第39話 関所1
〈陰の街道〉の中央で、セウ家の家臣団がブッケルムを取り囲んだ。
鞍の上のエルは身じろぎもしない。
気怠い夏の昼下がり、まわりは一面のライ麦畑だった。
ときおり微風が吹くと、重たく実った麦穂が黄金色の波のようにそよいでいく。
街道の旅人たちは面倒ごとに巻き込まれないようにと、エルと家臣団を避けて歩道を行き来していた。
家臣団の中からアルケタが、エルの前に馬を進めた。
夜警隊の甲冑は装着しておらず、深紅のベルベットの上着に、鋲が打たれた革のベストを羽織っただけの格好である。
家臣たちが騒ぐのをやめると、聞こえるのは虫の声だけになった。
「女盗賊よ、その馬から降りろ」
このアルケタの命令を、エルは他人事のように聞いていた。
そうか、俺は女盗賊ってことになんのか――。
外の世界から切り離されているエルは、真っすぐ北へ、隠れ家があるはずの青い山並みへ顔を向けていた。
まったく反応をしないエルに、馬上の家臣たちが訝しげな顔をした。その中には、ひとりだけ年老いたセウ伯爵の鋭い視線もある。
「聞こえないのか」
さらにアルケタが馬を近づけた。
「言うことを聞かないと、引きずり下ろすことになるぞ」
危険を感じたのか、手綱を放したエルが、両腕を交差させるように胸をさっと隠した。無意識に自分の身を守るように。
すると、ブッケルムがゆっくりと歩き出した。
馬はアルケタの前を通り過ぎ、家臣団の輪も抜けて、かっぽかっぽと何事もなかったかのように再び街道を進んでいく。
「おい、どこへ行く。その馬を止めろ」
背後から呼び止める声が聞こえたが、まだ虚ろな意識のエルは、馬の背中で、純白のドレスの前を両腕で押さえている。
ブッケルムが勝手に〈陰の街道〉を進んでいた。
その様子に目を細めたアルケタが、顎をしゃくって合図すると、二人の家臣が軍馬の向きを変え、ブッケルムの前へ左右から回り込もうとした。
だがブッケルムが速度を上げ、二頭から距離をとった。
家臣たちも速度を上げると、ブッケルムもさらに脚を速めて、また引き離す。そうしているうちに、アルケタたちも追いかけ始めた。
いつのまにかブッケルムは駈足で街道を走っており、上下に揺られているエルも、夢から醒めたように意識がはっきりしてきた。
いったい何が起きてるんだ?
エルが振り返ると、苛立たしげな表情で男たちが追いかけていた。
え、勝手にブッケルムが走りだしたのかよ――。
状況は理解できたが、かといってブッケルムを止めることもできなかった。手綱を引けば、またさっきのように暴れ出すだろう。
さらに速度を上げた軍馬たちが、左右から追い抜こうとすると、急にブッケルムは速度を落として並足に戻った。
軍馬たちは、そのまま街道を駆け抜けていった。
なんなんだ?
もう、やる気をなくしたのかよ?
エルは困惑した。
遥か先の街道では、家臣団が待ち構えている。
振り返ったエルは、反転してイグマスに逃げ込むことも考えた。
いや、すぐに捕まるに決まっている。
いっぽうブッケルムは、街道を塞いでいる馬群に向け、また速度を上げ始めた。
おい、どうする気だよ。
まさか、連中に突進する気かよ?
それを見た家臣団たちは、馬の向きを変えると、近づいてくるブッケルムに対して、正面になるように隊列を整えた。
兵士には抜刀している者もおり、剣が太陽を浴びて反射する。
馬鹿、やめろ!
そう叫びたいがエルはぐっと堪える。
声を出すわけにはいかないのだ。かといって手綱も引けなかった。
そうしているうちに背が低く、がっしりした体格のブッケルムは、短い脚で速度を上げていき、まるで野牛のように馬たちに突っ込むかと思われた。
馬上のエルが衝撃に身構えたところで、ブッケルムが力強く前脚を踏ん張った。
馬群の手前で大きく左に向きを変えると、歩道を通って、意表を突かれているセウ家の男たちの脇をすり抜けていった。
去りぎわにブッケルムは、馬たちに向けて、後ろ脚だけで軽く跳ねてみせた。
思わず落ちそうになったエルが、慌てて首にしがみつく。
馬鹿野郎!
なに遊んでんだ!
捕まったときの俺の印象が悪くなるだけだろ!
だが、ブッケルムは速度を上げていく。
エルが後ろを見ると、三十頭近くいる街道で密集していた軍馬たちが、ようやく向きを変えて、エルを追いかけようとしているところだった。
そのあいだにも、どんどん距離は離れていく。
ブッケルムは快調だ。
短い脚を忙しく回転させ、元気よく走り続けている。
エルには理解できなかった。
こんな痩せ衰えた小さな体で、どうしてここまでスピードを出せるんだ?
本当に〈魔の馬〉なのか?
だから、軍馬たちにも追いつかれないのか?
しかし振り返ると、徐々に距離が縮まり始めていた。
態勢を整え直した軍馬たちが、物凄い勢いでブッケルムを追走してきている。
このままいったら追いつかれる。
その前に、ブッケルムのスタミナが持たないだろう。
小回りの利くブッケルムは、ごちゃごちゃした町中なら逃げるのにも有利だが、〈陰の街道〉のような軍用道路では、直線が長くて不利になる。
そうだ、ここは〈陰の街道〉だった!
エルは前を向いた。
真っすぐに伸びる街道の先に、確かに小さな建物が見えた。
あそこに関所があるはず!
エルはカルハースの話を思い出していた。
※ ※ ※
ひと月前にいまの隠れ家に移ってきてから、エルはタタリオン家の情報を、カルハースからみっちり頭に叩き込まれていた。とくに領都であり、巨大で豊かなイグマスは帝国のどの都市とも違う。覚えることが多い。
そこで有利な取引を進めるには、タタリオン家に代わって、イグマスとスウォン属州を治める副総督のセウ家についても熟知している必要がある。
気をつけなければいけないのが、誰と取引しているかだ。
公爵であるタタリオン家は、皇帝より委任されている五つの帝国属州(三日月大陸の三属州と南大陸の二属州)の統治を、さらに家臣である伯爵家に任せていた。そして五つの伯爵家は必ずしも一枚岩というわけではなく、同じ公爵家の旗下で戦いながらも、互いに勢力を競いあっている。
それぞれの伯爵家同士の関係には濃淡があるが、エルフであるセウ家と、ヒトであるヨアキム家の仲は最悪だと噂されていた。過去には互いに血を流したこともあり、領地が隣接する両家のあいだでは、いまだに所有権の問題が燻っている。
だから相手が、どちらの伯爵家に属する人間なのかを見極め、態度や言葉に気をつけていないと、せっかくの取引も水の泡になるぞ――そうカルハースから、エルは口酸っぱく教え込まれていた。
そしていま、エルの視界に入っているのがセウ家の関所であり、その先のファッシノ河を渡れば、ヨアキム家が治めるイオミア属州だった。
もし、そこまで逃げ切ることができれば、オウグウス・セウ伯爵とその恐ろしい家臣たちは、俺の追跡を諦めるかもしれない――。
そこに、エルは希望を見出していた。




