第41話 狼たち1
エルはファッシノ河の川岸から、下流のアーチ橋を眺めていた。
ブッケルムに跨ったまま、木の陰に隠れて。
そんなことより、早く先へ進むべきだとは分かっていたが、どうしても確認せずにはいられなかった。
もし、オウグウスが諦めてくれれば、帰ることに専念できる。
けど、そうならなかったら――。
どうにかして、隠れ家まで逃げ切らなくてはならない。
いい手立てがエルにあるわけでもなかった。
いままで逃げ切れたのは、すべてブッケルムと偶然のお陰だった。
自分は何もしていない。
かといって、彼らが自分を許すことはないだろう。
あの関所では、数頭の高価な軍馬と、何人かの命が失われたのだから。
すべてセウ家の自業自得だろうと思いたかったが、彼らは認めないだろうし、エル自身、その責任を感じていた。
エルのいるところから、関所まで二百メートルは離れており、鉄格子が上がったのかまでは良く分からない。
だがアーチ橋を一頭また一頭と、男を乗せた軍馬が渡るのが見えた。
くそ、諦めないのかよ――。
結果が確定したエルは、泣きたい気持ちになった。
いっぽうで、まだ元気な軍馬がいることにもホッとしていた。
これから追いかけられることは分かっていたが、それでも正直な気持ちだった。
エルは手綱を引くと〈陰の街道〉に戻った。
状態の悪い街道を、ブッケルムが走り始める。
まだ、へたばる様子はないので安心しているが、セウ家の行動については正直なところ、やはりという気持ちがある。
仲の悪いヨアキム伯爵の土地に入っても、エルを捕まえるつもりなのだ。
自分が奥方の高価なドレスを着て、〈魔の馬〉であるブッケルムを盗み出したのだから当たり前だろう。
それに自分だけでなく、連中もブッケルムの能力を知ってしまった。
是が非でも、取り返したいと思ってるに違いない。
さらには軍馬と人の命まで加わった。
賭け金は上がる一方だ。
あのオウグウスが、俺のことを諦めるとは思えない。
鉛を飲み込んだような重たい気分でエルは考え続けている。
このドレスはどうすればいいんだろ?
山に近づいたせいか、さほど暑さは感じない。
だが、セウ家の紋章が大きく刺繍されたマントを着ているのは、ヨアキム伯爵の領地では吉と出るのか、凶と出るのか?
でも、どれほど仲が悪いといっても、奥方の格好をしていれば、悪いようにはしないだろう。ふつうの村人であれば、手助けだってしてくれるかもしれない。
それとも、脱ぎ捨てたほうがいいのかな?
そんなことを考えているうちに、見覚えのある分岐点が近づいてきた。
いままでファッシノ河に並走してた〈陰の街道〉は、北西へ大きく折れ曲がる。
川沿いを遡れば、細い峠道に進むことになる。
ディオンと一緒のときには〈陰の街道〉を進んだ。
隠れ家に貼ってある地図では、峠道のほうが遥かに近道だったはずだが、ディオンは選ばなかった。
そのときは深く考えず、その選択に従った。
自分より若いとはいえ、このあたりの土地勘があり、いずれは正式に〈首なし騎士団〉に加わる少年だと思って信頼したのだ。
分かれ道の手前で、エルは馬を止めた。
無意識に手綱を引いたが、ブッケルムが抵抗することはなかった。
自分のことを信頼するようになったのか、それとも来たことのない場所だから、ブッケルム自身戸惑っているのか。
街道を北西へ進めば、イオミア属州の中心地に入る。
峠道を示すほうの「ソロサリエン」の板は腐りかけている。
どちらにするか。
あまり悩んでいる時間はない。
もちろん整備されている〈陰の街道〉のほう走りやすいが、それは家臣団にとっても好都合ということになる。ブッケルムにとっては、狭い峠道のほうが有利なんじゃないか? それでも連中は追いかけてくるだろうか?
猟犬はいないはずだ。
運が良ければ、二手に分かれるか?
けど峠道のほうは、この前の雨でぬかるんでいる。
どうせ足跡ですぐに分かってしまうだろう。
エルは直観的に、川沿いを遡るほうを選んだ。
上流になるにつれ道は細くなり、木々が生い茂るようになった。やがて勾配が急になると川は下を流れ、完全な峠道になった。
足場はかなり悪い。
路肩が崩れて、崖崩れになっているところもある。
それでも山の牧場生まれのせいか、ブッケルムは苦もなく登っていく。
逆に体が大きくて重たい軍馬にとっては、かなり歩きにくいはずだ。少なくともスピードを上げるなんてできない。
だが、つづら折りの峠道を登り切れば、尾根沿いの比較的走りやすい山道になる。そうなる前に、どれだけ連中と差をつけられるか――。
道の悪いところでは、エルが降りてブッケルムを曳いたので、純白だったドレスもいまやかなり泥で汚れていた。
関所を思い出し、血で汚れてないだけましか、と思ったりもした。
岩場から清水が湧いていたので、そばの木にブッケルムを繋げて水を飲ませた。
エルは峠道を離れて、森へ入った。
セウ家の家臣団がついてきているのか確かめるつもりだった。
白灰色の幹の橅の木が生えている。
崖から落ちないように幹に掴まりながら、エルが見下ろすと、遥か下のほうを一列になって馬たちが歩いていた。
どれだけの馬と人数が追いかけてきてるのかは、生い茂った夏の森のせいではっきりしなかった。
五頭ぐらい死んだかもしれないな――。
セウ家の厩舎で目にした美しい馬たちを思い出し、エルは悲しくなった。
あれを橋の上でブッケルムが笑ったように見えたのは、錯覚だろうか。
でも、セウ家の人間を憎んでいそうだ。
父親のルベルマグナも、狂暴な〈魔の馬〉だったという噂だし。
つまり血統か。
あれは本当に復讐なのか?
ルベルマグナは先代のタタリオン公爵の愛馬だったけど、結局は追放された。
そういう人間たちを恨んでいるのかもしれない。
俺だって、そのなかに入るのかもな――。
とエルは思った。
何度か振り落とされそうになったし。
俺にあんな馬が扱えるんだろうか?
隠れ家までたどり着ければ、カルハースに預けられるとは思うけど、それまでだって乗りこなせるのかどうか自信がない。
軍馬の姿が見えなくなり、峠道に戻ろうとしたところで、エルはふと思った。
このまま森に隠れてたらどうなる?
連中は峠道でブッケルムを見つけるだろう。
でも、姿が見えない俺まで探し出そうとするだろうか? 意外とブッケルムだけで満足するんじゃないのか? ドレス一着のために俺まで探すかな?
あんな馬――、
もう手放したほうがいいんじゃないか?
エルはブッケルムが、セウ家の軍馬たちを挑発していたのを思い出していた。
だって、自分の命を懸けてまで救い出すことはないだろう?
そんなことを考え始めたエルの耳に、馬のいななきが聞こえてきた。
上からだ。
ブッケルムが俺を呼んでいる。
急いで峠道に戻ろうとしたエルの耳に、今度は別の声が遠くから聞こえた。
アオォーーンと哀しげに引き延ばした鳴き声。




