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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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最終話 君の名前を、はじめて呼んだ日

 式が終わった。


 教壇に飾られた花の匂いがまだ残っている。白い百合と、薄いピンクの花。名前は知らない。


 HRが終わって、担任が「元気でな」と短く言って出ていった。

 教室のあちこちでスマホのシャッター音が鳴っている。制服の胸ポケットにコサージュを挿したまま、写真を撮り合うクラスメイトたち。


 僕は窓際の席に座ったまま、鞄に荷物を入れ直していた。

 指先が鞄の底に触れる。折り目のついた紙の感触がある。昨夜読んだ桜井の原稿だ。封筒に戻す気になれなくて、今朝、そのまま鞄に入れた。

 目の奥がぼんやりする。二時間か、三時間か。デスクライトの下で突っ伏して、目を開けたら空が白くなっていた。

 カーテンの隙間から射す三月の光が、やけに白い。


 隣の席で、桜井が鞄のファスナーを閉めるのが見えた。

 動作がゆっくりだった。いつもより遅い。


「じゃあね湊、また連絡するわ!」


 西村が手を振りながら教室を出ていく。佐伯が半歩後ろを歩いている。

 ドアの手前で佐伯が一瞬だけ振り返った。僕と目が合う。

 何も言わなかった。口元がほんの少し動いた——ように見えた。

 そのまま廊下に消えていった。


 教室の人数が減っていく。

 写真を撮り終えたグループが、一つ、また一つと出ていく。笑い声と足音が遠ざかる。


 桜井が、鞄の同じポケットを開けたり閉めたりしていた。

 さっきから三回目だ。整理じゃない。


 最後のグループが「卒業おめでとう」と言いながらドアを出た。


 静かになった。


 教室に、二人だけ残っていた。


 ◇


 心臓が、朝からずっと速い。


 式典の間も、HRの間も。

 膝の上で拳を握ったり開いたりしていた。指先が冷たい。


 桜井が鞄を肩にかけようとした。


 今だ。

 今を逃したら、三年間そうしてきたように、僕はまた名前をつけないまま終わる。


 椅子を引いた。脚が床を擦る音が、静かな教室に大きく響いた。


「——桜井さん」


 桜井が振り向く。


 目が合った。


 昨夜読んだ生原稿の一行目が、頭の中をよぎった。

 『彼はいつも、わたしが欲しい言葉をくれる』


 違う。今、僕が言おうとしているのは、桜井が欲しい言葉じゃない。

 僕が、言いたい言葉だ。


「桜井さん。……ううん」


 口を閉じた。

 息を吸った。肺の底まで、冷たい空気が入ってくる。


「——すみれ」


 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。


 すみれの肩が跳ねた。

 鞄をかけようとしていた手が止まって、そのまま動かなくなった。

 目が大きくなる。唇が半分開いたまま、固まっている。


「……え」


 頬に、じわりと赤みが上がっていくのが見えた。


「エッセイ、読んだ。全部」


 すみれの呼吸が止まった。肩が上がったまま、下りてこない。


「……昨日の原稿も」


 すみれの目が揺れた。睫毛が速く瞬く。


「……読んだの」


「うん。『消しゴムの跡』のところも」


 すみれの瞬きが、止まった。

 目の縁が赤くなっていく。口元が震えているのに、唇をきつく結んで堪えている。


「……全部って、ほんとに全部?」


「全部」


 僕の声も震えていた。

 指先どころか、手の甲まで冷たい。なのに胸の奥だけが、どうしようもなく熱い。


 一月の放課後、僕は「もう少しだけ、待ってほしい」と言った。二月、参考書の上に『待ってる』の付箋が置いてあった。


「……遅くなった」


 すみれが息を飲んだ。


 ちゃんと言おう。

 観察係としてじゃない。ブレーキ係でも、支え役でもない。

