第45話 故郷
まるで、巨人が四角い岩を玩具のように積み上げていったような、もしくは、巨大なチーズを鋭利なナイフで切り出したような――。
エルは石切り場の風景に、そんな印象を抱いた。
日中であれば、真っ白な大理石が太陽を反射して眩しいのだろうが、いまは西日によって淡い桃色に染め上げられている。
切り出された大理石は、五メートル四方の塊から木箱ぐらいまで、様々な大きさだった。そのあいだを岩を運ぶためのスロープが通っており、ブッケルムとエルは大理石の絶壁を、職人の女に曳かれてジグザグに登っていった。
女は一言も口を利かなかったが、ブッケルムの扱いは優しかった。十階建ての建物の高さまで登りきると、立ち止まった女が谷底を見下ろした。
馬上のエルにも、石切り場に軍馬たちが入ってきたのが分かった。
虫ぐらいの大きさに見える。
エルは平気だったが、高いところが苦手な者なら心臓が縮みあがるだろう。
「ふん、追われていたってのは、嘘じゃなかったようだね」
と女が振り向いた。
「まあ、どっちが本物のセウ家なのかは、すぐに分かるだろうさ」
エルは肯定も否定もできず、黙っていた。
女もそれ以上は口を利かず、さらに移動して、ブッケルムを大理石が切り出された横穴のような窪みに引き込んだ。
「奴らに見つかりたくなかったら、じっとしてるんだね」
そう告げると、女は立ち去った。
女の足音が聞こえなくなると、エルはブッケルムから降りた。
両足に力が入らない。
それは怯えからではなく、何時間も馬に跨っていたからだった。ブッケルムの首に掴まって、エルは体が慣れるのを待った。
メルクリウスの石像のところでは、さほど気にならなかったのは、あのときまでは極度の緊張状態にあったからだろう。いまでも危機は脱していなかったが、久しぶりに一人きりになったせいか、その反動が一気にきていた。
正直なところ石工の親方と話していたときも、エルは疲れ切っていて、頭が上手く回ってなかった。元気なときの自分だったら、もう少し上手く立ち回れていたような気もする。だが、いまとなってはどうしようもない。
このまま何も考えず、床の上に横になりたかった。
だが、そういうわけにもいかない。
エルは力を振り絞ると、ブッケルムから離れ、横穴から出た。
大理石の上に腹ばいになると、少しだけ頭を出して、石切り場の底を眺めた。
すでに暗くなっている谷底では、篝火が焚かれていた。
家臣団は馬に乗ったままで、石工たちの集団と向かい合っていた。
エルの高さからだと人間は爪ぐらいの大きさだ。どんな表情なのかも、何を話しているかも、まったく分からない。
家臣団は十五人、石工たちがその倍の三十人ぐらいだ。
互いにじっと動かない。
アルケタと石工の親方が前に出て、話し合っているように見えた。
親方はどうするだろうか?
セウ家の言い分を聞いて、俺の捕獲に協力するか。
それとも、俺の言葉を信じて、連中を石切り場から追い払うのか。
少なくとも俺が、セウ家の「お嬢様」でないことは、もうばれてるはずだ。たぶんアルケタは、俺のことを「女盗賊」だとか話すだろう。ブッケルムのことも、この高価な純白のドレスのことも、すべて説明する。
あとは親方がどうするかだ。
俺が女盗賊だと知ったうえで、連中にしらを切るか。
でも、ドワーフたちがエルフ嫌いなのは分かるが、相手は無法者じゃない。
タタリオン家の英雄であるオウグウスとその家臣たちなんだ。そう簡単に逆らえる相手だとは思えなかった。
下で動きがあった。
石工たちは奥の飯場に引き上げていった。
家臣たちは下馬して、馬を家畜小屋みたいな場所に連れていっている。
どういうこと?
エルは眠い目をこすって眺め続けた。
家臣たちが石切り場の中央で焚火を始めた。揺れる炎が白い壁に怪しげな影をつくっている。焚火のまわりでは男たちが思い思いの格好で座り、石切り場の入口には一人だけ見張りが立っている。
エルは慎重に後ずさり、下から見えないところで立ち上がった。
横穴に戻ると、床に寝そべっていたブッケルムが、エルを見て首を持ち上げた。
すっかりくつろいでいるようだった。
いまがどういう状態か分かってんのか?
