第54話 朝霧2
「命を捧げるだと?」
伯爵が疑わしそうに訊き返した。
「我々がここから引き上げないのなら、自らの命を断つとでもいうのか?」
短剣を首に当てているイオアンは、自分のしていることが恐ろしくなり、口が利けなかった。目を見開いて硬直したイオアンを見ると、伯爵は巨石の上で片膝をつき、下にいる息子に向けて話しかけた。
「お前の命と引き換えに〈魔の馬〉と女盗賊を見逃すという交渉か。どうして取引が成立すると思う。そんなくだらない交渉のテーブルに私が着くと思うのか?」
「交渉はしません!」
イオアンは父親の言葉を打ち消すように叫んだ。
「父上が探そうと探すまいと関係ありません。私の命を賭してメルクリウスに祈るだけです。にも関わらず探し出そうとすれば、神の怒りに触れるでしょう!」
「なるほどな」
伯爵は興味深そうに頷いた。
「つまり、お前は論理的に説得できないから、神の力によって父親を脅すという暴力的な手段に出たわけだ」
「そ、そういうわけでは……」
冷や汗を流しながら、イオアンは自分に言い聞かせた。
相手にしては駄目だ。父上に議論で勝てたためしがない。いつも論理をすり替え、ねじ曲げられてしまうのだ。
「ただ、私の命にもそれぐらいの価値はあると思っているだけです!」
イオアンは手元の短剣へ目を落とした。
腕が震えているせいで気をつけないと、意図せず首を切ってしまいそうだった。父親が話し始めたので顔を上げた。
「お前は、自分の価値を見誤っておる」
「そんな、私にだって……」
「大義のために自分の命を捧げるのは良い。だが、そんな下らぬもののために捧げるな。お前は自分の価値の大きさを分かっておらぬのだ」
「価値の大きさですか? しかしセウ家において、私にそんな価値など……」
「病弱だからか?」
「それもありますが……」
イオアンは短剣を首に当てたまま、頭をひねって後ろを見た。自分と父親の会話の成り行きを、家臣たちが固唾をのんで見守っていた。
「……彼らが、私のために命を投げ出すことはないでしょう」
「セウ家の当主に、人望など必要ない」
「では、恐怖で支配しろと……?」
「そうではない。人望などという個人の資質に頼るなということだ」
伯爵は巨石の上で立ち上がった。
「とにかく、お前の命は限りなく重いのだ。私の息子であり、十代目のセウ家の嫡男として生まれてしまったことによってな。首飾りはどうした」
「持っています」
「見せてみろ」
イオアンは左手だけで苦労して、ローブの内側から〈綺麗な首飾り〉を外に出した。ずしりとした重さが掌に伝わってくる。
「お前にはセウ家の家臣、領民、仕えるタタリオン家に対する責務がある」
イオアンを見下ろした伯爵が重々しく言い聞かせた。
「それをつけている以上、その責任からは逃れられぬ。たとえ、それが不公平に感じられようと、騎士の家に生まれた者の義務なのだ。お前の命の重さは一頭の馬、ひとりの女などとは比べ物にならぬ」
父親の言葉は完全に筋が通っていた。
この首飾りをつけている以上、この命は自分のものであって、同時に自分のものではない。いたずらに自分の思い付きで弄んでいいものではないのだ。
その重たさに、イオアンは打ちひしがれる。
「だが、己の命を軽く捉えることは、決して悪いことではない」
と伯爵は息子の行為を認めた。
「自分の命を大事にしすぎる者は戦場で動けなくなるからな。だが、なぜそうまでして、あの馬を手放そうとさせる? あれが〈魔の馬〉であるという私の見立ては間違っていなかったであろう? せっかく、それが証明されたというのに」
「しかし父上は、ブッケルムの力を引き出せませんでした」
顔を上げたイオアンは恐ろしさに喘ぎながら、言い出しにくい事実を指摘した。
「これは、ルベルマグナと同じではないでしょうか?」
先代の公爵の愛馬の名前が出ると、伯爵の表情が変わった。
