エピローグ・前編 桜の写真と、観客席の春
大学の食堂って、高校の購買とは空気が全然違う。
天井が高くて、窓がでかくて、知らない顔ばっかり。
お昼時のざわめきも、高校のあの「みんな知り合い」感のある騒がしさとは別物で、もっとバラバラで、もっと自由な音がしている。
四月の陽射しが、テーブルの上を斜めに照らしていた。
向かいの席で、サエがカフェオレのカップを両手で包んでいる。
髪が、短くなった。
高校のときはウエストまで届くロングだったのを、肩のあたりで切ったらしい。結ばずにそのまま下ろしていて、ちょっと印象が変わった。
サエのカフェオレは、高二の修学旅行のSAでわたしが選んだあの銘柄と同じ系統の味だ。あのとき「計算外」って言いながら受け取ってたくせに、結局ずっとカフェオレ派のまま。
(変わんないなあ、計算外って言いながらちゃんと飲み続けるとこ)
サエのカフェオレを見ながらそう思って、わたしはアイスティーのストローを咥えた。
制服じゃなくてネイビーのカーディガンを羽織っていると、なんだか少し年上に見える。
切れ長の目元は変わらないけど。高校のときから大人っぽかったのが、私服だと余計に板についてきた。
うちも前髪を切って、ピアスを一つ開けた。こうやって二人で並んでると、あ、うちらも変わったんだなって、ちょっと思う。すみれに「似合ってる」って言われたから、たぶん正解。
「千夏、一限何だった」
「英語。もう眠くて死ぬかと思った」
「語学は朝イチに入れるのが定石。脳が起き切ってない方が、余計なことを考えずに吸収できる」
「入れたくて入れたわけじゃないんだよなあ……」
◇
「千夏ちゃーん、佐伯さーん」
聞き覚えのある声が、食堂の入口のほうから飛んできた。
片手を上げて歩いてくるのは、田中陸くん。
陸くんも、ちょっと変わった。
前より明らかにイケメンに磨きがかかった気がする。今日は襟のあるシャツを着て、髪も少しだけ短くなって、耳が見えている。
でも笑い方は同じ。ニカッと白い歯を見せて、椅子を引く音もバカみたいに豪快。
「もてるんじゃないの〜、陸くん」
「急に?」
「だって変わったじゃん。サエも思わない?」
サエが一秒だけ陸くんを見た。
「……磨きがかかってる、確かに」
「佐伯さんに言われると照れるな……」
「事実を言っただけ」
「陸くん、なんでうちらのとこ来んの。湊んとこ行きなよ」
「あいつ今日は午後から予定あるらしくて」
「予定」
わたしはストローから口を離した。
「それ、どっちの予定? 講義? それともすみれ絡み?」
陸くんが、にやっと笑った。
「デートに決まってんだろ。朝っぱらから俺に『今日どこ連れてけばいいと思う?』って相談のLINE来てたし」
「はーーー。あの湊がデートの行き先で悩むとか、ウケる」
「しかもさ、これ見てくれよ」
陸くんがスマホを取り出して、湊とのトーク画面をこっちに傾けた。
テキストの下に、写真が一枚。
大学の構内らしい場所で、桜の木の下のベンチが写っている。構図がちょっと斜めで、誰かの肩が端っこに切れている。
「一緒に送ってきた。桜井さんに撮ってもらったやつだと思う。湊が自分からこんな構図で撮るわけないし」
「……え、湊が自分から写真送ってくるようになったの?」
「そう。前はそっけない一言ばっかだったのに、最近ちゃんと文章で返信くる。しかも句読点ついてる」
「句読点!」
わたしは思わず声が出た。
「あの湊が句読点。すみれの影響力すごくない?」
「たぶん無意識だと思うけどな。桜井さんとLINEする癖がこっちにも漏れてきてんだろ」
サエがカフェオレのカップを置いた。
「……観測対象が一人から一組になると、変数が増えるね」
「出た、サエの分析モード」
「事実を言っただけ」
「それ、サエ語で『面白い』って意味でしょ。もう知ってるよ」
サエの口元が、ほんの少しだけ動いた。否定はしなかった。
◇
「てかさ、うちら高一からずっと観客席にいたじゃん」
アイスティーの氷をストローでかき混ぜながら、わたしは言った。
「外部相談役だぞ、一応」
陸くんがポテトをつまみながら返す。
「それ、観客席の別名でしょ」
「ひでえ」
「でもさ、推しが付き合った後も、こうやって経過報告で盛り上がれるの、普通に楽しくない?」
「分かる。なんなら付き合う前より情報量多い」
「あの湊が句読点打ってるって、高一のわたしに教えてあげたい」
陸くんが笑った。
ポテトを一本、サエのほうに差し出す。
「佐伯さんもどうぞ」
「……ありがとう、田中くん。一本だけ」
サエが指先でポテトを一本だけ抜き取る。その所作が妙に丁寧で、ちょっと笑いそうになった。
