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第1話 私の名前は

 硝子製のグラスがするりと手の中から滑り落ちると、硬い床の上で小さく跳ねる。


 その一連の映像が、まるでスローモーションでも見ているかのように、目の前でゆっくりと流れた。そして次の瞬間、グラスの割れる大きな破裂音が部屋の中に反響する。


 その大きな音と衝撃で、私は意識が覚醒するのを感じた。


 時の流れが元に戻り、それと同時に私の頭の中にはこれまで生きてきた8年間の記憶と、もうひとつ、別の人間の記憶が混在していることに気が付く。まるでずっと頭を覆っていた靄が、晴れたかのようだ。


 突然の出来事で混乱はするが、それでいてどこか冷静になる。気弱で内気な『アンジェリカ』であれば平常心ではいられなかったかも知れない。けれど私の中に蘇った、24年分の前世の記憶のおかげで、今の状況を冷静に分析しようと、そう思えた。


 思い出す。今日は、いつも通りの朝だった。意地悪な侍女が、顔を洗うには冷たすぎる水を持ってきて、更にグラス一杯だけの水を「朝食ですよ」と言って渡される。


 それを飲み干したところで、グラスを取り落とし、現在に至る。そこまで記憶を辿ったところで、侍女の大声が頭に響いた。




「まあ、グラスを落としたの!? 信じられないわ!」


 声のする方を見れば、侍女の服装をした女が、恐ろしい形相でこちらを睨んでいる。侍女のことは無視して部屋の中を見渡して見ると、此処は部屋と呼ぶにはあまりにも粗末な地下室であることが分かった。


 『アンジェリカ』は、乳母の元を離れた5歳の頃から3年間、ずっとこの部屋で暮らしている。


 ああ、可哀想なアンジェリカ。そう心から同情した。自分自身でありながら、自分自身ではない女の子のことを、心の底から哀れに思う。


 『私』だったら、こんな不当な扱いは絶対に受け入れられない。そう思っていると、無視されたことに腹を立てた侍女が、大きな足音を立てながら近づいてくる。そして、私の目の前で、更に大きな声を上げた。


「このグラスにどれだけの価値があるか分かってるの!? 私生児のオマエは、生きてるだけでも感謝しないと!」

「……」

「さあ謝って。何をぼさっとしてるの!? 床の掃除も忘れないで、硝子の破片1つも残さないでよね!」


 状況を正確に判断するために、丁寧に、私は頭の中の記憶を整理する。前世ではなく、この8歳の少女の記憶を。そして、自分の立場を正しく認識してから、私はゆっくりと口を開いた。




「……身の程知らずは誰かしら?」

「はっ? 今なんて言った?」

「名前も知らない一介の侍女さん、私の名前を言ってみて?」


 自分の口から出る声が、こんなに愛らしい少女の声であることに違和感を覚えつつ、私は言葉を続ける。普段と様子が異なることを怪訝そうにしながらも、侍女は相変わらず不遜な態度で乱暴に怒鳴りつけた。


「アンジェリカでしょう? 自分の名前も忘れたの!?」

「違う。ちゃんと言って」

「いい加減にして! オマエはまずグラスを割ったことを謝りなさい! それから――っ!」


 次の瞬間、私は自分のために用意された冷たい水桶を手に取ると、その中身を侍女に向けて力一杯ぶち撒けた。乱暴に水を掛けられて、彼女の頭からつま先まで、冷たい水が滴っている。


 あまりにも突飛な行動と、想像以上の冷たさに、侍女は言葉を失ってガタガタと震えていた。その震えは寒さのせいなのか、怒りのせいなのか分からないが、私は水よりも冷たい声で言い捨てる。




「私の名前は『アンジェリカ・ルクレッシオ』。この国の第二皇女、そうでしょう?」







 アンジェリカは元々気が弱く内気で、どんなに虐められてもそれを当然のように受け入れてしまう優しい性格だった。しかしアンジェリカの中に蘇った前世の記憶は、彼女とは余りにも対極にある。


 前世の名前は、『エルサ』。ヴェルヘルム王国で孤児として育ち、最終的に大魔導士まで上り詰めた女だ。


 孤児として生まれ、まるで野生児のように育ち、性格は強気で粗雑。細かいことは気にせず、強さだけが正義と考えて、他の孤児たちを従え、悪さや盗みを繰り返す。そんな幼少期だった。


 エルサに転機が訪れたのは、ヴェルヘルム王国とルクレッシオ皇国が戦争を始めた頃である。アンジェリカが生まれる、凡そ500年も前の話だ。


 ヴェルヘルム王国は兵力を募るために、孤児たちを集めて兵士として訓練を始め、まだ8歳だったエルサも当然のように徴兵された。剣術と魔術、どちらも厳しい訓練ではあったが、エルサはそれが楽しくて仕方が無かったのを覚えている。




 10歳にもなれば既に戦場にいて、大きな戦果を上げていた。どうやらエルサには、魔法の才能があったらしい。


 しかし他の孤児たちはどんどん戦場で死んでいった。それを悲しむ間もなく、次の戦場に連れて行かれ、また戦果を上げる。それを繰り返して10年も経てば、ヴェルヘルム王国の勝利で戦争は終わっていた。


