第49話 再会
どう呼びかけるべきなのか?
イオアンは迷い、音を立てないように息を殺しながら、夜空を見上げた。
月は出ていない。
満天の星空を見ても、時刻までは分からないが、第三夜警時(真夜中から日の出までの時間帯の前半)に入っているのは間違いなかった。
夜明けまで残されているのは、あと数時間――。
石切り場の最上層まで来ているが、真っ暗な石切り場は、底なしの暗さだった。
たぶん、そのほうがいいんだろう。
むしろ見えてたりしたら、自分などは恐ろしくて足がすくみそうだ。
目の前の大理石の足場は、星明かりでぼんやりと白く輝いている。
その奥に黒く陰になっている窪みがある。
ポカテルが足元でイオアンを見上げ、尻尾を振って、ここだと示している。
覚悟を決めると、そっと呼びかけた。
「エル、そこにいるんだろう?」
返事はなかった。
ここじゃないのか?
通り過ぎて、先へ進むべきか?
試しに、中を覗き込んでみると真っ暗だった。
いや、あそこにいるのはブッケルムじゃないのか――?
横穴に足を踏み入れようとしたイオアンは、突然ローブの胸元を誰かに掴まれ、中に引きずり込まれた。
息が出来ない。
首筋に、冷たく鋭い刃を感じた。
「声を立てるなよ、何のために来た?」
切羽詰まったエルの声。
「エル、私だ。それを離してくれ」
「分かってるよ。俺の質問に答えろ。なんであんたがここにいる?」
「もちろん助けに来たんじゃないか」
「助ける? あんたが連中に告げ口したんじゃないのか? おかしいだろ、あんたがこのドレスなら気づかれないって言ったんだぞ!」
押し殺した声でエルが言い立てた。
「誤算だった。ちゃんと話すから、まずその短剣を下ろしてくれ」
エルは短剣を鞘に納め、ブーツに差し込んだが、通さないように、まだイオアンの前で突っ立っている。くたくたのイオアンとしては、早く座って休みたかったのだが、それをエルが許してくれない。
「早く話せよ!」
「変装を見破られたわけじゃない、ブッケルムだ」
「あいつがどうしたんだよ?」
「危険なのは屋敷の誰もが知っている。そのブッケルムに奥方様が乗っているのを見て、侍女が驚いたんだ。伯爵様に報告して、そのあと奥方様がいつもどおり自室にいるのが確認された。それでお前が偽者だとばれた。想定外だった」
「想定外だって!?」
またエルがイオアンの胸ぐらを掴んだ。
「そんなことぐらい考えりゃ分かるだろうが! 俺は死ぬんだぞ!」
「声を抑えろ、下では見張りが起きている」
血相を変えて叫ぶエルを、落ち着かせるようにイオアンがぎゅっと抱きしめた。
「いいか、お前は死んではいない。これからどうすればいいのか一緒に考えよう。ここを抜け出す方法が、きっと何かあるはずだ」
しばらくすると、エルの呼吸も落ち着いてきた。
イオアンが体を離した。
「ククルビタを中に入れてもいいか?」
「ククルビタ?」
「私が乗ってきた馬だ。着替えた馬房にいた馬だよ。ブッケルムとは仲がいいから暴れたりはしないはずだ」
エルが無言で頷いたので、イオアンは外に出て、ククルビタの手綱を引いた。中に入れると、寝そべっていたブッケルムが立ち上がった。後から入ってきたポカテルも含めて、三匹で匂いを嗅ぎ合っている。
イオアンは魔法のランプを、ククルビタの胸から外した。
まだ警戒して立っているエルの脇を通って、イオアンは座り込み、横穴に体をもたせかけた。長時間馬に揺られていたので、歩くだけでも辛かった。慣れていない騎乗で内股が擦れて出血しているような気もする。
床に置いたランプを点火し、火力を弱める。
うっすらと横穴の様子が浮かび上がった。奥行きもない狭い空間だ。
エルが不満そうにイオアンを見下ろした。
「下から、ばれるんじゃないのか」
「場所は分からないはずだ。登ってくるときは消していた」
「それで、本当なんだな?」
「何がだ」
「俺を助けにきたってことだよ」
「もちろんだ。お前を助けなければ、私の立場だって危うい」
危ういどころじゃないだろう。
イオアンは頭を壁に預けて、ここまでの道のりを思い出した。
すぐに捕まっているだろうと思ってエルを追いかけ、途中で通り過ぎたファッシノ河にかかる関所は、酷いありさまだった。
馬の死骸は除去されていたが、衛兵が鉄格子についた血を洗っていた。その場から動けない騎士もいて、ブッケルムとそれを操る女盗賊の話を聞いた。
どれもが信じられないような話だった。
兵士の死体を見下ろしたイオアンは、暗澹たる気持ちになった。
今朝、大広間の入口ですれ違った男だった。
ブッケルムを逃がさせたことが、まさかこんな大惨事になるとは予想しなかった。
自分が母上の特注のドレスを盗み、エルに着させ、父上に放っておけと命じられた馬を盗ませた結果、兵士たちが死んだのだ。
そしていま、父上とアルケタたちがエルを追いつめている。
このままではエルは捕まるだろう。
すべてをぶちまけられたら、私は父上に殺されてもおかしくない。
殺されないにしても、いずれ廃嫡され、イグマスから追放されるんじゃないか?
そういう未来に慄きながら、イオアンはエルを追いかけてきていた。
エルを逃がさなければ、私の人生はおしまいだ――。
恐怖で胃が締め付けられる。
震えながら息を吐くと、イオアンが尋ねた。
「いったい何が起きたんだ?」
隣に座り込んだエルが、セウ家の屋敷を出てからの出来事を淡々と話し始めた。
拍手喝采を浴びながら北大門を通過したこと。
ライ麦畑の真ん中でブッケルムが暴れ、家臣団に掴まりそうになったこと。
ブッケルムが挑発しながら、とんでもない速度で駆け抜けたこと。
関所での惨劇。
橋の上でのブッケルムのいななき。
美しい橅の森で、突然現れた狼たちが軍馬を襲った話を聞いたときには、信じられずにイオアンは首を振った。
「私が通ったときには血の跡だけだった。狼も兵士も馬も、どんな死体も転がっていなかったぞ」
「ありえるかもね」
エルは気味が悪そうに頷いた。
「すべてが、悪い夢か魔法の出来事みたいだった」
その後は、この石切り場に逃げ込み、石工の親方に疑われて、ここに連れてこられたのだとエルは語った。エル自身が体験したことを信じられず、聞いているイオアンに、これは本当のことなのか確かめているような表情だった。




