第43話 メルクリウス
あの少女は何者なんだ?
峠道を下り切ったときには、エルは混乱していた。
狼を使役する巫女なんているのか?
幻でも見たような気もするけど、狼たちが現れたのは現実だ。そしてブッケルムだけが襲われなかった。〈魔の馬〉だから? そんなことってあるのか?
答えが出ないまま、やがてエルはソロサリエンの村に到着した。
まだ家臣団は現れていない。
遊んでいた子供たちが、ドレス姿のエルを見て驚いている。
幾つかの道が交わっている小さな村だが、エルは隠れ家へ向かう街道を選んだ。
何度か通ったことのある道なので、少し気分が楽になる。
このあたりは、ナイト伯爵が治めるヌガティア属州のはずだった。
隠れ家まで、やっと半分来たぐらいだ。
山と山に挟まれた道なので、日の光が届かず、あたりはだんだん薄暗くなっている。そのうち真っ暗になるだろう。
星明かりだけを頼りに、このまま逃げ続けられるのか?
でも、進むしかない。
しばらくすると、後方にセウ家の家臣団が見えた。
いまブッケルムがゆったりと走っている道は、曲がりくねった谷底とはいえ、山道に比べれば遥かに走りやすい。
すぐに追いつかれるだろうと覚悟したが、その距離が縮まることはなかった。
何度か見通しの良いところで振り返ってみたが変わらない。
エルは訝しんだ。
持久戦に持ち込む気か?
確かに、こいつが普通の馬ならそうだろう。
だが、すでにエルはブッケルムが〈魔の馬〉だと確信していた。
それは向こうも分かってるはず。
だとしたら、なぜ?
また狼みたいのが現れるのを警戒しているんだろうか?
もしかしたら――。
北大門を出てから、エルは初めて希望を感じた。
隠れ家まで逃げ切れるかもしれない。
いまの感じならブッケルムが潰れることはない。向こうだって追いかけるので精一杯なぐらいだろう。このまま日が暮れても走り続ければ――。
――いや、駄目だ。
ガツンと頭を殴られたかのようにエルは愕然とした。
セウ家の連中に〈首なし騎士団〉の隠れ家の場所を知られてしまう!
それに連中が十人以上は残ってるだろう。
いま隠れ家にいるのはカルハースとディオンだけだ。ダマリは捕まり、ダルトンとブシェルはどうなったか分からない。
俺を含めて三人だけで、奴らに勝てるわけがない――。
だったら、どうする?
エルは必死に考えようとした。
とにかく、このまま隠れ家に戻るのだけは絶対に駄目だ。
これは俺たちの仲間だけの問題じゃない。〈首なし騎士団〉全体の問題なんだ。あの隠れ家は何百年と、みんなが隠し続けてきた。
それを知られるぐらいだったら、まだ俺が死んだほうがいい。
じゃあ、どうする?
なんとかして連中を振り切らないと。
けど、ブッケルムはこれ以上スピードを上げられない。
隠れるような場所もない。
この街道は左側には山が迫り、右側は川が広がっているだけの一本道だ。
途中にあるのは貧しい農民の家ぐらい。
この先にある雲雀峠を越えるまで、町や村はない。
エルは地図を思い浮かべた。
途中には、隠れ家と同じような鍾乳洞の洞窟があったはず。
でも、そういうところこそ何がいるか分からない。
ブッケルムだって嫌がるだろう。
どこかで別の道を見つけないと――。
※ ※ ※
いい考えが浮かばないまま、エルは谷底の街道を走り続けている。道は川に沿って、右に左に蛇行していた。
狭い空がオレンジ色に染まり始めていた。
山は黒く翳り、流れの速い川面が夕焼けを反射している。
エルの後ろを家臣団が追いかけてきているのは確かだが、山陰に飲まれて、彼らの姿は見えなくなっていた。
雲雀峠が近づいてきた。
走る馬の背で、エルは焦燥感を募らせている。
このままずっと連中から逃げ切ることなんてできない。
いずれどこかで捕まるだろう――神々よ、どうか俺たちを助けてくれ!