 辛い記憶ばかりで、あまり思い出したくない。それでも、エルサには唯一無二の親友がいたことだけは鮮明に覚えている。いや、戦友と呼んだ方が相応しいかも知れない。


 ヴェルヘルム王国の王子として、常にエルサと共に戦場で背中を預けあった相手、『レオナルド・ヴェルヘルム』。柔らかい茶色の髪と、緑色のタレ目が柔和な印象だったが、戦場に出れば彼の全身が返り血で赤く染まった。


 魔法でエルサに勝てる者はいなかったが、剣術でレオナルドに勝てる者もいなかった。


 彼と出会えたことは、戦争による大きな戦果だと、エルサは思う。彼以上に信頼できる相手は、きっとこの先の人生で存在しないだろう。




 戦争が終われば、レオナルドはすぐに王位についた。遠くの立場に行ってしまったが、戦場以外では口をきくことすら叶わない相手だったので、当然だと思う。


 そしてルクレッシオ皇国とは和平を結び、その人質として、皇国の皇女とレオナルドは結婚した。皇女は美しい金色の髪と、緑色の虹彩が散りばめられた青い瞳の、一言で言うなら絶世の美女で、レオナルドには余りにも勿体無い相手だと思った。


 そうして、エルサは王国の専属魔導士となり、レオナルドとは時折顔を合わせるくらいの関係が続き、4年が過ぎた頃。突然エルサの身体に異変が訪れる。


 ある日前触れもなく倒れて、次に目を覚ますと余命を宣告されたのだ。それは1ヶ月という、笑えるほど短い余命だったのを覚えている。実際にかなり笑った。


 直接的な原因は不明だったが、単純に戦場で無理をしすぎたせいで、身体にガタがきていたらしい。医者の言うとおり、戦場ではかなり無茶をし続けたので、その説明で納得がいった。


 孤児として生まれ、戦場に生き、たったの24年で生涯を終える。波瀾万丈すぎて平穏に過ごせた時間も無い。


 そう思うと、後悔した。もっと普通の女の子みたいに、普通に家族と過ごして、普通に料理をしたり家事をしたり、普通にお買い物をして、普通の人と恋をして、普通に結婚をして、普通に家族を作る。そんな風に、『普通に』生きてみたかった。


 この世界に神様なんて存在しないけど、もし私の願いが叶うのならば、どうか来世では平凡な生活を送れますように。




 そう願いながら、エルサの人生は幕を閉じた。

 ここまでが、アンジェリカの思い出した、自分の前世の記憶である。







 目の前で水を滴らせる侍女を、私は冷やかに見つめていた。アンジェリカであれば絶対にこんなことはしないが、生憎、今の私にはエルサの記憶がある。


 記憶は人格を形成する。アンジェリカとして生きてきた8年間が無くなったわけではないが、それでも『エルサ』としてはこの状況が我慢できなかった。


 自分が敵国の皇女に転生したのは正に不運でしかないが、それにしても皇族であることに変わりはない。この侍女の態度は、当然許されるものではなかった。


 侍女はしばらくの間ガタガタと、紫に変色した唇を震わせていたが、やがて揺れる声で言葉を絞り出す。


「こ、こ、こんなことをして……、許されるとお、思ってるの!?」

「私が皇女で貴女が侍女である限り、許されるんじゃない?」


 当然のようにそう言いながら、私は短い足をぷらぷらと揺らす。ろくに食事も与えられていないせいか、アンジェリカは普通の子供より発育が遅いように見えた。


 お粗末なベッドの上に座っていても、足が床につかない。そのお陰で、落としたグラスの破片は足を傷つけずに済んだ。




 侍女は私の態度に怒りが心頭に発したらしく、今までで一番ヒステリックな叫び声を上げている。


「皇女殿下に言いつけるからねッ! そうしたらアンタなんか、酷い目に遭うんだから!」

「……ねえ」


 侍女の言葉を遮るように、私は一言呼びかける。ようやく大人しく謝る気になったかと、侍女は腕を組んで私のことを睨みつけた。


 そんな侍女を嘲笑うかのように、私は嘲笑する。そして、カラになった水桶を無造作に床に落としながら、こう告げた。


「風邪をひきたくなかったら、明日から水の温度には気をつけたほうがいいよ」


 その言葉を聞くと、侍女は聞き取れない程の怒声を私に浴びせてから、乱暴な足取りで部屋を出ていく。大きな音を立ててドアを閉めれば、天井まで揺れて微かに埃が落ちてきた。


 次いで、鍵の閉まる音。ここは地下室で、窓のひとつもない。アンジェリカは3年間、この部屋に監禁されていた。




 疲れた。そう思って再びベッドの上へ横になれば、埃が舞い上がる。薄暗く汚れた部屋、意地悪な侍女、虐めてくる姉、無関心な父親、もういない母親、助けてくれない兄たち。


 平凡な生活を望んでいたはずなのに、転生したのが虐げられている敵国の皇女なんて、そんなの余りにも酷すぎる。泣きたくなるが、それでも私は諦めなかった。


 今世こそ、絶対に平凡に生きてみせる。


 いくら皇女とはいえ、虐げられて、忘れられている立場の皇女なら、この皇宮から出ていくのもきっと簡単なはずだ。そう決心して、私は短い腕を精一杯天井に伸ばす。天井から吊るされた豆電球の光を捕まえるように。


 ――絶対に、この手で平凡な生活を掴み取ってみせる!

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