第50話 獲物
イオアンも驚いていた。
「では本当に、ブッケルムは〈魔の馬〉なのか……?」
「間違いない。少なくとも普通の馬なら、あんなスピードは出せないし、いまごろ潰れているはずだ」
「覚醒したということか?」
「そういう言葉が合ってるのか、俺には分からない……こいつが単純にやる気を出しただけっていう気もする。もともと能力はあったんだ」
「じゃあ、なぜ急に?」
「誰かに指図されたわけじゃない。自分のしたいようにしてるだけじゃないか」
「あの小さな体でか……」
イオアンは、横穴の奥で寝そべっているブッケルムを眺めた。
いまは黒い陰になっている。
今朝、セウ家の馬小屋では死にそうになっていたのに――。
エルが暗い目になった。
「でも、あいつにだって逃げ出すのは無理だ。ここは大理石の絶壁で囲まれている。背中に翼の生えたペガサスでもない限りね……」
「だが、太陽が昇ったら明るくなって、抜け道が見つかるかもしれない」
「下から見張られてるんだ、無理だろ」
「そうか……」
「あんた、下から登ってくるとき、見つからなかったのかよ?」
「見張りか? もちろん断ったうえで登ったんだ。上にいないか探してみると誤魔化してな。明日の朝には報告する義務がある」
「ドワーフの親方とは話した?」
「いや。だが見張りの話では、家臣たちが野営するのに反対したが、結局は押し切られたそうだ」
「オウグウスにか?」
「そうだろうな」
「会った?」
「会っていない。焚火のそばには近づかなかったし、伯爵様は寝ているだろう」
「まあ、あいつを起こしたくはないよな……」
そう呟くと、エルは寒気を感じたのか、純白のマントで体を包み込んだ。
確かに寒かった。
七月にも関わらず、背骨山脈の夜は冷え込んだ。
たぶん大理石に囲まれた場所だからだろう。昼間の熱が逃げるのだ。
イオアンはふと、墓地のような場所だと思った。
「だから、こいつは助かるよ」
とエルが続けた。
「〈魔の馬〉として覚醒したんだから連中が放っておくはずがない。こいつは馬小屋から、ちゃんとした厩舎に移される。その代わり……俺たちは死ぬけど」
「そうだな……それだけでも私たちは成功したわけか」
「たったそれだけのために、ずいぶん遠回りしたんだけどね」
とエルが自嘲気味に笑った。
「捕まったら、俺たちはどうなると思う?」
ここに来るまでのあいだ、イオアンは様々な可能性を考えてみたが、それについてはエルに話したくなかった。
黙り込んでいるイオアンの顔を、エルが覗き込んだ。
「大丈夫か、死にそうな顔をしてるけど」
「大丈夫ではないだろうな。こんな夜道をひとりで馬を走らせたことがない。そもそも私は、ほとんどイグマスから出たことがなかったんだ」
「ほんと本しか読んでこなかったわけか」
「仕方がなかったんだ。体が弱くて、すぐに倒れる体質なんでね」
「で、俺たちは? 尋問されて殺されるのか?」
そう囁くように質問したエルの顔を、イオアンはじっと見つめた。
ヴェールで覆われているので表情は見えない。
だが、その黒い瞳には、生命へのしぶとい欲望が感じられた。
やはり若いからか――?
そんなふうに思ったりしたが、すぐに諦めてしまう自分とは違うのだろう。
持っているエネルギーの輝きが違う。
それだけに説明するのが辛かったが、嘘は言えない。
「お前はイグマスの牢獄塔へ送られるだろう。そこで処刑人の尋問を受ける」
「え、処刑人! なんで?」
とエルは絶句した。
「ただ馬を盗んだだけじゃないか!」
「ただ馬を盗んだだけじゃないのは、お前だって分かっているだろう」
イオアンは重い溜息をついた。
「そのあとに起きた被害が大きすぎる」
「それはそうだけど、まさか処刑人って……」
エルは気持ちが追いつかない。
「拷問されたうえに殺されるのかよ」
「お前は殺されないかもしれない」
「本当に……?」
「ソマに送られる可能性がある。人手が足りてないんでな」
「ソマって、ソマ銀山?」
とエルが愕然とした様子で訊き返した。
「ああ、あの悪名高い銀鉱山だ」
とイオアンは頷いた。
「生きているあいだは太陽の光を浴びれない。浴びれるのは、死体となって鉱山から出るときだけらしいな」
宙を見つめているエルの耳には届いていないようなので、イオアンが確かめた。
「噂を聞いたことはないか? あとは鉛中毒で気が狂うかだ」
目を見開いたエルが、イオアンへゆっくりと顔を向けた。
「あんたもソマ送りになるのか?」
イオアンは目を逸らした。
「どうかな……私は違うかもしれない」
さすがに伯爵家の嫡男を、囚人のように働かせることはないだろう。
「ふざけんな、特別扱いかよ!」
立ち上がったエルが、ブッケルムへ歩み寄った。
「どこへ行く」
「悪いけど、俺は逃げさせてもらう」
「見張りに見つかるぞ」
「分かってる。でも、逃げれるところまで試してみる」
「〈首なし騎士団〉のいるところか?」
「いや、そんなことは許されない。だったら死んだほうがマシだ」
「じゃあ、どこへ?」
ブッケルムの背に鞍を載せるエルを、座っているイオアンが見上げている。
「南大陸にでも渡るつもりか。絶対に追いつかれるぞ」
「分かってるよ……故郷に戻るつもりなんてない」
「やめろ、無駄だ」イオアンも立ち上がった。
「とにかくブッケルムと……」
エルが手を止めて振り返った。
「なあ、あんたも協力してくれよ? 見張りの気を引いてくれれば、見つからずに石切り場を脱出できる」
「いや、協力したところで無理だろう」
「何でだよ。元はと言えば、全部あんたのせいなんだからな!」
エルが睨みつけ、イオアンは黙り込み、しばらくふたりは見つめ合った。
「確かにお前の言う通り、私に原因がある」
イオアンが重たい口を開いた。
「だが、これだけは分かって欲しい。家臣たちが追いかけているのはブッケルムじゃない、エル、お前のほうなんだ」




