第38話 ライ麦畑
真っ青になったエルは振り返った。
馬に乗った男たちが、街道を横に広がって自分を追いかけている。
先頭の男の顔は四十過ぎのがっしりとした男だ。
皮鎧に、腰には剣を差している。
振り向いたエルを見て、にやけた顔で手を振った。
その後ろには、慌てて飛び出してきたらしい格好の兵士や、これから狩猟に出かけそうな服装の若いエルフなどがいる。総勢三十人近くいるのを確かめたエルは、見てはいけないものを見てしまったかのように、さっと前を向いた。
俺を女だとでも思ってるのか?
エルは、上着を突っ込んで大きく膨らました胸を見下ろした。
そりゃそうだろう。
いまの俺が、女以外に見えるはずがない。
無法者たちか?
傭兵団?
まさか、タタリオン軍の兵士たち――?
過去を思い出したエルの目は、いまや恐怖で見開いていた。
※ ※ ※
故郷を飛び出してからの数年間、路上で暮らしていた頃、知り合った子供たちのなかには春をひさぐ娘もいた。
南大陸の少女たちは、自分からそうしたくて選んだのではなかった。
まだ物乞いのほうが良かったかもしれない。
だが、彼女たちの多くは諦めていた。
だって、すでに汚れてしまったから。
もうこうするしか、私には生きる道はないのだから――。
彼女たちの柔らかい股を最初に開いたのは、タタリオン軍の男たちだった。
シャニ家の領土を侵食していたタタリオン軍は、制圧した南大陸の町や村で「徴発」という名のもとに食料などの必需品を奪っていた。その必需品のなかには、誰かの妻や娘も含まれていた。
輝くような鎧を着こんだエルフの騎士は、兵士たちが職人の妻や村娘を襲うのを黙認していた。それも軍の士気を維持するためだと説明して。騎士は騎士で、夜になると貴族や豪商の娘を自分の相手にさせていたのだった。
家を焼かれ、家族を失って逃げてきた娘たちのなかには、そういった経験をした者も少なからずいた。
そして今度は、路上で金を受け取り、同じようなことを繰り返していた。
あたかも、違う男とならやり直せると信じているかのように。
だがエルが見ていたところ、少女たちの傷跡は深くなるばかりのようだった。
あの頃エルがいたたまれなかったのは、仲間のうちには薄い褐色の肌をした幼い子供もいたことだ。つまりタタリオン軍のエルフの男と、南大陸の肌の黒い娘とのあいだに生まれた子供たちである。
仲間には、同じような境遇で、すでに大きくなっている少年もいた。
彼はいつも自身を恥じているように見えた。
先生と一緒に旅をしていたときには、タタリオン軍が近づくと、妻を深い森の中に避難させたり、娘の髪を少年のように短く切る男たちにも遭遇した。
エルは騎士や兵士たちを非難した。
すると、溜息をついて先生はこう答えた。
連中は、神々と同じことをしてると開き直っているんじゃよ。我々が崇めるユピテルは何人もの美しい人間の娘を犯したではないか? 少なくとも自分たちは騙してはいない。正々堂々と隠れずに娘たちとやっているとな――。
※ ※ ※
そんな南大陸の過去の記憶が脳裏に蘇ったのは一瞬のことで、いまやエルは自分の未来について絶望していた。
奴らは俺を、力づくで襲うつもりなんだ――。
怯えた小動物のように、エルはまわりを見回した。
すでに新市街は通り過ぎ、街道沿いにはライ麦畑が広がっている。
身を隠すような建物はどこにもない。
だが背の高いライ麦なら、小柄なエルを完全に隠してくれるはずだ。ブッケルムを置いて、エルは畑の中に逃げ込もうかと考えた。
絶対に無理だ。
エルはすぐに考えなおした。
こんなドレスじゃ、すぐに追いつかれるに決まってる。
黄金色のライ麦畑の中じゃ、純白に輝くドレスは間違いなく目立つだろう。
男たちは俺を捕まえ、ドレスを剥ぎ取る。
裸になった俺を見て、ようやく女じゃないと連中は気づく。
取り囲んだ連中は激怒するだろうか、それとも、俺を笑いものにするだろうか。
いや、そうじゃない――。
恐ろしい考えにエルは思い至る。
エルフたちは美しければ、女だろうが男だろうがたいして気にしない。
連中は覆いかぶさり、うつ伏せになった俺の尻にねじ込んでくるだろう。
あの人数じゃ、抵抗できない。
雪のように真っ白なドレスが、俺の血で赤く滲む――。
※ ※ ※
「馬鹿なことを言ってるんじゃない!」
恐怖で頭が真っ白になっているエルの耳に、家臣を叱責する若者の声が聞こえた。
「まずは散開して、女の行く手を塞ぐんだ!」
「アルケタ、女に傷をつけるなよ。生け捕りにして話を聞きたい」
「父上、承知しています!」
馬上のエルは、しわがれた声が呼びかけた名前に驚愕していた。
アルケタだって!?
あの、南大陸の戦いの英雄のアルケタかよ?
じゃあアルケタがいるってことは、こいつらはセウ家の家臣団なのか?
それに、いまアルケタは「父上」て言ってたよな?
つまり、この連中を率いてるのは――、
セウ伯爵のオウグウスなのかよ!!
この名前を思い出し、恐怖に心臓を鷲掴みにされたエルは、ブーツの踵でブッケルムの脇腹を力の限り蹴り上げた。
すると、走っていたブッケルムが急停止し、鋭くいなないた。
前脚を踏ん張ったブッケルムの背中から、砲弾のように飛び出しそうになったエルは、血管が浮かび上がった馬の首に何とかしがみついた。ブッケルムが棹立ちになり、今度は後ろにずり落ちそうになった。
馬は口から白い泡を吹いている。
いきり立った馬を宥めようと、エルは必死に小声で囁きかけた。
ブッケルムが飛び跳ねるたびに、スカートとペティコートがふわりと捲り上がり、ドロワーズに覆われたエルの太腿が露になった。
その頃には、セウ家の家臣団が取り囲んでいた。
街道の真ん中で、野生馬のように暴れるブッケルムを、曲芸のように押さえつけようとしているエルを見ては、笑いながら卑猥な言葉を投げつけている。
しばらくすると、ようやくブッケルムの興奮は収まったが、くたくたになったエルは鞍の上で呆然とした。
すべてが裏目になる。
オウグウスまで現れるなんてどういうことだよ?
セウ家の屋敷から逃げ出したときのように、恐怖でエルの感情は麻痺し、もはや何も考えられなくなっている。立ち止まったブッケルムの背で、エルは白い大理石像のように硬直していた。




