第53話 朝霧1
ククルビタに乗ったイオアンは、ゆっくり石切り場の底へ下りていった。
霧に覆われた石切り場の風景がだんだん明らかになる。
白い朝霧はそばを流れる渓流から流れ込んでいた。
石切り場の入口では、見張りだけでなく何人かの兵士が立ち話をしていた。
それを見たイオアンは気が重くなる。
やはり現実なのだ。
これから父上に会って、説得しなければならない。
イオアンは深呼吸して覚悟を決めると、ククルビタを前へ進めた。
蹄の音に気づいた誰かが近づいてきた。
谷底の朝の空気はひんやりと湿っていて、体にまとわりついてくる。
霧の中を近づいてきた人物の顔が突然はっきりした。
弟のアルケタだった。
アルケタも驚いていた。
「兄上! 本当に来てたんだな!」
「ああ、アルケタか」
とイオアンも弟の顔を見て、少し安心した。
馬上のイオアンを見上げるアルケタは、甲冑姿ではなく、上品な上着に鋲が打たれた革の上着を着ていた。
「見張りの話じゃ、ずっと上にいたらしいけど」
「星を見ていた」
「女盗賊を探してたんじゃないのかよ」
「……女盗賊などいない」
「え?」
「女盗賊も、ブッケルムもいない。お前たちこそ夢でも見ていたんだろう」
「なに言ってんだよ、逃げ込むならここしかない」
会話を聞きつけた男たちも集まってきていたが、イオアンの発言に怪訝な様子で顔を見合わせている。これ以上話すと面倒なことになると思い、
「父上は?」
とイオアンは聞いた。
「起きてるよ。でも、絶対に信じないと思うぞ」
「私が来ていることは知っているか?」
「見張りが報告したからね。さすがに父上も驚いていた」
そうだろうなとイオアンは思う。
朝食をとっているときには、屋敷で安静にしていろと私に命じたのだ。
それなのに、こんな山奥まで来ているのだから。
大広間でのブッケルムに関する会話を思い出し、イオアンはまた気が重くなった。
「では、会ってくる」
溜息をつくと、ククルビタを前へ進めた。
焚火の前では、男たちが立って暖をとっていた。霧の中から現れたイオアンを見て、驚いた顔をしている。
頭を下げた彼らに、軽く頷き返す。
家臣たちは、どこか疲れたような顔をしている。
それはそうだろ。こんなところで一夜を明かしたのだから。おそらく自分も酷い顔をしているのだろうと思った。
何かいい匂いがしてきたが、焚火で料理はしていない。
おそらく奥の小屋から、石工たちの朝食の匂いが漂ってきているのだろう。
逆に、家臣たちは空腹で苛立っているかもしれない。
それなのに石切り場には、エルやブッケルムなどいないなどと私が主張したら、彼らはどんな反応をするだろうか。
父親の居場所を聞くと、男のひとりが向こうを指さした。
霧の向こうに、切り出した大理石の巨石があり、その上で誰かが立っている。
イオアンは礼を言い、ククルビタを前へ進めた。
巨石は二メートル近い高さがあった。
父親であるオウグウス・セウ伯爵は、岩の上で遠くを眺めていた。
近づいてきたイオアンに気づき、顔の向きを変えたが、伯爵は何も言わない。
イオアンは頭を下げると、ククルビタから降りて、巨石の下に立った。
どう切り出せばいいのか――。
谷底に下りるあいだに考えて準備していた内容はすべて忘れてしまい、イオアンの頭の中は真っ白になっていた。
「父上……」
そう呼びかけてから、大きく息を吐く。
「石切り場には、ブッケルムも女盗賊もいません」
イオアンの単刀直入な報告に、伯爵は一瞬眉をひそめたが、
「そうか」
と頷いただけで、しばらく待っていても、それ以上は何も言わなかった。
仕方なくイオアンは次の言葉を放った。
「そうである以上、ここから撤退すべきかと……」
伯爵がイオアンを見下ろした。
「なぜだ」
「それは、いま私が言ったように……」
「なぜ、お前の言葉を信じて、私が行動する必要がある」
「それは……捜索が無意味だからです。父上はこれから遠征の準備がおありなはず。もっと大切なことに時間を割くべきです」
「この朝霧さえ晴れれば、すぐに捜索など終わる」