「……それは、どういう意味だ」
「ルベルマグナが力を発揮できたのは、テオドル様がいればこそでした。公爵様がお亡くなりになると、ルベルマグナは厄介者として扱われました。これはテオドル様が望んだ結果だったのでしょうか? 我々がブッケルムを取り戻しても、ルベルマグナの悲劇を繰り返すだけではないでしょうか?」
イオアンの問いかけに、しばらく伯爵は黙り込んでから訊いた。
「では、あの〈魔の馬〉は、女盗賊にしか乗りこなせないというのか?」
「それは……」
とイオアンは言葉を濁した。
「過去にブッケルムを調教し、昨日は追いかけた父上や家臣たちのほうがよく分かってるのではないでしょうか」
「だが、これから、その女盗賊も捕まえるのだぞ」
伯爵はまわりの家臣たちを見下ろした。
「そうせねば、アルケタも家臣たちも気が済むまい。それでも、その女までも見逃せと、お前は言うつもりか?」
イオアンは振り返って、家臣たちの顔を見ることはできなかった。
もちろんアルケタを始め、全員がエルを捕まえたいと思っているだろう。もはや賞金のためではない。苦楽を共にした仲間が死んだのなら当たり前だ――。
それでもイオアンは、
「そうです……その女も忘れるべきです」
と震える声で主張した。
「そしてそれは、我々セウ家のためになることなのです」
訝しげに眉をひそめる伯爵に、イオアンが説明した。
「これだけの素晴らしい軍馬と手練れの乗り手がいながら、我々はその女を捕まえることができませんでした。それも不可思議な力に阻まれてです。ファッシノ河の関所では、神がかり的なタイミングで女は鉄格子をくぐり抜け、峠道では獰猛な狼たちを召喚しました。それも誰もが乗りこなせず、死にかかっていたブッケルムを走らせてです。もし、あの女がただの盗賊であれば、我々はたやすく捕まえていたのではないでしょうか? しかし、そうはならなかった。これだけの痛ましい犠牲を払っても、まだ女を捕まえていない。これは神意なのかもしれません。本来〈魔の馬〉とは禍々しいもの。運命の女神の意志に反してまで、手に入れるべき存在ではないのでは? むしろ〈魔の馬〉として覚醒してしまったブッケルムを招き入れれば、なにかしら災いが、そう……戦場で何か望まない現象が起きるのではないでしょうか? 父上は今朝こう言いました。〈暁の盗賊団〉など放っておけばいいのだと。それなのに女首領を捕まえようとすれば、我々はギイス伯爵と同じだということになってしまいます。いいえ、我々は愚かな伯爵と同じ轍を踏むべきではありません!」
一気にイオアンが長広舌を振るった。
これが、父親を説得するために準備していた理屈だった。それを思い出すことができて、イオアンはホッとした。
「だが、あの女盗賊を擁護する代償は高くつくぞ」
と話を聞き終えた伯爵が警告した。
「それでも、お前は見逃すべきだと、私に進言するのだな?」
演説を終えて、緊張が解けたイオアンは深く考えずに頷いた。
「よかろう。では誓いを果たすのだ」
と伯爵は冷酷に言い放った。
「いまの言葉が嘘でないのか証明してみよ。お前の言葉は軽い。いくらでも喋ることができよう。その軽い言葉に重みを加えられるのは、お前の命だけだ。さあ、誓い通りメルクリウスに命を捧げるのだ」
父親の言葉に、イオアンは顔面蒼白になった。
「父上!」
とアルケタが前に出て叫んだ。
「何を言うのですか! すぐに兄上を止めて下さい!」
だが伯爵は動じず、巨石の上からこう命じた。
「アルケタ、セウ家の嫡男が命を賭けて神に誓ったのだ。それを止め立てしようとするのは侮辱にしかならん。お前も兄の死に様をよく見ておけ」
父親の言葉を聞いているうちに、イオアンのまわりから音が消えた。
自分の胸を打つ心臓の音だけが聞こえる。
胃のあたりに嫌な感覚。
まるで高いところから落下するときのような。
また、あれが来るのか?
