第61話 カルハース1
屋敷の玄関ホールは真っ暗だった。
「おかしいな、いつもはこんなんじゃないんだけど……」
と覗き込んだエルに、
「留守か?」
とイオアンが後ろから尋ねる。
「そうだね、ダルトンとブシェルはイグマスから戻ってないのかもしれない。カルハースたちは外にいるのかも。とにかく入ろう」
「いいのか?」
「へへ、屋敷を独り占めなんて滅多にできないし、イオアン様も疲れたでしょ? 休憩していけばいい」
「そうさせてもらえるならありがたいが」
「奥の居間は居心地がいいんだ。飲み物でも飲んで待ってよう」
エルが体重をかけて樫材の扉を押し開けた。ギィーと軋みながら扉が開く。少しぐらいの風では閉じなさそうな重さだった。
そろそろとエルが足を踏み入れる。
イオアンも玄関ホールに入り、目を凝らした。
吹き抜けの広い空間のようだ。突き当りに両開きの扉があり、その両側に二階へ通じる階段が上へ伸びている。壁際に誰か立っているのかと驚いたが、それは甲冑が飾られているだけのようだった。
エルに続いて、イオアンも奥へ進んだ。
玄関の扉は開けたままにしておく。
ふたりがホールの中央まで進んだところで、突然眩しい光に晒された。
それは、四方八方から真夏の太陽の光を一斉に浴びたようなもので、眩しすぎて目も開けていられない。
「なんだこれっ!」
とエルが叫び、咄嗟にイオアンも閉じた瞼を手で覆って、下を向いた。
すると、
「お前たちは何者だ?」
という威厳のある、だが年寄りでもない深みのある声が上から聞こえた。
「生きて帰りたければ、名を名乗れ!」
「俺だよ、エルだよ! カルハースやめてくれよ!」
とエルが眩しそうにしながら正面を向く。
「お前がエルだと? そんなはずはない」
と疑わしそうな声が響く。
「なに言ってんだよ、見りゃ分かるだろ。眩しいから消してくれよ!」
「女よ、下手な嘘をつくな。お前は何者だ?」
「だから、俺だって!」
エルは頭のヴェールを脱ぐと、床に投げ捨てた。
「これで分かんだろ!」
ようやく目が慣れてきたイオアンは顔を上げた。カルハースという男が声の主だとすれば、玄関ホールの二階の回廊から呼びかけているようだった。
「顔は似ているようだが、私が知っているエルなら、絶対にそんな格好をしない。むしろ、可愛い見た目を恥じているようだったからな」
「これは仕方がなかったんだよ」
「仕方なく男がドレスを着るという状況が想像できないのだが」
「でも、本当なんだって」
「では、お前が望んで着たのか? いやはや、そんな趣味を隠してたとはな」
「俺が望んだんじゃない!」
顔を真っ赤にしてエルが叫んだ。
「命じられたからだ!」
「命じられた? いったい誰に?」
「その……イオアン様に」
「何者だ?」
「この人だよ。この人に言われて着たんだよ」
「その僧侶か? どういうことだ」
「俺たちを入れてくれたら、居間で説明するよ。混み入った話だから」
「そんなことを許すと思うのか。そこで訳を説明しろ」
「ある屋敷から脱出するためだよ」
「脱出? そこに監禁されていたということか?」
「まあ、そんなところかな」
「どうして、そんなところに閉じ込められた?」
「いろいろあったんだ」
「まさか、いかがわしいところじゃないだろうな?」
「いかがわしい?」
「男が男に体を売るようなところだ。お前は可愛いからな、捕まったのか?」
「違うって!」
「しかし普通、そんな高価なドレスは手に入らないだろう」
「これは……盗んだんだ」
「嘘をつくな。だいたい、ひとりで着られるものではない」
「だから、イオアン様が着させてくれたんだ」
「……その男がか?」
「そう」
「それで、その男に盗めと命じられたのか?」
「違うよ、盗んだのもイオアン様」
「理解しがたいな。お前に着させるために、その高価なドレスを、その僧侶が盗み出した……そう言っているのか?」
「変に聞こえるかもしれないけど、実際そうなんだよ」
