エピローグ・後編 モブ志望だった僕の、大学一年の春
四月の風が、桜の花びらを散らしている。
大学のキャンパスは高校よりずっと広くて、知らない顔ばかりで、空が遠い。
建物の間を抜ける風が、コンクリートの匂いと一緒に花の香りを運んでくる。
ベンチに座っている。
桜並木の下の、日当たりのいいところ。朝、一人で来て確保した。陸に写真を送ったら「お前がロケハンするようになるとはな」と返ってきた。うるさい。
隣に、すみれがいる。
白いブラウスにベージュのカーディガン。制服じゃないすみれを見るのは、まだ少しだけ慣れない。でも、風に揺れる髪の先とか、膝の上に置いた手の形とか、見覚えのあるものばかりだ。
三年間、ずっと見てきた。
——もう「観察係」じゃないけど。
「ねえ、次の取材どこ行く? 駅前に新しいカフェできたんだって」
すみれがスマホの画面をこっちに傾けた。カフェの外観写真。レンガ壁に蔦が這っていて、入り口にドライフラワーが飾ってある。
「取材」
「取材。期限は一生って言ったでしょ」
「……言ったね」
「じゃあ取材先の提案は、被取材者の権利として認められるべきだと思います」
口調だけ真面目なのに、目が完全に笑っている。
こういうところは、三年前から変わらない。業務用語で気持ちを包むくせ。
ただ——前は「言い訳」だった包装紙が、今は「遊び」になっている。
「どこでもいいよ」
言いながら、自分でも驚くほど自然に、すみれの左手に触れた。
膝の上に置かれていた指先をそっと掬い上げて、自分の指を絡める。
——あ。
手が動いてから、頭が追いついた。
三年間ずっとブレーキを踏んでいた足が、一ヶ月で急に外れたわけじゃない。外れたんじゃなくて、踏む理由がなくなっただけだ。
なのに、指が勝手に動いた事実に、自分で少し驚いている。
すみれの指が、一瞬ぴくっと跳ねた。
でも、引っ込めなかった。
それどころか——三秒くらいかけて、ゆっくり、僕の指の間に自分の指を滑り込ませてきた。
「すみれの隣なら、どこでも」
「……っ」
すみれの肩が上がった。耳の先から頬にかけて、みるみる赤くなっていく。
繋いだ手の体温が、急に上がったのが分かった。
「——もう。最近甘やかしすぎじゃない? 心臓に悪いんだけど」
「観察期間は終わったからね。当事者としての特権」
「特権って何。いつ発行されたの」
「三月。卒業式の日」
「手続き早すぎない?」
「元観察係なので」
「肩書き残さないで」
口調は怒っているのに、繋いだ手を離そうとしない。
指先にほんの少しだけ力が入って、僕の手を握り返している。
——こういうところだ。
三年間、すみれの言葉と行動のズレを見てきた。
口では「普通でしょ」と言いながら、行動だけが本音を漏らす。氷少なめのジンジャーエールとか。ページの進まない文庫本とか。言い訳のない茶色い紙包みとか。
もう、ズレを読み取る必要はない。
隣にいるから。直接聞ける。
風が吹いた。桜の花びらが二人の間を通り抜けて、すみれの髪に一枚止まった。
僕は空いた手で、その花びらをそっとつまんだ。
すみれの髪に指先が触れる。柔らかい。シャンプーの匂いがかすかにした。
すみれが息を止めたのが分かった。
花びらを指先でくるりと回して、風に放す。
「……取れたよ」
「……ありがとう」
声がかすれていた。目が合ったまま、どちらも動かない。
すみれの目が、春の光を受けて少し金色がかっている。
睫毛が長い。こんな近くで見たのは、いつぶりだろう。
このまま、自然に——と思った。
考えるより先に、体が動いていた。
すみれの額にかかった前髪を、指先で少しだけ横に流した。
すみれの目が大きくなる。睫毛が震えている。
顔を寄せた。
唇が触れた。
柔らかくて、少し冷たくて、すぐに温かくなった。
一秒か二秒。たぶん、それだけ。
離れたとき、すみれの目が閉じたままだった。
三秒くらいして、ゆっくり目を開ける。
焦点が合うまでに、もう一拍かかった。
「……」
「……」
すみれの顔が、今まで見たことがないくらい赤かった。
たぶん僕も同じだと思う。耳の奥が熱い。
「……ずるい」
声が震えていた。
でも、いつもの「何回目だっけ」を待たずに、すみれは自分で続けた。
「……数えないから。今日は」
——先回りされた。
「……今日は?」
「今日は、数えなくていい。何回でもずるくていい」
すみれがまっすぐこっちを見ている。目が潤んでいて、頬が赤くて、それなのに笑っている。
何回でも。
その言葉の重さが、三年分だった。
高一の春、窓際の後ろから二番目の席で、僕は「背景」でいることに満足していた。
『隅っこのこと、教えてよ』——あの一言がなければ、今もあの席にいた。
机の引き出しに入れたままのノート。三年分の観察記録。
もう書き足さなくていい。
桜が散っている。
風が吹くたびに花びらが光の中を舞って、コンクリートの上に降りていく。
すみれが、繋いだ手はそのままで、空いた手でスマホを取り出した。
◇
湊くんの手のひらが、温かい。
左手を繋いだまま、右手でスマホを持っている。画面を開いたけど、何をしようとしたのか一瞬忘れた。指先が湊くんの体温を拾ったまま離さなくて、そっちに意識が全部持っていかれる。
繋いだ指の一本一本に、湊くんの手の形がある。
少しだけ骨ばっていて、指が長くて、爪がきれいに切り揃えてあって。この手がシャッターを切って、ノートを書いて、わたしの髪から花びらを取ってくれた。
