ベッドに寝たきりで、起き上がることもままなりません。お父様との晩餐会に出席できないことを許して欲しい。と、言っておりました」
エレオノーラの饒舌な口調に、彼女の目の前に座る2人の男がニヤニヤと笑う。
第二皇子と第三皇子。全く同じ顔をした双子の男は、顔を見合わせるとエレオノーラのことを横目に見て笑っていた。
彼らはエレオノーラがアンジェリカを虐めていることも、こうして父親に嘘を報告していることも知っている。知っていて、何もしない。
エレオノーラの隣に座る第四皇子は黙ったまま、怯えたようにカトラリーに視線を落としていた。その様子にも気付かず、父親はエレオノーラに対して心配そうに尋ねている。
「アンジェリカの体調はまだ良くならないのか? 医者は遣わせているはずだろう?」
「はい。ですがお医者様も皆お手上げのようです」
「……病名も分からないとは、ヤブ医者め。やはり一度、私が直接アンジェリカの様子を見に行こう」
「お父様」
父親の提案に、エレオノーラは毅然とした口調でそれを制す。そして、打って変わって優しげな口調で続けて言った。
「アンジェリカはお父様に、自分の病気を移すことをとても怖がっています。どうかあの子の気持ちを汲んでやって下さい」
「しかしだな……」
「それにマゼンタ宮は男子禁制。父親や兄弟であろうと例外ではありません。そのために、お医者様も女性の方だったのでは?」
「……」
「ご安心くださいお父様。アンジェリカは私がちゃんと面倒を見ていますわ。そのうち元気になれば、必ず自分の足でお父様の元へ会いに伺います」
「……そうだな、頼んだぞエレオノーラ」
「お任せください」
そう言って笑いながら、エレオノーラは内心ほくそ笑む。父親が遣わした医者は、全員賄賂を握らせて帰らせた。何度もお見舞いに来ようとする父親と第一皇子も、男子禁制を理由に一歩も中に入れていない。
マゼンタ宮は、エレオノーラがルールだった。それは父親であろうと強制力を働かせづらいほどの権力を持つ。それが楽しくて仕方がなかった。
邪魔者の第一皇子も暫く西部に行っていて一ヶ月ほど帰っていないし、双子は生意気だけどエレオノーラの邪魔はしない、第四皇子は空気みたいなものなので取るに足らない。
全てが完璧だった。このまま第一皇子が一生帰ってこなければ良いのに。そう思いながら食事が始まる。最高級のステーキに、焼きたてのふわふわなパン。新鮮なサラダに栄養たっぷりの温かいスープ。最後には色とりどりのスイーツまである。
皇女として当然の権利を、当然のように享受できる。そのことを有難いと思うこともなく、エレオノーラがステーキにナイフを入れようとした、その時。食堂の外が騒がしいことに気がついた。
「何事だ?」
父親が扉近くの兵士に声をかける。兵士は一度礼をしてから様子を見ようと扉を開けようとした。しかし、彼が手を掛ける前に、扉の方が先に開く。
そして、誰もが扉の向こうへ釘付けになった。
少女だ。か細い足で、優雅にこちらへ進んでくる。服装は哀れなほど見窄らしく、靴も履いていない。足からは血が滲んでいて、彼女の歩いた後には赤い足跡が残った。
髪もボサボサに散らかっている。だが、誰もがその少女から、目をそらせなかった。
こんなに汚らしい姿だというのに、溢れるのは気品そのもので、どこで習ったのか見覚えのない作法で恭しく礼をする。いや、あれはヴェルヘルム王国流の礼儀作法だったかも知れない。しかし、そんなことはどうでも良かった。
今ここに、いるはずのない少女がいる。
彼女は、顔を上げると真っ直ぐに父親を見た。赤く腫れた左頬で、穏やかに笑って見せている。そして、鈴を転がすような愛らしい声で、凛とした挨拶の言葉を述べた。
「アンジェリカがお父様にご挨拶申し上げます。遅くなってしまい、申し訳ございません」




