第80話 綺麗な首飾り
ポカテルの先導に従って、イオアンは鍾乳洞をくぐり抜け、森を走り抜け、街道に出た。あとは山の中の街道を辿っていけば、イグマスに到着するはずだった。
ククルビタに跨っているイオアンの内面は、あのエルの不可解な微笑が最後の一撃となって崩壊し始めていた。
イオアンは子供の頃から、外からの負荷に対抗するため、騎士の甲冑のように精神的な鎧を身にまとって生きてきた。その甲冑があったからこそ、普通の人間なら耐えられないような精神の暗闇のなかで数年間息をすることができたのだ。だが、その精神的な鎧は、イオアンを他人や社会から遠ざけるための壁にもなっていた。
その強固な鎧に、この二日間の出来事によって、亀裂が入り始めていた。
死に瀕したブッケルム、市場での兄弟殺しの人形劇、血塗れた天幕でのエルとの出会い、あどけない少年に女装をさせ、恐れている父親への抵抗としての馬泥棒、夜間の長距離の追跡、石切り場での父親との対決と一度目の発作、〈首なし騎士団〉という帝国外の存在との接触、カルハースによる芝居じみた尋問と二度目の発作――それらによってすでにイオアンの鎧は壊れかけていたのだ。
そこに厩舎でのイオアン自身の号泣とエルの抱擁によって、長いあいだ縛り付けていた何かが解け、最後のひと押しが最後のエルの微笑と台詞だった。イオアン自身、なぜあそこまで不穏なものを感じたのか理解できていない。とにかく、いまのイオアンは自我の崩壊の危機に瀕していた。
いつのまにか固い地面がなくなっている。
何か掴むものが必要だったが、宙を掴むばかりで何もない。
どこまでも落下していくような、もしくは上昇していくような得体の知れない感覚を味わっていた。
いわば、イオアンは忘我の状態にあった。
だが、しばらく馬の背に揺られていているうちに、背骨山脈の鮮やかな夏の風景を眺めているうちに、ばらばらになっていたイオアンの心の破片が、いつのまにかあるべきところに収まっていった。
ほとんどイオアンは手綱を握っていなかったが、騎手が操らなくても、むしろ操らないことで、馬は勝手に正しい方向へ進んでいた。
こうして、イオアンの心は再び統合された。
夜になる前に到着するだろうかと心配しながら峠道を超え、ファッシノ河のアーチ橋の頂点に登ると、ちょうど太陽が西の山並みに沈むところだった。
遠くに見えるイグマスの城壁が西日に照らされて、まるで燃えているかのようだった。だが、そんなことはあり得ない。この数百年間、敵の軍勢がイグマスに近づいたことはないのだから。
ふと、カルハースの言葉を思い出す。
まもなく帝国は崩壊するだろう――。
果たして、そんなことがあり得るのだろうか?
イオアンは真っ赤な夕焼け空と、溶けるようにして沈んでゆく夕陽を眺める。
もしかしたら帝国は限界なのかもしれない。
巨大な自らの体を支えきれず、潰れかかっているのかもしれない。
太陽が沈んだらどうなる? 暗黒時代の到来か? 野生の帝国とはどういうことか? いつか新しい太陽は昇るのか?
そんな不吉な予感に囚われながら、イオアンは橋を渡った。
日が暮れる前にイグマスに着きたい。
旧市街に入る北大門の前は混みあっていた。夜になる前に城内に入ろうとする者たちと、近隣の町や村へ帰ろうとする者たち。
この北大門を、イオアンは昨日の昼過ぎに通過したのだ。
あのときの自分は、エルが捕まっていないか不安でいっぱいだった。
いまは家に帰ってきたという実感がある。
イグマスの街並みは、ごみごみとして埃っぽくて忙しないが、それでもイオアンの心は落ち着いた。
ささやかな自分の冒険が終わったのだという感傷――。
北大門をくぐるとき、おそらくセウ家の兵士と思われる衛兵が、イオアンに会釈した。イオアンも馬上から鷹揚に頷き返す。
旧市街に入った。〈陰の街道〉には、まだ大勢の旅人がいて、商人が荷馬車を走らせている。生活の匂いがした。夕暮れ時の寂しさも感じられる。
これから、いつもの日常に戻るのだ。
※ ※ ※
セウ家の〈塔〉が見えてきた。
その頃には完全に日が落ちて、あたりは暗くなっていた。
屋上では篝火が焚かれ、兵士が見張っている。丘の上へ続く長い坂を登り、屋敷の門にようやく辿り着いた。イオアンの気持ちは軽かったが、体はくたびれ切っていた。門番はイオアンを見て頭を下げ、無言で通した。
若い馬丁が、ククルビタを引き取ろうと近寄ってきたが、イオアンは断り、屋敷の裏側まで馬を進めた。屋敷の使用人たちも、騎士や兵士たちも昨日と変わらない。イオアンに頭を下げて通り過ぎていく。イオアンの心が変わっても、外の世界は昨日までと変わらないようだった。
馬小屋の前で、イオアンはククルビタから降りた。ポカテルはどこかに消えてしまった。馬小屋の中に入ると鞍を外し、井戸から水を汲んだ。