高校のときは、この三人で揃うことってほとんどなかった。
わたしとサエは新聞係で毎日のように顔を合わせていたけど、陸くんは別の学校だったから、会うのは湊経由のイベントのときくらいで。
でも今、こうして同じテーブルでポテトをつまんでいると、不思議と違和感がない。
湊とすみれが真ん中にいるから、うちらも自然とここに集まれるんだと思う。
サエがスマホを取り出して、時間を確認した。
その瞬間、画面がちらっと見えた。
「……サエ、あの写真じゃん」
サエの指が止まった。
ロック画面に映っているのは、四人の集合写真。
高二の十二月、駅前のイルミネーション。光の中でサエが少しだけ困ったような顔をしていて、でも笑っていた。わたしがタイマーをセットして、サエを引っ張って、四人で並んだ。
サエは自分が写真に入るのを嫌がって、「私は撮る側でいい」って言い張ったのを、わたしが腕を掴んで引きずり込んだ。
「……構図として、優秀だっただけ」
「はいはい」
サエがペンケースを鞄から出した。
ファスナーのところに、小さなキーホルダーがぶら下がっている。
眼鏡をかけた鹿。
修学旅行のSAで、わたしが「サエっぽくない? 知的な鹿!」って押し付けたやつ。
三学期が始まった日に、いつのまにかペンケースについてた。本人は気づかれてないつもりだったけど、わたしはすぐ気づいた。
大学生になっても、まだそこにいる。
「鹿も元気そうで何より」
「……うるさい」
サエがペンケースをさっと鞄に戻した。でも、耳の後ろがほんの少し赤い。
少しの沈黙があった。
「陸くんはもてそうだと思ってたけど、サエもそのうち来るんじゃない? 髪切ったし」
思ったままを言った。
サエが半眼でこっちを見た。
「……なんの話」
「事実を言っただけ」
「……」
「あ、今のサエのやつ使った」
サエが小さくため息をついた。でも口元がほんの少しだけ動いた気がした。
サエがカフェオレの最後の一口を飲み干して、紙カップをテーブルに置いた。
「……私も、次に行こうかな」
「うん」
それだけ言った。ちゃんと受け取った。
◇
ぴこん、とスマホが鳴った。
グループLINE。四人のやつ。
すみれからだ。
写真が一枚。
桜並木の下で、二人が並んでいる。満開の枝を背景に、こっちを向いて笑っている。
ぱっと見ただけでも分かるくらい、二人の距離が近い。
写真の下に、すみれのメッセージ。
『桜、きれいだよ〜。みんなもお花見しよ!』
陸くんが、わたしのスマホを覗き込んだ。
「……いい顔してんな」
低い声だった。口元は笑っているのに、ちょっとだけ眉が下がっている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
食堂の窓ガラスが、風の音を立てた。
湊を昔から知ってる奴にしか出せない顔だと思った。
サエも画面を見ていた。何も言わなかったけど、目が少しだけ細くなった。
わたしは写真を拡大した。
——この顔、知ってる。
「みんなの桜井さん」の笑い方じゃない。もっと力が抜けて、すみれ本来の顔。
高一のとき、湊と話してるときにだけ見せてた顔と同じだ。
あのときはまだ、すみれ本人も気づいてなかった。
わたしだけが観客席から見ていた。
三人で食堂を出た。
四月の風が、構内の桜を揺らしている。花びらが風に乗って、コンクリートの通路にぱらぱらと落ちてくる。
サエが少し先を歩いている。背筋がすっと伸びていて、短くなった髪が風に揺れている。
陸くんが隣を歩きながら、スマホをポケットにしまった。
「また来るわ、近いし」
「いつでもおいでよ。ポテト代は自分持ちね」
「当然だろ」
陸くんが手を振って、キャンパスの正門のほうへ歩いていった。
サエも「次の講義、移動する」と言って、別の棟へ向かった。
一人になった。
通路のベンチに座って、さっきの写真をもう一度開いた。
すみれ。
中学からずっと隣にいた。みんなの「桜井さん」をやりながら、帰り道だけ声が落ちるすみれを、わたしは知っていた。
写真の中のすみれは、もう何も隠していない顔をしている。
スマホの画面を閉じて、空を見上げた。
桜が散っている。
風が吹くたびに、花びらが光の中で回って落ちてくる。
スマホを開いて、さっきの写真にスタンプを一つ押した。
桜のスタンプ。言葉はつけなかった。
立ち上がって、鞄を肩にかけ直す。
風が強くなった。花びらが一枚、頬をかすめて飛んでいった。
(——その顔のまま、ずっと笑ってなよ)
声には出さなかった。
わたしは花びらの散る通路を、次の講義に向かって歩き出した。




