第60話 隠れ家2
吊り橋の前で、イオアンはククルビタを止めた。
岩場の上の屋敷を見上げる。
大きな屋敷だ。
地方にある牧場主の家族でも住んでいそうな建物だったが、鎧窓は閉ざされ、白い漆喰の壁は崩落し、オレンジ色の屋根瓦は欠けているところもあった。蔦に覆われているところもあるが、その蔦も枯れている。
明るい午前の日差しと澄んだ空気の中で、屋敷は風化した骨のようだった。
気味が悪い感じはしないが、人の気配も感じられない。
時間が止まっているようだ。
岩場の上に見える屋敷を訪れたいという気持ちにはならなかった。
人を拒んでいるような印象がある。
ここまで苦労して来たわけだが、それでもククルビタの向きを変え、いまからでもイグマスに戻ったほうが良いような気がしてきた。
バルバドスの忠告を思い出す。
ただの家庭教師は、あんな怪しげな場所には近づかないだろう。
すでにブッケルムから降りているエルが、
「どうしたの?」
と不思議そうにイオアンを見上げた。
「危ないから、イオアン様も馬から降りて渡ってよ」
「あの細い吊り橋を渡るのか? いまにも切れそうなんだが」
「そう見えるだけで結構頑丈だから。慣れてる俺たちは馬に乗ったままでも渡れるんだけど、ブッケルムもその馬も初めてだからね」
「しかし、あの屋敷なのか? 人が住んでるようには見えないが……」
「そりゃ隠れ家だからね」
「なんとなく、遠慮したほうがいい気がする」
「えー!」
「石切り場では気にならなかったが、現実に来ると、体が拒んでいるんだ」
「気のせいだよ、みんな待ってるからさ」
「待ってはいないだろ」
「そうだけど、せっかくここまで来たんだから」
仕方なくイオアンはククルビタから降りて、手綱を引いた。吊り橋の板はところどころ穴が空いていて、下の空堀が見える。綱は蔦を編んで作ったようだが、こんなもので支え切れるのか?という気がした。
そして、人と馬と犬が歩くと揺れ、風が吹くとさらに大きく揺れた。
吊り橋の綱には、干からびた猿の生首のようなものが幾つも括られていた。まだ毛がへばりついてる皮が乾燥してミイラのようになっている。
もしかしたら人間の頭なのかもしれないが、イオアンは近くの山にいた猿だと思うことにした。これもカルハースという男の趣味なのだろうか。
吊り橋からイオアンが恐る恐る下を覗き込むと、深い空堀までは十メートルぐらいある。先の尖った木の杭が埋め込まれており、そこにも何らかの動物の死骸や骨が引っかかっていた。イオアンの顔から血の気が引いた。
やっぱり私には無理だ。
イオアンは吊り橋の中央で足を止めた。
近づいてきた屋敷の廃墟を眺め、今度は後ろを振り返る。
これ以上進んだら戻れない気がする。
震える声で「エル」と呼びかけると、先を進むエルが足を止め、振り返った。
「ここで別れよう」
「え?」
「やっぱり私はイグマスに帰ることにするよ」
「なに言ってんの」
「へんな胸騒ぎがするんだ」
「そんなこと言ったって、いまさら引き返せないよ。向こうまで渡らなくちゃ」
「渡りたくない」
「だって、馬は戻れないんだから」
「エルが連れていって、また戻してくれ。私はこれ以上は進まない」
エルはブッケルムに声をかけると、イオアンのところまで戻ってきた。強い風が吹くと、ひらひらとスカートがはためく。
「ねえ、そんなこと言わないでさ」
「もう嫌だ」
「もう半分まで来たんだ。あと半分渡ったら、みんなに会えるから」
「〈首なし騎士団〉になんかに会いたくない」
「普通めったに会えないんだよ? 凄いことなんだよ?」
「凄くなくていい」
「馬肉料理を食べられるかもよ? 本当は冬が美味いんだけど」
「腹は減ってない」
「魔物の不思議な生態とか知りたくない?」
「どんな生態だ」
「例えばゴブリンの群れがどうやって暮らしてるとか、繁殖期の行動とか」
「なぜそんなことを知っている」
「俺たちは人間が暮らしている場所は避けるようにしてるからさ、結果的に魔物たちについても詳しくなるんだよ」
「エルもなのか」
