第79話 微笑
すべてが流れ出して心が空っぽになると、イオアンは立ち上がった。
エルがイオアンを見上げたが、顔を合わせるのも気恥ずかしく、
「……すまない」
とだけイオアンは言って、エルから離れた。
まったくの予想外だった。
いままで、アルケタやバルバドスにさえ明かしたことのない本心だった。
それをここで、エルに吐露することになるとは――。
冬の冷たい朝の空気を吸い込んだように、胸の内がひんやりとしていた。
何かが浄化された気がする。
だが気持ちが追いつかず、薄暗い厩舎でイオアンは立ち尽くしていた。
「出発するんだよね?」
とエルの声が背後から聞こえ、イオアンは頷いた。
「そうだな、準備しよう」
イオアンはククルビタに鞍を載せると、ブッケルムのそばに歩み寄った。相変わらず痩せ細っているが、その黒い瞳は生気に満ち溢れていた。ブッケルムが頭をイオアンの体にこすりつけ、イオアンはその首筋を撫でた。
この三年間、お前は私のたったひとりの友人だった。
ありがとう。
お前とはいろんなことを話したな。
これからは、エルがお前の話し相手になるんだろう。
私か? たぶん私は……ひとりでもやっていけそうな気がするよ。
もう大人だからな。
いい加減、独り立ちしろってことなんだろう。
でも寂しくなるよ、本当に……。
それ以上そばにいると、また泣き出しそうな気がしたので、イオアンはくるりと背を向けると、ブッケルムから離れた。
これでいい。
もうエルの手に任せたんだ。
涙を出し尽くしたことで、すべての区切りがついたような感覚があった。
イオアンはククルビタの手綱を引いて、明るい厩舎の外に出た。その後ろを、手を後ろに組んだ無言のエルと、ポカテルがついてくる。屋敷の前を通り過ぎ、吊り橋を渡り切ったところで、イオアンは立ち止まった。
「ここで別れよう」
エルは黙って頷いた。どこか嬉しそうだった。
イオアンのほうは地に足が着いていないような、ふわふわとした感じだった。自分が自分でないような、抜け殻だけのような感覚。
どんな言葉をエルにかけたらいいのか分からない。
山からの風が吹き、エルの巻き毛の黒髪を揺らした。エルが憎んでいたセウ家の紋章が描かれたマントもひらひらと揺れている。ドレス姿の印象のほうが強すぎて、イオアンは市場で出会った頃のエルを思い出せなかった。
そのエルは、じっとイオアンを見つめている。
「カルハースから仕事の話もあったが……」
これから告げる内容を口にするには、イオアンは決心が必要だった。
「……たぶん私たちが会うことは二度とないだろう」
「……そう?」
エルが下を向いて、ブーツの先で地面を蹴った。
「たぶん、そのほうがいい。お前やカルハースたちと会ったことで、これから伯爵家の嫡男として生きる覚悟がついたのだと思う」
とイオアンは自分に言い聞かせるようにして告げた。
「今回みたいなことは一度きりだ。ブッケルムを逃がすために必要だったからだ。こんなことは普通じゃない。当たり前であってはいけないんだ」
そう言いながら、いったい私は何を弁解しているんだろうとイオアンは思っていた。純白のドレスを着た少女のような少年の前で。
「……でも、心は軽くなった?」
「そうだな……」
イオアンはカルハースの言葉を思い出した。
「私の呪いも解けるかもしれない。いや、自分で縛った結び目を、これからひとつずつ解いていくのかもしれないな」
俯いたエルが小さな声で何か喋り始めた。
「イオアン様はさ……」
イオアンは聞き取ろうと、エルの前で身を屈めた。すると突然エルがイオアンの首に手を回し、抱き着いてきた。
「……もう自由さ」
イオアンの耳元でエルが囁く。
「でも、また俺に会いたくなるはずだよ!」
驚いたイオアンが慌ててエルの体を引き剥がすと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、エルが手を後ろで組み、イオアンを見上げていた。
エルの微笑の意味が分からず、不気味に感じたイオアンは後ずさると、そそくさとククルビタの背中に跨り、別れの言葉も告げずに馬を走らせた。その後ろを、ポカテルが尻尾を振って追いかけていく。
エルのスカートの裾が風にはためいた。なだらかな丘の向こうにイオアンの姿が見えなくなるまで、エルは微笑みながら見送っていた。




