第73話 浮遊
椅子から引きずり下ろされ、肩を震わせて嗚咽しているエルは、ディオンに抱きかかえられて慰められている。
カルハースは、エルが立っていた椅子をどかすと、イオアンを見上げた。
麻袋を被っているイオアンの表情は分からないが、首に縄がかかっていても落ち着いているように見えた。
「……舞台の上に立つのも慣れてきたかね。君は何か、悟ったようなことを口にしていたが、そう簡単に楽になられても困るんだよ」
「なぜだ。口封じのためなら早く私を殺せばいい。それで、お前たちの心配もなくなるだろう」
「いや、なくならないな。このまま死なれたら、あのイオアン君とは何者だったんだろうと夜も眠れなくなってしまう。この物語は、謎が解き明かされてこそ完結するんだ。未完のまま終わるなど、許されないのだよ」
「結末は、お前が好きに解釈すればいい。早く終わらせろ」
「君はワインを飲んだろう。失禁するぞ。床の上等な狼の毛皮がだいなしだ。君もそんな醜態は晒したくないんじゃないのかね」
「……死んでしまえば、私にはどうでもいいことだ」
「ふん、あとは野となれ山となれということか」
とカルハースが鼻を鳴らした。
「勝手に舞台から降りるなど、この私が許さん。舞台に上がった以上、役者なら感動的な演技を見せる義務がある。いまのところ我々が見せられたのは、ヒロインとの感傷的な愁嘆場ぐらいだ。もっともっと私を楽しませて欲しいのだよ」
カルハースがさらに椅子に近づき、上を見上げた。
「本当に、君は正体を明かすつもりはないのか?」
と言って、カルハースが椅子を足で小突くと、椅子の上のイオアンはバランスを崩し、ふらふらと落ちそうになった。
「もっと主人公が苦しまないと、決定的な山場には進められないというのか?」
イオアンは発作の前触れを感じた。
エルとの対話で得られたイオアンの精神的な安らぎは、軽く椅子が揺れるという物理的な現象だけで、いともたやすく崩壊した。
みぞおちに誰かの握り拳でぐいぐいと押さえつけられたような圧迫感を感じた。次いで、熱い不快感が食道を通って頭のほうへ駆け上がってくる。目の前で光が点滅。麻袋を被らされて暗闇の中にいるはずなのに、目の前に草原が広がっている。十二頭の野生の馬が走っている。青空には白い雲が流れているが、その一部は黒く途切れて不完全だ。何か焦げるような異臭。イグマスの牢獄塔の黒いタールと同じもの。舌の先には鉄のような苦みがして、それは血の味のようにも思える。舞台の下では誰かが叫んでいる。舞台? いや椅子の下からだ。少年の叫び声のようにも聞こえるが、もはや、その人物の名前は思い出せず、出口のない洞窟のように声だけが反響している。
「もう、やだよ!」
椅子の上で硬直しているイオアンを見て、エルが叫び、後ずさった。椅子の前でイオアンを見上げていたカルハースが振り返った。
「エル、どこへ行く気だ!」
「そんなに苦しめなくたっていいじゃないか!」
「ディオン、逃がすな!」
とカルハースが命じ、部屋から出ていこうとするエルの腕を、ディオンが掴んだ。カルハースがさらに告げる。
「これが、お前の軽はずみな行為が招いた結果なんだ!」
「俺が悪かったよ!」
と叫んで、エルはディオンの手を振りほどこうと暴れた。
「もう見たくないよ! あの人が死んじゃう!」
「落ち着け! お前はそこでイオアン君の選択を見届けるんだ。おい、お前たちもエルを押さえつけろ」
ダルトンとブシェルは慌てて椅子から離れると、暴れているエルを抱え込んだ。それでもエルは半狂乱になって叫び続けている。
「あの人は悪くない! 俺が短剣をあげたんだよ! あの人は何も盗んでない! 嘘をついたのは俺のほうなんだ! あの人がまた死んじゃうよ!」
「エル、しっかりしろ!」
カルハースが、叫んでいるエルの顔を両手で挟んだ。
「我々はイオアン君を殺すつもりはない!」
「え?」エルが叫ぶのをやめた。
「イオアン君はここで死んだりはしない」
とカルハースが、エルにゆっくりと言い聞かせた。
「だが、彼は磨かれないといけない原石なんだ。物語の主人公というのは過酷な運命に翻弄される必要があるのだよ」
「……何を言ってるんだよ、カルハース……俺には分かんないよ」
「いや、お前には彼の力が分かってるはずだ」
「イオアン様の力……?」
「お前が彼に惹かれたのもそこなんだろう? 彼は何かを隠し持っている。それが我々を苦境から救ってくれるはずだ。その力を引き出すためには、極限まで追い詰めないといけないのだよ……」
エルが落ち着いたので、ふうとカルハースは力を抜いた。
「家庭教師か学者かは分からないが、いままでの彼はぬるま湯の生活を送ってきたはずだ。そのせいで磨かれもせず、輝きもせず、あんなふうに自分自身を否定するようになっている。だからこそ、いちど自分の力を使わざるを得ないところまで、イオアン君を追いつめる必要があるんだ」
「でも……追い詰められて死んじゃう人だっているんだよ」
とエルが不安そうな顔をした。
「イオアン様は、そこまで強い人じゃないと思う……」
「いや、彼なら大丈夫だろう。底の底まで降りても、そこから生還できる人間だ。それが彼の役割なんだ」
「どういうこと?」
「つまりだな、他の人間では無理な、生と死の狭間まで辿り着くことができる」
「……どうして、そんなことが分かるんだよ」
「私がくぐり抜けてきたダンジョンや、魔物と戦った数多の経験からだ。彼からは同じような匂いがするんだ」
「同じ匂いって?」
「おそらく……彼から強い魔力が滲みだしているのだろう」
とカルハースが考えながら答えた。
「普通のエルフとは比べ物にならないオーラだ。それはブッケルムからも感じたものだ。あいつも小さな馬房では駄馬だったが、野に放たれ、危機に瀕して、初めてその力を発揮したじゃないか。彼も同じだと思う」
「でも、あそこまでしなくても……」
「これは芝居なんだ。現実じゃない。あくまで頭の中で起きていることだ。象徴なんだよ。椅子は舞台の象徴であり、舞台は人生の象徴だ。だが我々の心は現実も虚構も区別はつかない。同じように認識するんだ。いま彼は嘘をついている。我々に対してだけじゃない、おそらく自分に対してもだろう……」
カルハースが一同を見回した。
「だが、彼はこの芝居を通して変わるかもしれない。生まれ変わるかもしれない。主人公が生まれ変わるためには、死を覚悟するほど危機に近づく必要がある。それが髑髏の仮面を被った我々……つまり死だ。そして主人公には、それを陰から見守るヒロインが必要なんだ」
カルハースがエルの肩を掴んだ。
「彼が自分で選ばなければいけないのだよ。いままでの嘘の人生を続けるのか、それとも真実の人生を生きるのか。この苦しみを通して、古いイオアン君が死んで、いまや新しいイオアン君が……」
ガタン、という音がして、カルハースたちが後ろを振り返った。椅子が床に倒れ、梁からイオアンの体がぶら下がっていた。




