第52話 贈り物
これだけだ。
そうだ、これを差し出すしかない。
私がセウ家の爵位継承者であることを放棄するんだ――。
これから自分がやろうとしていることを想像すると、イオアンは息が苦しくなり、何度も浅い呼吸を繰り返した。
死を覚悟すれば、心が静まるという言葉を思い出す。
だが、心は思い通りには静まらない。
そして、体が鉛のように重く寝たきりだった三年間を振り返る。
あの頃どうやって死ぬか、いつも考えてたじゃないか。
幾つもの方法を説明しては、この苦しいだけの世界に未練はないといって、アルケタを困らせていたじゃないか。
イオアンは左を見た。
エルは抱え込んだ膝の上に頭を押しつけている。
泣き疲れて寝ているのか?
イオアンは、エルのドレス姿を見て微笑する。
――そうだった。
まだ子供だったあの頃、危機に陥った姫君を助けて死ぬところを夢想したものだ。
倒れた自分に、姫が覆いかぶさって嘆き悲しむ。
私の英雄が死んでしまったと。
どうかな、エルは悲しんでくれるだろうか?
いや、英雄はエルのほうか――。
メルクリウスへの誓い通り、命を賭けてブッケルムを守り通したのだから。
どこからか、チチチ……という鳴き声が聞こえた。
墓石を積み上げたようなこの石切り場にも、鳥たちはいるらしい。
イオアンは顔を上げ、夜明け前の空を眺めた。
すでに空は白み始めている。
イオアンが声をかけると、エルが不機嫌そうに顔を上げた。
「なに」
「さっきの美しい短剣を見せてくれないか」
「なんで」
「あれは、お前の故郷のものだろう」
「なんでわかる」
「黒曜石はイグニシアの特産品じゃないか。見てみたいんだ」
エルは疑わしそうな目付きだったが、無言で短剣を渡した。
イオアンはじっくりと鞘を眺めた。
嵌め込まれた火蛋白石は、鮮やかなオレンジ色の中に青や緑が見え隠れする不思議な色合いだ。山羊革の鞘は、深い紅色の血赤珊瑚と、艶やかな黒曜石の組み合わせが素晴らしい。南国らしい火を噴くような生命力が感じられる。
だが、大事なのは短剣だ。
鞘から取り出し、その切れ味を確かめる。
しかし、指先で触れただけで切れそうだったので、イオアンは眺めるだけに留めた。問題なさそうだった。
イオアンが立ち上がった。
「ちょっと借りていくぞ」
「ふざけんな、返せよ!」
エルも慌てて立ち上がり、手を伸ばして取り返そうとする。
イオアンは深呼吸をすると、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと告げた。
「これから、伯爵様を、説得してくる」
「え?」
エルの動きが止まる。
「……そんなことできんのかよ?」
「分からない。そのためには贈り物がいるんだ」
「じゃあ、贈り物って……」
エルが目を見開いた。
「まさかオウグウスに渡すつもりかよ、そんなの絶対に駄目だからな!!」
「エル、頼む……!」
イオアンは必死に頼んだ。
「お前を死なせないためなんだ。何かないと説得できないだろ」
エルは、イオアンの顔を見つめたまま、苦しそうに喘いだ。
「それで……本当に……助かるのかよ?」
「正直、分からない」
イオアンは、エルの短剣を自分の腰の紐に縛り付けた。これならローブの切れ込みからすぐに取り出せる。
「……私は失敗するかもしれない」
「失敗したら……?」
「さあ、酷いことになるかもしれないな」
「あんた大丈夫なのかよ、ただの家庭教師なんだろ。耳を貸すと思うか?」
「そうだな、無理なのかもしれないな……」
「じゃあ何で! あんただって絶対に殺されるぞ!」
「神に誓ったからだ」
「……神に誓った? いつ? どこで?」
「肉屋の天幕で、お前に誓わさせられたじゃないか」
「……そうだっけ?」
「私はメルクリウスに誓ったんだ。二度とお前を傷つけないと」
「あっ」
「だから、私はお前を守らなきゃいけないんだ」
「俺を守る……?」
思い出に飲み込まれたかのような表情をしていたエルが、
「そんな誓いのために、命を賭けるのかよ!」
と叫ぶと、急に泣き出した。
この反応に慌てたイオアンが、エルの肩を優しく掴んだ。
「これはお前のためだけじゃない。ブッケルムを救うためでもあるんだ」
「……何でさ、あいつはこれから大事にされるんだろ」
とエルはしゃくり上げながら訊いた。
「よく考えてみろ。これからまた〈魔の馬〉として訓練されるんだぞ。恐ろしいことになるに決まってる。だから、お前が乗ってるほうがいいんだ」
だらしなく眠りこけているブッケルムへ、イオアンは顎をしゃくった。
「ほら、あんな幸せそうな姿は見たことがない」
「そりゃそうだけどさ……」
イオアンは慣れないことだが、
「ほら、それに私はアルケタ様の家庭教師なんだ!」
と務めて明るく叫んでみせた。
「アルケタ様を通せば、気難しい伯爵様でも聞いてくれるかもしれないだろ?」
「そうか……アルケタは伯爵家の嫡男だもんな」
目を真っ赤にしたエルが頷いた。
「何でも言うことを聞いてくれるかも」
イオアンは、エルの誤解を訂正するつもりはなかった。南大陸で英雄扱いのアルケタなら、嫡男だと思われるのが自然だろう。この私ではなくて。
「お前は上から観察していろ。もし私が説得に失敗したときは、お前とブッケルムだけでも逃げるんだ。私が家臣団の気を引くから」
「気を引くって?」
「出来るかぎり注目を引くような、何か派手なことをしてみせるさ」
「……派手なことってなんだよ?」
イオアンは答えずに、ククルビタを静かに横穴から出すと、鞍に跨った。
空はかなり明るくなり始めていたが、石切り場の谷底には、乳白色の朝霧が渦巻いており何も見えない。
「もういちど訊くけど……」
ククルビタの脇に立ったエルが、イオアンを見上げた。
「失敗したら、あんたはどうなるのさ」
「……さあな」
小さく息を吐くと、イオアンはエルを見下ろした。
「お前は騎士の条件って、何だと思う?」
「騎士?」
突然の質問に、エルは怪訝な顔をした。
「叙任されるとか?」
「もっと本質的な意味で答えてくれ」
「よく分かんないよ。教皇様に魔物退治を命じられたのが騎士の始まりだろ」
「まあ、そうなんだがな……」
イオアンは東の空を眺めた。
まだ太陽は昇っていないのに、すでに血のような茜色に染まっていた。
「誰かのために命を捨てられるのが、私は騎士の本質だと思っている」
エルが不安そうな表情を浮かべた。
「それって、どういう意味だよ」
「私だけの秘密さ」
イオアンは薄い微笑を浮かべた。
「私は長いあいだ気づけないでいた。お前の勇気のお陰で私は救われたよ」
イオアンはククルビタを進め、石切り場の底へ下りていった。立ち尽くしているエルの足もとをポカテルがすり抜け、全速力で追いかけていく。やがて彼らは白い朝霧の中に消えていった。