すると、エルの祈りに応えたかのように、カーブを曲がった先に、夕陽を浴びたメルクリウスの巨大な石像が唐突に現れた。
大理石の工房があるのは知っていた。
エルは咄嗟にブッケルムの手綱を引き、馬を敷地に進めた。
小さな工房に人の気配はなく、敷地には、運びやすいように切り出された立柱や、未完成の石像が転がっている。
山からは虫の声、川からはせせらぎの音が聞こえた。
工房は川に面しており、船着き場には小舟が繋がれていた。船に石を載せてどこかへ運ぶためだろう。
エルの視界に白っぽいものが見えた。
川沿いに別の道が続いていた。
街道からは見えない、エルも知らない細い道だった。
どこへ続いてるかも分からない。エルはブッケルムを石像の裏へ歩かせた。
メルクリウスの足元には、大理石の山羊と鶏も控えており、その後ろに隠れれば、街道からは見えないはずだった。
ここで連中をやり過ごしたら、イグマスへ戻ろう――。
それが、いちばん現実的な考えに思えた。
エルは息を詰めて、石像を見上げた。
十五メートルぐらいはある。
メルクリウスは商人や旅人の守護神だから、街道沿いに建てられたのだろう。
裸体にトガを軽くまとった中性的な少年の姿をしていて、二匹の蛇が絡み合った伝令使の杖を右手に抱えている。
エルはメルクリウスに祈った。
お前は盗賊の神でもあるんだ、頼むから俺たちを護ってくれよ!
じりじりとした思いで、エルは家臣団が通り過ぎるのを待っている。
その一方で、ブッケルムは落ち着いていた。
その様子にエルは疑念を抱いた。
また何か企んでるんじゃないか?
もしかしたら関所でも狼も、すべてこいつが引き起こしたのかもしれない。
普通に考えればあり得なかったが、痩せ衰えているのに、これだけ走ってまだ元気なブッケルムを見ていると、何があってもおかしくない気がした。
エルは真っ赤な夕焼け空を見上げた。
狼を呼び寄せられるのなら、火を噴く竜だって召喚できるんじゃないか? そうじゃなきゃ、メルクリウスの石像を倒して家臣団を押し潰すとか? 確かにそうなれば、俺が追手を心配する必要もなくなる。
駄目だ。
エルは首を振った。
どんな酷いことをされたからって、それはやり過ぎた。
それに、それでブッケルムの人間に対する憎しみが消えるわけじゃない。
たぶん同じことを繰り返すだけだろう。
もう、人も馬も死ぬところを見るのは嫌なんだ。
べつの方法があるはずだ。
じゃあ、どうする?
エルは川沿いの小道へ、急いでブッケルムを歩かせた。
小道は誘うように白く輝いている。
さらに近づいてみると、川沿いの崖を切り崩した、荷車が通れるぐらいの幅の道だった。日頃からよく使われている道のようだ。
急流に沿ってカーブしており先は見通せないが、どこかに通じているのだろう。
まだ、なにものにも汚れていない白い小道――。
「俺たちは俺たちの道を行こう。あの連中からは離れるんだ」
とエルはブッケルムに言い聞かせた。
「俺はお前を大切にすると誓った。これ以上罪を犯させるわけにはいかないよ」
エルは白い小道へ馬を進めた。
※ ※ ※
川沿いの道をしばらく進むと音が聞こえてきた。
幾つもの鐘を叩いているかのような鋭くて固い音。さらに近づくと、男の叫び声や牛の鳴き声まで聞こえてきた。
山の中の村?
ブッケルムが警戒するように立ち止まり、エルも進むべきかためらった。
ここで引き返すのか?
いや、前に進むと決めたんだ。後戻りはしない。
それに、もう日が暮れる。
村の人に頼んで、泊まらせてもらおう。
もし断られたら、ふたりで夜通し走り続ければいい。川沿いの道だ。いずれ、どこか別の道につながるはず――。
エルは迷いを断ち切るように、ブッケルムを走らせた。
カーブを曲がると突然視界が広がった。
山肌に大きく穿たれた谷。
真っ白な絶壁が夕日で赤く染まっている。
あちこちに転がっているのは切り出された石の塊。
エルの前に現れたのは。ドワーフたちが働く大理石の石切り場だった。