「明らかに変だろうが。そんな、あどけない少年を女装させて喜ぶような男を、この屋敷にいれるわけにはいかない。とっとと追い返せ!」
「そうじゃないんだって! その屋敷から逃げ出すのを、イオアン様が手助けしてくれたんだよ!」
「なぜ、そんな場所に近づいた?」
「それはその……イオアン様に頼まれたから……」
「お前の言っていることは支離滅裂だ」
「エル、隠し立てはやめて、本当のことを話そう」
ふたりの会話を聞いていられなくなったイオアンが、眩しさに顔をしかめながら、エルのドレスの袖を引いた。
「本当のことを話せば、きっと分かってくれるさ」
「なんだ、その本当のことというのは?」
上から警戒するような声が聞こえた。
「無邪気なエルを君がたぶらかしたのだろう。よくそんなことが言えるな。僧侶として恥ずかしいとは思わないのか?」
ムッとしたイオアンが、正面に向かって叫んだ。
「私は僧侶じゃない、学者だ!」
「学者だと? 少年相手に秘密の人体実験か?」
「そんなことをするか! エルを無事に逃がすために仕方がなかったんだ」
「こう見えてエルは繊細なんだ。君は遊びのつもりだろうがな」
「遊びじゃない、私は真剣だった!」
「真剣? どこがだ。君がそのドレスの着付けに真剣だったということか?」
「命を賭けるぐらいエルに真剣だったということだ!」
「そういう言葉は軽々しく使うものじゃない」
イオアンを庇うように、
「本当だよ! イオアン様は俺のために命を賭けたんだ!」
とエルが叫んだ。
「エル、お前は騙されてるんだよ……」
憐れむような声が上から聞こえた。
「イグマスのような大都市には、いけない大人がたくさんいるんだ。悪いことは言わない。その変質者とは手を切るんだ」
エルは俯いた。
「なんで分かってくれないんだよ……」
「エル、すまない。もう限界だ」
震えるエルの肩に、イオアンがそっと手を置いた。
「あんな侮辱のされ方は、生まれてから初めてだ。申し訳ないが、私はイグマスに帰らせてもらう」
エルが悲しそうに顔を上げた。
「え、せっかくここまで来たのに……?」
「お前への気持ちは本当だが、あの男には理解できないのだろう」
「そんな……」
「どうせ真実を語ったところでねじ曲げるだけだ。私たちにしか分からない。ここまでの縁だったと思って諦めよう」
「分かったよ……」
エルは鼻をすすり上げた。
「ごめん、ここまで誘っておいて」
「いいんだ、お前が悪いわけじゃない」
「ちゃんと帰れる?」
「ポカテルがいるから、道を辿っていけば大丈夫だろう」
「そうか……」
「じゃあ、ブッケルムのことは頼んだぞ!」
「ブッケルムとはどういうことだ?」
という声が聞こえた。
目を細めてイオアンは上を睨みつけた。
「……だったらなんだ」
「その馬のことを私に説明したまえ」
「お前には何を言っても無駄だ。帰らせてもらう!」
イオアンが背を向けて外に出ようとした目の前で、重たい扉がバタンと閉じた。
背後からは訝しむような声が聞こえる。
「まさか、その屋敷というのはセウ家の屋敷のことかね?」
振り返ったイオアンは、驚いているエルと顔を見合わせると、
「……その通りだが」
と慎重に答えた。
「では、セウ家の屋敷から脱出するために、エルは女装を?」
「そうだよ」
とエルが上に向かって叫ぶ。
「イオアン様が、ブッケルムを盗ませるためにそうしたんだ!」
「いまどこにいる」
「厩舎だよ」
「では、お前が乗ってきたのか」
「うん」
「どんな馬だ」
「ちっちゃいけど凄い馬なんだ。セウ家の連中でも手出しができないぐらい」
「そうか……なぜ早くそれを言わない」
「中に入れてくれたら説明しようと思ってた。とにかく長い話なんだよ」
「エル、しばし待て」
という声がすると、上からひそひそと話し声が聞こえた。
「いいだろう。イオアン君、君を客として迎え入れよう。申し訳なかったが、我々は極めて用心深い生活を送っているものでね」
眩しい光が消えた。