エルは呆れながら、ブッケルムのそばに座った。馬の体は温かった。
エルは谷底で見えたものを頭で整理しようとした。
つまり、連中は野営するつもりなんだ――。
石工の親方と、どういう話になったのかは分からないが、男たちは朝になって明るくなったら、石切り場をくまなく捜索するつもりなのだろう。
そうなったら俺はおしまいだ。
見つかるに決まってる。
職人の女に連れられて、この横穴に登るときも、エルは注意深く石切り場を観察していたが、親方の言う通り、逃げ出せるような場所は見当たらなかった。
そして、石切り場は鉱山ではない。
どこまでも続く深い坑道があるわけではないのだ。
この横穴のように、どこも数メートルの奥行きしかない。セウ家の馬小屋よりも狭い空間なのだ。逃げも隠れもできない。
つまり、そういうことだ。
俺の命は、明日の朝日が昇るまでなんだ――。
その事実が何を意味するのか、すぐにはエルは実感を持てず、胸の上に重たい石が乗っているような、ただ重苦しい息苦しさに囚われていた。
エルは夜空を見上げた。
この横穴に天井はなく、満天の星空が見えている。
月は出ていない。
体が震え、寒気を感じたエルは、純白のマントで体を包み込んだ。
すべて無駄だった。結局、神々は俺たちを見放したんだ。
捕まったら殺されるかな?
もちろん、俺は殺されるに決まってる。
お前は――、
エルは、ブッケルムの首筋をゆっくりと撫でた。
――たぶん殺されない。
あの酷かった出来事は、むしろ〈魔の馬〉の力を証明するものと思われるだろう。
だから、これからは大事にされると思うよ。
よかったな。
たぶん、俺もすぐには殺されない。
イグマスまで連れていかれて、みっちり尋問されるんだろう。
処刑されるのは、その後だ。
俺がすべて吐いたら、あのイオアンとかいう家庭教師も捕まるんだろうな。
可哀そうだけど仕方がない。
だって、あいつが首謀者なんだから。
ブッケルムを盗み出そうと計画したのも、このドレスを盗み出したのも、全部あいつがやったことだ。
それを言ったら、殺したのは全部お前のせいだ。
俺は何もしてないんだから。
ちゃんと説明したら分かってくれないかな?
悪いのは家庭教師とこの馬なんだって、俺は無理やり押しつけられただけなんだって。そう説明したら、鞭打ちぐらいで済んだりしないかな?
それは、つまり――、
誰かを犠牲にして、自分だけ生き残ろうってわけか?
また繰り返す気かよ?
もう、そういうことは二度としないって誓ったんじゃないのか?
彼の人の命をなんだと思ってる。
じゃあ、どうする?
俺もブッケルムも家庭教師も、みんな生き残る方法なんてあるのか?
よっぽど特別な何かを差し出さない限り、あの連中が許すはずなんてないだろ。
そんなもの、俺にあるわけないじゃないか。
――いや、あるのか?
隠れ家の場所を教えればいいんだ!
ふつうなら絶対に見つからない場所にあるからびっくりするだろう。
なんなら騎士団のことを話してもいい。
少しぐらいなら、俺だって裏事情ぐらい知っている。
そうだ。この情報なら、あのオウグウスだって取引に応じるかもしれない!
目を見開いて、夜空を眺めているエルの耳に、夜鷹のギョギョギョという鳴き声が遠くから聞こえた。
駄目に決まってるじゃん。
そんなこと許されるはずがないだろ。
先生にカルハース、俺を助けてくれたみんなを裏切るつもりか。
じゃあ、どうすればいいんだよ?
明日の朝、まだ暗いうちに逃げ出してみるか?
もちろん見張りには気づかれるだろうけど、捕まらなければいいんだ。
でも隠れ家には戻れない。
ずっとこのまま、連中から逃げ続けるつもりか?
そう、逃げ続ければいいんだ!
カルハースたちのところにも戻らず、ブッケルムと旅を続ければいい。こいつとなら魔物だって怖くない――。
――怖くない。
と考えているうちに体が震え、エルは嗚咽を洩らした。
逃げるって、どこへ逃げ出すんだよ?
東の物騒なアクィア属州に入るか?
それとも〈海峡〉を渡って、南大陸に戻るのか?
でも、長いあいだ占領されてるから、かなり荒れ果ててるだろう。
だったらいっそ、故郷まで戻ってみるか?
故郷だったら、タタリオン家の力も及ばない。あの綺麗な海でまた泳げるんだ。ブッケルムだって白い砂浜を駆け抜けることができる。
故郷を捨てたのに、また舞い戻る気かよ。
またエルは泣き出した。
あんなに嫌がってたのに、いまさらおかしいじゃないか――。
ブッケルムは床に首をだらりと垂れて、目を閉じていた。下唇がだらしなく下がっている。完全にリラックスしていた。
エルは、艶のない毛並みにそっと触れた。
どんな状況だろうと、狭い馬房に比べれば幸せなようだった。
「じゃあブッケルム、どうして俺が故郷を離れたかを話すよ」
鼻をすすりながら、エルは語り始めた。
「俺の故郷は素敵なところなんだ。すごく暑い。白い砂浜がどこまでも広がっていて、たくさん椰子の木が生えてる。もくもくと大きな火山が白い煙を吐いてる。その麓にある城で俺は生まれたんだ……」