だって、この手がずっと欲しかった。
高一の冬、夜の公園で紙袋を渡したとき——指先が紙越しに触れて、心臓が跳ねた。なのに口から出たのは「業務上の正当な報酬です」だった。
高三の一月、マフラーを直す口実で首元に触れたとき。マフラーなんか曲がっていなかった。ただ触りたかっただけだった。それすら認められなかった。
今は、口実がいらない。
わたしは、ずっと、こうしたかった。
口実なんかなくても。取材でも、編集会議でも、観察でもなくて。
ただ「隣にいたいから隣にいる」、それだけの理由で、湊くんの隣に座っていたかった。
さっき、キスされた。
唇が離れたあと、目を開けるのに時間がかかった。開けたら現実に戻ってしまう気がして。でも開けたら——湊くんの耳まで赤くなっていて、ああ、この人もちゃんとドキドキしてるんだ、って。
それが嬉しくて、泣きそうになった。
だから。
「……ねえ」
声が少し震えた。
「うん」
「さっきの。……もう一回、してもいい?」
自分で言って、顔が沸騰した。何を言ってるんだろう。でも止まらない。ブレーキが見つからない。高三の冬にあれだけ必死に踏んでいたブレーキが、もうどこにもない。
安藤くんが——湊くんが、少しだけ目を見開いた。
それから、目尻がほんの少し下がった。
この目を、わたしだけが知っている。教室のすみっこでホワイトボードに何か書いているとき。わたしの原稿を読んで「ここ、いいね」と小さく言うとき。三年分のぜんぶ。
湊くんの手がわたしの頬に触れた。指先がほんのり冷たくて、頬だけが燃えるように熱い。
近づいてくる。
あと五センチくらいのところで、湊くんの息がかかった。
心臓がうるさい。自分の鼓動が相手に聞こえているんじゃないかと思った——って、それ、三月にもまったく同じことを思った。あのときは泣いてた。今は、笑ってる。
目を閉じた。
——好き。
好き。好き。
こんなに簡単な言葉だったのに。
三年もかかった。
取材だの、共犯者だの、編集長手当だの。あんなにたくさんの名前で隠して、ぜんぶ嘘で、ほんとうはずっと——ただ、この人が好きだった。
唇が触れた。さっきよりほんの少し長くて、ほんの少し近かった。
離れたとき、湊くんの目が少し赤かった。
「みな、と、くん」
湊くんの肩が跳ねた。
耳の先が、みるみる赤くなっていく。
「……っ、まだ無理って言ったのに」
声がひっくり返りかけていた。三月に「急にそれは、まだ無理だよ」と言った人と同じ口から出ているとは思えない。
「事故。今のは事故です。取材中の不慮の事故です」
湊くんが口元を押さえた。笑っている。笑っているのに、耳が赤いまま戻らない。
——あ、だめだ。この顔を見ていたら、もう二度と「安藤くん」には戻れない。
「……名前、呼ぶのって慣れないね。お互い」
湊くんが、まだ少し赤い顔のまま言った。
「……だって三年間ずっと安藤くんだったし」
「こっちも三年間ずっと桜井さんだったから」
「じゃあ、ちょっとずつでいいよ。……慌てなくても、時間は一生あるので」
湊くんが、繋いだ手をぎゅっと握り返してきた。
「……その契約条件、すみれのほうが使いこなしてるね」
「取材のプロなので」
笑った。二人で、桜の下で笑った。
一年前のわたしは、この人のことを「名前のない誰か」として書いた。
名前をつけたら壊れると思ったから。
壊れなかった。
名前をつけたら、世界が広くなった。
「写真、撮っていい?」
「……また取材?」
「取材じゃないよ。わたしの、ただの宝物」
スマホを持ち上げて、二人でフレームに収まるように腕を伸ばした。
ちょっと遠くて、腕が斜めに傾いた。画面の端に湊くんの肩が少しだけ切れている。
——ああ、と思った。
画面の中で、湊くんが笑っている。わたしも笑っている。
さっき泣きかけたし、頬は赤いし、髪も風で乱れている。
たぶん、ひどい顔をしている。
でも——いい顔だと思う。
観察者はもういない。
ここにいるのは、ありふれた恋人たちだ。
桜の下で手を繋いで、写真を撮って、ちょっと恥ずかしそうに笑っている。
どこにでもいる、二人。
それが、こんなにうれしい。
——カシャッ。
シャッター音が、春の風に溶けていった。
「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録、完結です。
初めて作った小説でした。
98話、約38万字。書き始めたときは、ここまで続くと思っていませんでした。
最初は「ラブコメ一本書いてみたい」くらいの気持ちで始めて、
湊もすみれも、凛も千夏も陸も、書いているうちに勝手に動き出して、
気がついたら自分が一番「続きが読みたい人」になっていました。
読んでくださった方へ。
更新のたびに増えていくPVやフォロー、応援の通知。
「読んでくれている人がいる」という事実だけで書き続けられました。
一つだけお願いがあります。
もしこの物語を最後まで楽しんでいただけたなら、
★レビューや応援コメントで感想を聞かせてください。
一行でも、一言でも構いません。
「ここが好きだった」でも、「ここはこうしてほしかった」でも。
初めての作品なので、皆さんの声が次に書くものの土台になります。
次回作も学園ラブコメを予定しています。
詳しくは近日中に活動報告でお知らせします。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
もりぞー