その前に、誓いを果たさなくては――。
イオアンは右手に力を込める。
自分の首筋へ、エルの美しい短剣を持っていこうとする。
だが、石切り場の谷底にいるイオアンの右手が、この世界のすべてが乗ったかのように重たくなり、上手く動かすことができない。
舌の先に金属の苦い味がする。
早く、早く、早く。
あれが来る前に早く、腕を動かさないと。
氷柱に触れたような冷たさ――。
ようやく、イオアンは自分の首筋に短剣の刃を当てることができた。
次の瞬間、それは焼けつくような熱さに変わった。
反射的にイオアンは短剣を離した。
エルの短剣の刃が、自分の血で赤く濡れていた。
その驚きを言葉にしようとしたが、体が痙攣し始め、イオアンは意識を失った。
全身の筋肉が収縮し、イオアンの肺から押し出された空気が、
「あぁ――っ!!」
という異様な叫び声になって口から漏れた。肉体の制御を失ったイオアンが、そのまま頭から地面に倒れようとしたところを、
「兄上!」
とアルケタが叫んで、体を受け止めた。
いまや、イオアンの体は大理石の彫像のように硬直していた。
アルケタがそっと地面に降ろしてから数十秒後、がくがくと一定のリズムで長い手足を屈伸し始めた。
こうなるとどうすることもできず、アルケタは見守るしかなかった。子供の頃から、発作を起こした兄の姿は何度も見てきている。
いっぽう家臣たちは、目を剥いて口から白い泡を吹いて痙攣するイオアンの姿を見るのが初めての者が多く、明らかにショックを受けていた。
イオアンは神に命を捧げると言った直後に、雷に打たれたかのように倒れ、尋常ではない痙攣状態に陥ったのだ。
それを、神がかり的なものと感じていたのかもしれない。
彼らを掻き分けて、それまで後ろで隠れていたバルバドスが出てきた。この元傭兵のドワーフも、イオアンの護衛をしていた数年間でこのような状態は見てきている。バルバドスはイオアンのそばで膝をつくと、アルケタと頷き合った。いまはただ、発作が収まるのを待つしかないのだと。
アルケタが立ち上がった。
「……父上、今回はひとまず撤退を」
巨石の上の伯爵は、倒れている息子を見下ろしたまま反応しない。
すると、重たい鉄槌を握りしめた石工の親方がのそりと進み出た。親方が大きく振りかぶり、伯爵の立っている大理石に鉄槌を叩きつけると、カァンッ!!と耳をつんざくような硬質な音が、石切り場じゅうに響き渡った。
「貴様! 何をする!」
とアルケタがいきり立った。
「おや、どうしましたかな?」
と惚けた感じで、親方がアルケタのほうへ振り返った。
「女盗賊やらを探すのは、朝飯前にすると約束していたはず。申し訳ないが、儂らにも急ぎの仕事があるんでね」
そう言うと、親方は強烈な鉄槌の一撃を、再び巨石に加えた。
すると、親方の姿を見ていた他の石工たちも、やたらめったらにハンマーやツルハシを振るい始めた。わざとセウ家の家臣たちの足元を狙うので、家臣たちは指を潰されないように慌ててその場から離れた。
これらの石切り場の混乱を眺めていたセウ伯爵は、満足そうな笑みを浮かべると、黒いマントをひるがえして、巨石から飛び降りた。そのまますたすたと馬のところまで歩いていき、手綱を外すと、ひらりと軍馬に跨った。家臣たちには目もくれず、合図もせず、石切り場からひとりで去っていってしまった。
呆気にとられた家臣たちも次々に馬に乗り、石切り場から走り去った。
唯一イオアンのそばで残っていたアルケタに、
「伯爵様を追いかけて下さい。イオアン様は俺が送り届けますから」
とバルバドスが促した。
立ち上がったアルケタは、まわりを取り囲んでいる石工たちを眺め回すと、何も言わずに後ずさり、馬に向かった。アルケタが、大理石の地面に硬い蹄の音をたてて立ち去ると、一陣の風が吹き抜け、石切り場には静寂が訪れた。
心配そうに女の職人が、バルバドスにそっと尋ねた。
「……その人は大丈夫なのかい?」
「しばらくすれば目を覚ます」
とバルバドスが、イオアンを見下ろして頷いた。
「それまでは、まわりで何があっても気づかないだろうがな」
「じゃあ、遠慮なく……」
と女は断ると、
「イヤッハァァァー!」
と喜びに両手を握りしめ、天に向かって絶叫した。
それに呼応するように、満面の笑みを浮かべたドワーフたちも、
「ウォォォォッ!」
と一斉に歓声をあげ始める。
こうしてハンマーを空に放り投げ、互いの肩を叩き、足を踏み鳴らす三十人の石工たちの野太い咆哮が、朝の石切り場に響き渡ったのだった。




