第37話 異変
エルが異変に気づいたのは、しばらく経ってからだった。
最初はエルも用心を怠っていなかった。
北大門を抜けてからも、背後から見られていることを意識し、背筋を伸ばした凛とした姿勢でブッケルムに跨っていた。
まだドレスは脱ぐことはできない。
着替えるのは、もっと旧市街から離れてからだ。
イグマスという都市は、まわりを五百メートルにも満たない低い山並みに挟まれ、北東から南西へ、ファッシノ河に沿って伸びている。
結果的に、旧市街の城壁から溢れだした町並みは、〈陰の街道〉のまわりに南北へ雑然とした新市街を形成していた。
いまブッケルムが歩いているのは北側の新市街で、南側よりも範囲が狭く、いずれ街道沿いの風景は農地に変わり、さらには背骨山脈へと続いてゆくはずだった。
北大門から十分に距離が取れれば、どこかの路地で着替えられるだろう。ただ、上手くブッケルムを誘導しないと、また暴れだしそうだった。好きに歩かせているぶんには機嫌がいいが、これからのことを考えるとエルは頭が痛かった。
だが、それはまだ先のことだ。
いまはセウ家の屋敷を脱出し、北大門も無事に通り抜けられたことを、神々に感謝すべき時間だろう。
そんなことを思いながら、エルは馬の背に揺られている。
エルは隠れ家の壁に貼ってある地図を思い描いた。
領都イグマスを含め、タタリオン家が統治する属州の地理が一目で分かる。〈首なし騎士団〉の隠れ家はイグマスの西方にあるのだが、エルは北大門から出たため、これから背骨山脈をぐるりと迂回して西へ向かうしかない。
もちろん西大門からのルート(今朝エルたちは、この街道を通ってイグマスへやって来た)が最短経路なのだが、そうするための道はイグマスの高い城壁で塞がれているため、旧市街を経由しない限り不可能だった。
エルは青空を見上げた。
だいたい、いまは第九時(午後3時)ぐらいだろう。
隠れ家まで三十キロ。
途中の峠道も考えると、帰りつくのは夜になる。
星明かりだけで細い街道を進むことを考えると、どこかの洞穴で一夜を明かすほうが得策なのかもしれない。
それはそれで、山に潜む魔物を考えると、ぞっとした。
エルはカルハースたちのように、魔物たちの生態を詳しくは知らない。
どこに何がいるのか、遭遇したらどうすればいいのか、そういう知識は学んでいる最中だった。
ゆっくりでも、ブッケルムを夜のあいだ進ませたほうがいいのかな?
馬上から見える風景は、旧市街から離れるに従って、高くて立派な建物から、しだいに低く、みすぼらしい建物になった。避難民たちが暮らす掘っ立て小屋のような家が目立つようになってきている。
新市街が終わる前に、そろそろ着替えなくちゃ。
エルは自分に言い聞かせた。
さすがに、この格好で隠れ家に戻ることはできない。
口の悪いブシェルにからかわれることを考えると、それは絶対だった。
だが、なごり惜しい。
この美しいドレスを脱げば、ただの見習いに戻ってしまう。
新市街の住民たちの感嘆している顔を見るたびに、馬上のエルの心は、甘美な感覚に満たされていたのだった。
イオアンの言葉を思い出す。
南大陸のどこかの伯爵家のお姫様のようだと称賛していた。
いまや心の中では、エルは人間を超えて、自分を女神のようだとすら感じていた。汚れなき知恵の女神であるミネルヴァか、それとも貞節と月の女神であるディアナか? この純白のドレスが似合うとすればどちらだろう?
そんな白昼夢に浸っているときだった。
ブッケルムの右側の耳だけが、くるりと後ろを向いた。
エルは違和感を覚えた。
とくに気になるような物音はしてないはずだけど?
顔を後ろへ向けて目を凝らす。
真っすぐな街道を行き来する旅人や荷車しか見えない。
だが遥か遠くには、白っぽい土埃があがっているような気もする。
それなりの数の馬が近づいてきているのか?
このときのエルは、セウ家の追手だとは考えなかった。
もしそうなら、一頭か二頭ぐらいだろう。
ブッケルムが駄馬であるのを知ってるのに、たくさんの馬を使ってまで追いかけてくるはずがない。
北へ向かう隊商だろうか?
それとも、タタリオン家の騎兵隊が移動しているのか?
だとしたら、ちょっと厄介だ。
追い越されるときに、注意を引かないようにしなくてはならない。
顔を前へ戻したエルが対応を考えていると、ブッケルムの左の耳も後ろを向いた。
やがて、エルの耳にも蹄の音が聞こえてきた。
心臓がぎゅっと縮む。
恐る恐るエルは後ろを振り向いた。
まだ距離はあるが〈陰の街道〉を十数頭もの馬が駆けている。あのスピードではすぐに追いつかれるだろう。
もしや、自分を追いかけてきているのか?
まさか。
この変装は完璧なはずだ。
セウ家の屋敷で気づかれた様子はなかった。
うっすらと恐怖を感じたエルは、咄嗟にブッケルムを駈足で走らせようと手綱を握ったが、思いとどまった。
たぶん、こいつは嫌がるだろう。
暴れたりしたら、余計に目を引くだけだ。
ここは我慢して、彼らをやり過ごしたほうがいい。
しかし、彼らは何者なのか?
エルは目を凝らした。
遠いのではっきりとは見えないが、どんどん距離は縮まっている。
少なくとも商人ではない。
格好はばらばらで、軍団のように規律が取れているようにも見えない。
騎乗者たちは男だけのように見える。
それ以上見ていると不自然に思われそうだったので、エルは前を向いた。
平静を装い、視線を遠くへ向ける。
石畳を叩く蹄の音がだんだん大きくなってくる。
ブッケルムの耳がぴんと立ち、徐々に速度を上げ始めた。
そう、それでいい。
怯えて、あまりスピードを出し過ぎるなよ。
そう呟いているエルのほうが、心臓が喉から飛び出しそうな気がしている。
すでに鹿革の手袋の中は汗だくだった。
早く通り過ぎろ!
ブッケルムの背中の上でそう念じながら、エルは緊張に身を固くしている。
背後からの叫び声が微かに聞こえてきた。
「よお、かわい子ちゃん、馬を止めろ! たっぷり可愛がってやるからよ!」
それは下卑た男の声だった。




