第42話 狼たち2
狼の声だ!
このあたりに狼がいるんだ――!
しばらくすると別の方角から、一斉に狼たちが応える鳴き声が聞こえた。
もしかして、ここって狼の縄張りだったのか?
急にエルの足が震えだす。
ダマリが狼の遠吠えにはいろんな意味があると言っていた。
はぐれて仲間を探すときもあれば、狩りを始めるために仲間を呼び集めるときもある。本当に獲物を襲うときは沈黙を守るらしい。
セウ家の連中に加えて、こんどは狼かよ!
ガクガクとおぼつかない足取りで岩場まで戻ると、エルを見つけたブッケルムが耳を真っすぐに向け、安心したようにグルルと低い声を出した。
先程まで置いていこうとしたことも忘れてエルは、
「ごめんよ、森で迷ったんだ」
と言い訳をして、ブッケルムに謝った。
やっぱり〈魔の馬〉でも怖いものはあるんだな――と微笑ましく思いながら。
エルは鐙に足をかけ、勢いよく鞍に跨った。
まもなく峠道も終わる。
追いつかれないうちに距離を稼いでおこう。
※ ※ ※
尾根道は乾燥していて走りやすかった。
橅の森の中は涼しい。
エルの純白のマントをはためかせながら、ブッケルムが軽快に進む。
ところどころ森が切れている場所では、遠くの山並みまで一望にできた。あのあと狼たちの声は聞こえていない。
ただの楽しい遠乗りなんじゃないかと、エルは錯覚してしまいそうだった。
だが、それは違う。
そろそろセウ家の軍馬たちも峠道を登り切ったはずだ。
一気に差を詰めてくるだろう。
しかし、無理にブッケルムを走らせてもいけない。
まだまだ隠れ家までは距離がある。力を温存しておかなければならないのだ。
必要なときが来れば、ブッケルムが自分で判断するだろう。
けど、セウ家の連中も馬鹿じゃない――。
そうエルは思っていた。
同じような手には引っかからず、油断せず、慎重に追い詰めてくるだろう。
山の中に、関所のようなものがあるわけでもない。
だいたい、あれは偶然だった。
――偶然だよな?
エルはちょっと気味が悪くなる。
鉄格子が落ちてきたのは、たぶん突進してきた軍馬たちの振動のせいだ。
あれを予期できるはずがない。
わざと狙って鉄格子に軍馬たちを激突させるなんて、絶対に無理に決まって――。
ブッケルムの右耳が後ろに回った。
左耳は横へ向いている。
エルは振り返った。
だが、セウ家の家臣団はいなかった。
いや、いないのではなく、橅の森のせいで見えないんだ。
蹄が地面を叩く、硬い音が聞こえたような――。
やっぱりそうだ!
全速力で追いかけてきている。
くそっ、どれだけ力が有り余ってるんだよ!
たぶん、ただの軍馬じゃないんだろう。
多少なりは〈魔の馬〉の血が混じっていてもおかしくない。なにしろ戦争狂いのオウグウスが率いる騎士たちだ。相当金はかけているはず――。
エルはやきもきしているが、ブッケルムは警戒しながらも、同じようなテンポで走り続けていた。
大丈夫なのか?
と心配せずにはいられない。
〈陰の街道〉のときとは違うんだぞ?
男たちはより慎重に、そして比べ物にならないほどの憎しみを込めて、俺たちを捕まえようとするはずだ。
もうお遊びの、追いかけっこじゃ済まなくなっている。
重たい蹄の音が近づいてくる。緑の美しい森の中を、さらさらと涼しい風が吹き抜ける。エルは後ろを向いて目を凝らすが、揺れる馬の背からは確認できない。ただ森からは、獣たちの濃厚な気配が感じられた。
来るぞ、来るぞ――。
すると、岩がちな見晴らしが良い直線で、後方にセウ家の家臣団が姿を現した。
来た!!
エルはさっと前を向く。
バクバクと心臓が破裂しそうになる。
ブーツの踵でブッケルムの腹を蹴りたいが自重する。
こいつに任せるんだ。
こいつなら上手く逃げ切ってくれるはず――。
そう祈るような気持ちでエルが手綱を握っていると、ブッケルムが首を天に向かって高く反らして、
「ヒィィィィィィン!」
と目の前で、つんざくような甲高いいななきを発した。
エルは鞍の上で呆気にとられていた。
エルには分かる。
これは、群れの仲間に助けを求めている声だ。
エルは愕然としている。
こいつも自分だけじゃ無理だと分かってるんだ。
でもブッケルム、ここに仲間はいないんだよ――エルが泣きたい気分で振り向くと、カーブが終わり、軍馬たちが突然姿を現した。
あいつらは絶対に仲間じゃないんだからさ!
騎士たちの顔が見える。
馬上で弓を構えている者もいる。
ここでエルフの得意芸かよ、やめてくれ!
ようやくブッケルムが速度を上げ始めたが、男たちも馬の速度を上げ、すぐ後ろまで迫ってきた。
止まれとも言わない。
警告もしない。
馬から、俺を引きずり落ろすつもりだ。
並走した一頭の軍馬から、金髪の若いエルフが身を乗り出し、エルに腕を伸ばす。
さっとエルが身を躱し、あわやというところで難を逃れる。
だが時間の問題だ。
広い街道とは違って、山道では逃げ場がない。
すぐに橅の森が迫っている。
また金髪の若者が馬を近づけてきた。
エルは体を左に傾けるが、これ以上は無理だ。落ちてしまいそうだった。
若者は執念深く、エルのマントに手を伸ばし――。
若者の姿が消えた。
若者の乗っていた馬が倒れた。
若者は地面に投げ出され、その上に灰色の獣が覆いかぶさっている。
それを見た後続の軍馬たちが急停止した。
次の瞬間、橅の森から音もなく狼が飛び出してきた。
それも一頭や二頭ではない。
枯木のような灰色をした敏捷な十数匹の獣たちが、悲鳴をあげる軍馬の喉に噛みつき、乗り手ごと地面に引きずり倒した。
向きを変えて山道を逃げようとする者もいるが、疾走する狼に追いつかれ、馬の足を嚙みちぎられ、鋭い牙の餌食になろうとしていた。
べつの男が、その狼を剣で突き刺した。
軍馬の後ろ脚で、遠くまで蹴り飛ばされた狼もいる。
美しい森が、狼と男たちの戦場に変わっていた。
ただ、ブッケルムだけは惨劇には加わらず、悠然と走り続けている。
エルは信じられないような思いでこの光景を眺めがら、戦いの場から離脱した。
やがて森が途切れ、山頂の大きな岩が見えてきた。
岩の上に誰かがいる。
山道は下り坂になり、エルは体をひねって遠くにある岩を見上げた。
巨岩の上には、神殿の巫女のように白いヴェールと長衣をまとった少女、そして彼女に寄り添うようにして、人が跨れそうなほど大きな狼がいた。