ククルビタに労いの言葉をかけ、イオアンは隣の空っぽの馬房を眺めた。
もうここにブッケルムはいない。
これからもずっと。
だが、これで良かったんだ――。
しばらく暗い馬房の中で、イオアンはひとり立ち尽くしていた。
コンコンと木を叩く音がしたので振り返ると、カンテラを持ったバルバドスが、馬小屋の入口の柱にもたれかかっていた。
「えらく時間がかかったじゃないか」
バルバドスを見たイオアンは、〈首なし騎士団〉の隠れ家で起きたことをすべて話したい衝動にかられた。だが、それはできない。カルハースに口外しないと約束したのだから。それにいまは、あまりに疲れすぎていた。
イオアンは背を向けて、ぼそりと呟いた。
「いろいろあったんだ」
「いろいろだと?」
バルバドスが眉を上げて、馬小屋に入ってきた。
「ずいぶんと簡単な説明じゃないか。こっちは少なからず心配してたんだがな。あのまま、石切り場で置き去りにされているとか」
背の低いバルバドスが鼻を鳴らし、イオアンを胡散臭げに見上げた。
「〈フリュネの誘惑〉にでも寄ってたのか?」
「まさか」
「娼婦を抱いてきたのかと思ったぞ」
「私のどこに、そんな体力がある」
「香水の匂いをぷんぷんさせているからさ」
イオアンは自分のローブの袖を嗅いだ。麝香の香りが染み付いている。そうか、厩舎でエルに抱きついたときに移ったんだ――。
「なんで顔を赤くしている?」
怪訝な顔をしたバルバドスが、イオアンの胸元を指差した。
「それにどうした?」
「何がだ」
「首飾りだよ。娼婦に贈ったとか言わないでくれよ」
「え?」
イオアンは胸元に手をやり、さっと青ざめた。
確かに〈綺麗な首飾り〉がなかった。
だが、そんなはずはない。
隠れ家では、カルハースたちが目にしていたのだ。
首筋に手をやると、エルが巻いてくれた包帯に触れ、イオアンはハッと気づいた。
そうだ。
あのエルの微笑の意味はこれだったんだ!
私が泣いていたときだ――。
改めてイオアンは首に触れた。
いまやそこには、縛られた縄もなければ美しい首飾りもない。
こっそりエルが外して、盗んだんだ!
故郷で貝殻の首飾りがどうのこうのと言っていた。
では、エルの贖罪のためか?
しかし、そんな大それたことをするだろうか?
〈綺麗な首飾り〉がどれほど高価なものかは、石切り場でも説明したはずだ。イオアンは、あのときの物欲しげなエルの表情を思い出す。
確か、市場でニナが触れていたときに初めて見たと言っていたな。
まさか、あのときからずっと狙っていたのか?
それとも――、
イオアンはハッとする。
首飾りの重さと責任について、私が何度も弱音を漏らしていたから、まさか、身代わりになって引き受けようとしてくれたのか?
しかし、これはとんでもないことだぞ。
数枚の金貨とは重みが違う。〈綺麗な首飾り〉を奪われたとなると――と頭では思うのだが実感がない。
ただただエルの巧妙さに感心していた。
あれは、盗みが成功した会心の笑みだったわけだ。
思わずイオアンの口元が緩む。
首飾りによって、また私と会うだろうと確信していたんだ。確かに取り返すためなら、どこまでエルを探しに行くだろうからな――。
バルバドスが訝しげにイオアンを見ていた。
このことを知っているのは、私とエルだけだ。ふたりだけの秘密だ。これで、厩舎からのふわふわした地に足のつかない感覚も説明がつく。
一気にイオアンの緊張が解けた。
馬鹿馬鹿しいほどに単純な理由だった。
たぶん、子供の頃からずっと続いていた首飾りの影響から解放されたからだ。
イオアンは馬小屋の中を見回した。
自分は何をあれほど深刻に考えていたんだろう?
なぜだか愉快な気分になってくる。
「どうしたんだ?」
とバルバドスが眉をひそめて訊いてきたので、イオアンは首を振った。
「いや、何でもない」
人生に意味などないのだ。与えられた役を楽しめばいい――。
カルハースの言葉を思い出す。
しかし首飾りは奪われてしまった。これからの私が演じる役は何なんだ?
突然何もかもがおかしくなり、腹の底からイオアンは笑い出した。
「……大丈夫か?」
バルバドスが気味悪そうに尋ねる。
「変な茸でも食ったんじゃないだろうな?」
だがイオアンの笑い声は大きくなり、その笑いが止まらず、バルバドスの肩に手をかけていないと立っていられないほどになった。
イオアンは涙を拭いた。
「もう私は駄目だ、ククルビタの世話は頼んだ!」
イオアンは腹を抱えて笑いながら、よろよろと馬房の外へ歩き出した。
バルバドスはぽかんと口を開けて、イオアンが出ていくのを見送った。外から狂ったような笑い声が聞こえ、やがて遠ざかっていった。
呆然としたバルバドスは、そばに立っているククルビタに問いかけた。
「いったい、イオアン様はどうしちまったんだ?」
ぶふんとククルビタが鼻を鳴らした。