「俺はまだまだかなあ。馬のことで精一杯だから。でも抜け道とかはいろいろ教わってる。だから街道の関所とか通らなくても済むんだ。必要なら、ふつうの旅人の何倍も速く移動できるんだよ。ね、とっても便利でしょ?」
「どうせ、私はイグマスから離れられない」
「そんな決めつけなくてもいいじゃん。人生何があるか分からないんだから」
「私は平穏な人生でじゅうぶんだ」
「それもいいかもしれないけど、たまには刺激も必要だよ。カルハースたちは刺激的だから面白いと思う。ダンジョンの話とか聞けるし」
「まったく必要ない」
「じゃあ、帝国の情勢とかは?」
「なんだ、帝国の情勢というのは?」
「どこの公爵家が強いとか豊かだとか、帝都の内乱の状況とか、そういうのはイオアン様は好きでしょ?」
「まあ、嫌いではないがな……」
「いろいろカルハースたちなら教えてくれるよ」
「そうか? こう見えても、私もある程度は知ってるんだがな」
「でも、イオアン様のは本で読んだ知識でしょ? カルハースたちのは本当にその属州に行って見聞きしたことだよ。それに変わった連中にも会ってるし」
「変わった連中?」
「吟遊詩人に詠われた冒険者とか、禁呪を使って破門された魔術師とか」
「興味はなくもないが……」
「それに、これは俺の勘なんだけど……」
「なんだ?」
「悩みがちなイオアン様は、カルハースに会ったほうがいいと思う」
「その芝居がかった男にか」
「うん。ときどき深いことを語るんだよ、人生の意味とかさ」
「エル。悪いが、そんなのを聞きたい気分じゃない。ただ私は帰りたいんだ!」
そう叫んだイオアンが背を向け、吊り橋の綱を握りながら戻ろうとすると、
「待って!」
とエルが、その手を掴んだ。
「こんなふうに別れるの、俺は嫌だよ!」
イオアンが振り返った。
吊り橋の上で、エルの純白のドレスが風に吹かれている。
「エル……」
「ねえ、イオアン様は嫌かもしれないけど、俺のために会ってくれない? 騎士は誰かのために命を賭けれるから騎士なんでしょ?」
「私は、ただの家庭教師にすぎない」
「俺にとっては最高の騎士だよ。俺の命を救ってくれたんだから!」
エルに見つめられ、イオアンは目を逸らした。
深い空堀に目を落とすと眩暈がした。
また強い風が吹き、掴んでいる吊り橋がゆらゆらと揺れる。
ドキドキしてきた。
この感情は何なんだろうか?
確かに、エルに出会う前は平穏な毎日だった。
そう、セウ家の屋敷と、イグマスの大図書館を往復するだけの日々――。
こんな気持ちは、二度と味わえないだろう。
いま、エルと一緒にいる以外に。
「……分かった。お前の仲間に会おう」
そう決断すると、エルの顔が明るくなった。
「良かった! そう言ってくれると信じていたよ!」
吊り橋を渡り切り、岩場に到着すると、目付きの悪い猫たちがイオアンを出迎えた。地面や岩の上や木の枝から見つめている。なぜか邪悪な感じがした。ポカテルが唸り声をあげると猫たちも毛を逆立て、両者が睨み合った。
ポカテルは猫を追いかけてどこかへ消えてしまった。ふたりは屋敷の前を通り過ぎ、隣にある立派な厩舎に入った。だが、馬はどの馬房にもいない。馬房にブッケルムとククルビタを入れると、屋敷の玄関に戻った。
枯れた雑草が生い茂っているポーチを上がり、扉の前に立った。樫の木の大きな扉だ。馬に乗ったまま入れそうな気がする。悪魔の顔の金具の口から、鉄の輪がぶら下がっている。それを掴んだエルが振り返った。
「最初は、俺が話すから」
「私が喋ると、まずいことでもあるのか?」
「まずくはないけど、どうしてこうなったか事情を説明してからじゃないと」
「まあ……そうだな」
昨日起きたことを説明するだけでも大変なのは、イオアンにも理解できた。
「セウ家の名前を出すのは、やはり危険か?」
「そうだね、慎重に話を進めないと」
「じゃあ私も、その男の反応が分かるまでは、黙っていることにするよ」
「とにかく、カルハースには気をつけてよ」
「どう気をつけるんだ」
「何を考えてるんだか、分からないところがあるからさ」
そう忠告したエルは、重たいドアを開いた。




