第70話 馬泥棒1
「私は……」
麻袋の中から、イオアンは震える声で宣言した。
「私は……何者でもない」
椅子の前に立っているカルハースが、
「何だと! ここまできて、正体を明かさないつもりか!」
と見上げているイオアンに怒鳴った。
「……私に、明かすほどの価値はないんだ」
とイオアンは小さな声で弁明した。
「意味のない存在なんだよ。お前たちのことを誰かに喋るつもりはない。だから、お前たちも私のことを忘れてくれ……」
これが、イオアンの正直な気持ちだった。
いつも、自分のことを理解して欲しいという気持ち以上に、誰にも知られたくない、後ろに隠れていたいという気持ちが強かった。
本当の自分を誰かに知られたら、何か悪いことが起きるに違いないという、拭いがたい恐れが子供の頃からある。
だから、世界には放っておいて欲しかった。
私は何も干渉しない。
このまま世界も、私を忘れてくれればいい――。
「それは信じられんな」
というカルハースの声が聞こえた。
「だったらなぜ、この隠れ家を調べようとした? エルの誘いにのって、危険を冒してまでやってきた?」
「それは……」
「君が密偵だからだろう?」
「違う。少なくとも私は密偵じゃない!」
「ほほう、ではタタリオン家は関係ないと? セウ家との関係だな?」
「……個人的趣味だ」
「個人の興味で、ここを訪れる人間がいるとは思えない」
「好きにしろ。とにかく、お前たちのことは黙っているつもりだ」
そうイオアンは言い放ったが、強気に出たというより、恐怖に飲み込まれて、もう考える余裕がないというほうが近かった。
「正体を明かさない人間の約束など、信じられると思うかね?」
「……私は血塗れの肉屋の天幕で、初めてエルと出会った。そのとき、エルを傷つけないとメルクリウスに誓った。だから、私が正体をお前に明かすまいと関係ない。神々は私のことなどお見通しなのだからな。そうだ、これからもエルが傷つくようなことを、私が誰かに話すことはないだろう。だいたいお前たち〈首なし騎士団〉が、どうしてそこまで秘密に拘るのかが理解できない。ほとんどの帝国民たちはお前たちのことを気味の悪い存在としか考えていない。私のように興味を持つ者など一握りなんだ。そこまで気にするのなら、私を解放してお互い忘れればいい……」
下から、
「……イオアン様」
とエルのすすり泣く声がまた聞こえた。
「初舞台にしては、なかなかの台詞じゃないか」
というカルハースの声。
「それは賞賛に値する。しかし我々には、騎士団の他の者とは違う特殊な事情があるんだ。だからこそ君の演技に神経質になっているのだよ」
「……何だそれは?」
「では、こうしよう。君が黙っているというのを信用して、我々も重大な秘密を明かそうじゃないか。そうしたら君も自分の正体を明かすのだ。君がどんな人間であろうと、我々も傷つけないとメルクリウスに誓おう。これでどうだね?」
「……本当だな?」
「約束する」
「私の正体が何であろうと、エルも傷つけないな?」
「もちろん。エルが裏切らない限りは、我々がエルを傷つけることはない」
もう、ここまで来たら正体は隠し通せないだろう。
そのうえで、私とエルの安全を保障し、彼らの秘密まで明かすというのだ。
これ以上、有利な条件はないようにイオアンには思われた。カルハースが約束を守るかどうかは、信じるしかない。
「……いいだろう」
「よし、契約成立だ。では私から話すとしようか。この秘密を知られたら、なぜ我々は壊滅的なのか、そして、どうして君の正体を知る必要があるのか……」
こう言ってから、しばらくカルハースの声が聞こえなくなった。何も見えないイオアンは、聴覚が敏感になっている。
麻袋の中のせわしない自分の息づかい。
左右の騎士たちの呼吸音。
下から聞こえるエルの微かなすすり泣き。
屋敷の外から聞こえるのはヒューヒューという風の音。
「……我々はタタリオン家から、三年間で百五十頭の軍馬を盗んだのだ。これは密偵なら、上層部に報告したくなる情報だろう」
「なんだって? そんなことはあり得ない!」
思わずイオアンが叫ぶと、カルハースの満足そうな声が聞こえた。
「それがあり得るのさ。そうでなければ、ここまで必死に隠そうとはしない」
「しかし……」
「我々はタタリオン家の五つの属州を、目立たないように転々と移動し、あちこちの軍や領主や騎士から少しずつ盗み出した。すべて売り払ったが、一匹だけ怪我をしたのがあってね。それをダマリが治して、昨日の朝、イグマスの旧市街にあるワイン商に売りに行ったのだ。そこで問題が起き、ダマリが捕まった。しかし新市街の市場にいた君が、なぜかそのことまで知っていたそうじゃないか。だから、おかしいと勘づいたのだよ。エルを騙して、我々を探ろうとしてると思ったのだ」
「……百五十頭というのはあり得ない」
これが農耕馬なら別だが、軍馬というのは体が大きく、気性も荒い。カルハースたちだけでは、一度に何匹も盗み出せないし、売るまで隠しておくのも、維持するのも大変なはずだ。セウ家の屋敷だって常時いるのは二十頭ぐらいだろう。それを百五十頭も、三年間気づかれずに盗み出すというのは、常識的には無理なはずだった。
「……それでは、騎兵隊一個分の数じゃないか!」
「そうだな。大変だったが、エルが張り切って活躍してくれた」
「エルが!?」
「正直〈首なし騎士団〉である我々は、盗みについては不慣れでね。奇術師の教えを受けたエルが加わったおかげで、成功率がぐっと上がったのだよ」
「私は……一頭だけ盗んだのかと思っていた」
イオアンは肉屋の天幕で、エルに馬泥棒の罪の重さをちらつかせたことを思い出した。高価な馬、それもタタリオン家の所有物である軍馬を盗んだら、死罪であるのは間違いない。だがエルは、一頭どころか百五十頭も盗んでいたのだ――。
セウ家の嫡男であり、主家のタタリオン家への忠誠を、生まれたときから刷り込まれているイオアンにとっては衝撃的すぎる情報だった。イオアンが嫡男であるセウ家は、タタリオン家の分家である。そのタタリオン家から盗まれたということは、家族のものを盗まれたことに等しい。
そんな盗人のために、私は命を賭けようとしていたのか――。
イオアンは愕然としたが、まだ信じられない、信じたくない気持ちがあった。それにどこか、カルハースの話に違和感も感じていた。




