第57話 包帯
そうだった。
私はただの家庭教師なんだ。
長椅子に座っているイオアンは、改めて自分にそう言い聞かせた。
エルに悟られないようにしないと――。
イオアンは嘘をつくのは上手ではない。
そもそも、だからこそ白亜宮の貴族や役人たちが好きではないのだ。彼らは息をするように嘘をつき、互いの腹を探り合っている。
イオアン自身は子供の頃から、たわいもない嘘をついて、アルケタをよく驚かしていたが、すぐに自分でおかしくなり吹き出してしまう。
つまり隠し事ができない。
他人には内面を悟られたくないくせに、すぐ顔色に出てしまうのだった。
いっぽうのエルは、バルバドスの姿が見えなくなったのを確認すると、
「ねえ、俺に話って?」
と身を乗り出して、囁くように尋ねた。
「ああ、そうだった」
物思いにふけっていたイオアンが長椅子から立ち上がった。ローブの切れ込みに手を入れると、腰から短剣を外した。
「これを返そうと思っていた。感謝している」
エルは複雑な表情で、美しい短剣を受け取った。
試しに鞘から引き抜くと、血糊がついているためか抵抗がある。エルが手にしている短剣の刃は、うっすら赤黒く汚れていた。
それを見たイオアンが、
「すまない、それは私の血だ。拭き取らずに入れてしまったんだろう」
と謝った。
「せっかく綺麗に手入れされていたのに」
エルは刃先をじっと見ている。
「初めてだったからね、この短剣が人の血を吸ったのは」
イオアンは意外だった。〈首なし騎士団〉の見習いで、盗賊のようなエルなら、過去に人を殺していると予想していた。
この時代、それぐらいの経験は当たり前のことだ。
だが、エルはそうではないらしい。
どこか無垢なところをエルには感じていたので、なぜかイオアンは安心した。
口では生意気でも、やはりまだ子供なのだろう。
エルは渓流のほとりまで歩くと、川砂で汚れを削り落とした。椅子に戻るとスカートを捲り上げ、ペティコートで拭きとった。
先程までの明るさは消え、エルは短剣を見つめながら、
「なあ、イオアン様……本当にこれで死ぬ気だったのか?」
と思い詰めた様子で質問した。
その真剣な表情に、
「さあ、どうなんだろうな……」
とエルに向き直ったイオアンは言い淀んでいたが、初めてエルから名前で呼びかけられたことには気づいていない。
「そのつもりだったが、どこか腰が引けていたのかもしれない。本気だったら、発作を起こす前に命を断っていただろう」
エルが顔を上げて、イオアンを見つめた。
「それって俺のため?」
黙って頷いたイオアンが目を伏せた。
「だが、私はいつも死を望んでいるようなところがあった。たまたまお前が、私に死に場所を与えてくれたと思ったんだ」
「騎士は誰かのために死ねるから、騎士だってこと?」
「そうだ。だが……伯爵様と話して、違うのかもしれないとも思っている」
「でもさ、イオアン様は騎士じゃないじゃん?」
「……そうだな」
「学者なら、そんな命を張ることはない。体は大事にすればいい」
「お前はどうなんだ?」
「俺?」
「昨日から大変だっただろう。疲れてないか」
「ぜんぜん平気さ。でもカルハースは心配してるかも。俺が戻ってこないから」
「もう戻ってもいいぞ。話は済んだからな」
「……イオアン様は?」
「私はもう少し休んでいくよ」
「じゃあ、俺も!」
長椅子に腰かけているイオアンは渓流の水面を眺めた。
日差しにきらきらと輝いている。
いまは第三時(午前8時)ぐらいだろうか。
イグマスに戻ったところで、もう屋敷にブッケルムはいないのだ。
もう話し相手はいない。
これからは毎晩、馬小屋に忍び込むこともない。
自分の部屋にこもり、ひとりで本を読むだけの生活になるだろう。
イオアンはブッケルムへ顔を向けた。
木に繋がれ、まわりの草をのんびりと食んでいる。
ちゃんと別れも告げられなかったが、それで良かったのかもしれない。
もう、エルのものなのだ。
未練がましく挨拶をするまでもない。
唐突にイオアンは立ち上がった。
「私は行くよ。ブッケルムをよろしくな」
「え、もう?」
エルも驚いたように椅子から立ち上がった。
「まだ調子が悪いんじゃない? もうしばらく様子を見たほうがいいって!」
「気分のほうは、かなり落ち着いたからな……」
と言いながらも、イオアンは戻ることを考えると憂鬱になるのだった。
なぜだろう?
エルとなら、セウ家の嫡男として気を張る必要がないからか?
家庭教師のふりをしていれば、何のしがらみもなく、感じたことを、思ったように素直に口にできる。だから私は戻りたくないのか?
ふいにイオアンは不快感を感じ、首筋に手を当てた。
掌を見ると、赤く濡れていた。
「血が出てんじゃん! ちょっと待って!」
そう叫んだエルは椅子に座ると、またスカートを太腿まで捲り上げ、短剣でペティコートを切り裂いた。
「おいおい、何をしているんだ」
「これは安いんだから、いいだろう!」
エルは切り取ったペティコートを包帯のように細かく裂くと、渓流に浸した。
また戻ってくると、
「そこに座って」
と命じ、長椅子に座ったイオアンの首元を拭い始めた。
顔を上げているイオアンは、エルがあまりに丁寧に血を拭き取っているので、
「大袈裟だな、すぐに固まるだろう」
と文句を言ったが、顔を近づけているエルは、
「危ないんだぞ。ちょっとしたかすり傷で死ぬことだってあるんだから。イオアン様にはちゃんと手当をしないと」
と言って、首の傷跡をじっくりと観察している。
仕方なくイオアンはされるがままになっていたが、ドレス姿のエルに、こうして介抱されているのが奇妙に感じられた。
「……もう、いいんじゃないか?」
「そうだね、こんどは傷跡に包帯を巻くよ」
「いや、そこまでやらなくても……」
エルの肩に手をかけて、イオアンは体を引き離そうとしたが、突然背後から叫び声が聞こえたので、ふたりともギョッとして、そちらへ顔を向けた。
それまで岩陰に隠れて、イオアンとエルの様子を覗き見ていた職人の女たちが、石工の親方に長い髪を引っ張られて、連れていかれるところだった。