伯爵は霧を払うように、腕を広げてみせた。
「むしろ、ここまで来たのに捜索しないなど、時間の無駄だと思わないのか」
「それはそうかもしれませんが……」
イオアンは唇を噛んだ。
説得するために準備していたことが思い出せない。
そして確かに、朝霧が晴れ始めていた。
家臣たちがまわりに集まり、小屋からはドワーフの石工たちも姿を現している。
彼らの視線をひしひしと感じながら、頭の中でイオアンは必死に考えている。
朝霧が残っているあいだに、父上たちを撤退させなければ。
霧が晴れた瞬間、私とエルの運命が終わる――。
「私は見たんです!」
「何を」
「ここに来る途中でした。谷底の街道で、白いドレスを着て馬に乗った女とすれ違ったんです!」
まったくの思いつきだった。
だがイオアンの言葉に、背後の家臣たちがざわつくのが感じられた。
「あれは、イグマスへ戻るところだったのではないでしょうか!」
「まさか、我らを出し抜いたとでも言うのか?」
「その……私は後から追いかけてきたので遭遇したのだと思います」
「では、どんな様子だった」
「様子、ですか?」
「お前の見間違いということもあるだろう」
「その様子は……」
さっきまで会話していたエルの様子ははっきり覚えている。
だが、そのまま描写すると、むしろ嘘っぽいのではないかとイオアンは怖れた。すれ違っただけなのだ。もっと曖昧なほうがいい。
「暗くてよく分かりませんでしたが、まるで精霊の使いのようでした」
「精霊の使いだと?」
「ええ、そんなふうに感じられました」
「馬鹿な。〈暁の盗賊団〉の女首領だぞ。そんなはずがない」
「ですが、超自然的な、人間ではないという可能性もあるのでは? だから、狼を呼び寄せるような力を持っているのかもしれません」
このときイオアンの頭にあったのは、エルから聞いた橅の森での出来事だった。そのときに見たという少女のイメージで話していた。
「でも、馬に乗ってたんだ。そんなことはあり得ないよ」
という声に振り返ると、アルケタだった。
「空でも飛べるんならべつだけどさ、ずっと一本道だったんだ。俺たちが見失うはずがない。逃げ込めるとしたら、この石切り場だけだ」
「いいや、べつの可能性もありますぞ。このあたりは鍾乳洞が多い」
と石工の親方が横から口を挟んだ。
「盗賊の頭ならそれを熟知していてもおかしくない。あんたがたが気づかないあいだに、それで女は迂回したのかもしれませんな。それなのに粉まみれになって石切り場を探そうとするなど、ご苦労なことだ。はっはっは!」
馬鹿にしたように親方が哄笑すると、石切り場が騒然となった。セウ家の家臣団とドワーフの石工たちが互いに罵りあっている。
「下らぬ! そんなことはどうでもよい!」
巨石の上から伯爵が叫んだ。
「憶測に基づいて議論するなど時間の無駄。ようやく朝霧が晴れた。議論するのは石切り場を確かめてからだ。見つかるのが精霊の使い手ならそれもよい。首に縄をかけてイグマスまで連れて帰り、話を聞くまでだ!」
伯爵の言葉に呼応するかのように、東からは眩しい朝日が昇ってきている。微風が吹いて、朝霧は谷底から一掃されつつあった。
青ざめたイオアンは石切り場を見回した。
イオアンは夜更けに到着したので、初めて石切り場の全貌を知った。
まわりには白い大理石の塊が積み上げられ、巨人向けの円形劇場のようだった。
たぶん、どこからかエルが見下ろしているに違いない。
だが、もう見つかるのは時間の問題だ。
あとはエルが逃げるための時間を、自分がどれだけ稼げるかだろう。
目を閉じたイオアンは深呼吸をした。
右手をローブの切れ目に差し込むと、イオアンはエルの短剣を掴んだ。
「信じてもらえないのなら、私にも覚悟があります!」
取り出した短剣を高く掲げてみせる。
震えるイオアンの手に掴まれた短剣の刃が、朝日にきらりと輝いた。
周囲の家臣たちが息を呑む。
イオアンは刃を首筋に近づけた。
「私はこの命を、メルクリウスに捧げましょう!」