 ただ、安藤湊として。


「僕は——」


 声が詰まった。

 喉の奥が固くて、準備してきた言葉が出口で止まっている。


 すみれが、じっと僕を見ている。

 目が赤い。睫毛が濡れかけている。それでも、視線を逸らさない。


 ——格好つけようとするから詰まるんだ。


「すみれが、好きだ」


 出た。


 全然うまく言えなかった。一晩かけて組み立てた言葉の半分も出てこなかった。


 でも、喉の奥の固さが、すとんと抜けた。


「……隣に、いたい。これからも」


 声が掠れていた。

 自分の心臓の音が教室に響いているんじゃないかと思った。


 ◇


 すみれが、動かなかった。


 二秒。三秒。


 目から涙がこぼれた。一つ。それから、もう一つ。


 泣いているのに——笑っていた。


「……ずるい」


 声が震えていた。


「何回目だっけ、それ」


「数えないでよ」


 すみれが手の甲で涙を拭った。拭いても拭いても、新しいのが出てくる。


「わたしも」


 鼻をすすった。


「わたしも、好きです。……ずっと前から」


 声がひっくり返っていた。泣き笑いの顔が、窓から入る光に照らされていた。


 すみれが一歩、近づいた。


「取材、許可します」


 涙声なのに、口調だけがいつもの桜井すみれに戻っていた。


「期限は……一生ね」


 僕は、すみれを抱き寄せた。


 力の加減が分からなかった。たぶん強すぎた。

 すみれの額が鎖骨のあたりにぶつかって、「いたっ」と小さな声が聞こえた。


 でも離れなかった。

 背中に腕が回ってきた。制服の布越しに、指先の力が伝わる。


 ずっと冷たかった指先に、じわりと熱が移ってくる。


 髪から、微かにシャンプーの匂いがした。

 窓から入った三月の風が、カーテンを揺らしている。

 廊下の遠くから、誰かの笑い声が聞こえる。


 すみれが、僕の胸に顔を押し付けたまま言った。


「……心臓、すごい音」


「……勘弁してほしい」


「聞こえるんだから、しょうがないでしょ」


 笑っていた。泣きながら、笑っていた。


 ◇


 どのくらい、そうしていたのか分からない。


 すみれが顔を上げた。

 目の周りが赤くて、鼻の頭も赤い。

 たぶん僕も似たようなものだと思う。


「……帰ろっか」


「うん」


 すみれが鞄を拾い上げた。僕も自分の鞄を肩にかける。


 ドアに向かって歩く。

 三歩目で、すみれの指先が僕の小指に触れた。引っかけるように絡まる。


 振り払わなかった。

 指を開いて、すみれの手を握り返した。小指だけじゃなく、全部。

 すみれの指が、僕の指の間にするりと滑り込んできた。


 手のひらがまだ少し冷たい。でも、さっきまでとは違う冷たさだった。


「……安藤くん」


「うん」


「呼び方、どうしよう。……湊くん、とか?」


「……急にそれは、まだ無理だよ」


「じゃあ慣れるまで安藤くんで」


 すみれが少しだけ笑った。


「……でもさっき名前で呼んだの、ずるくない? 先に呼んだの、そっちじゃん」


「……それ、何回目」


「数えないでって言ってるでしょ」


 ドアを開けた。

 廊下に、傾きかけた午後の光が長く伸びていた。


 二人で、教室を出た。


 ◇


 廊下を歩きながら、窓の外を見た。


 三月の空が、白い。

 朝の白さとは違う、少しだけ色味を帯びた空。雲の隙間から差す光が、校庭の桜の枝を照らしている。まだ蕾だった。


 高一の四月。

 窓際の後ろから二番目。あの席で、僕は「背景」でいることに満足していた。

 主役にも脇役にもなるつもりはなかった。教室の隅から、ただ見ているだけでよかった。


 『隅っこのこと、教えてよ』


 あの一言がなければ、僕はたぶん今もあの席に座っていた。

 背景のまま、名前を呼ばれないまま、卒業証書を受け取って終わっていた。


 偶然だったのかもしれない。

 桜井がたまたま僕に声をかけた。西村がたまたま巻き込んできた。佐伯がたまたま隣にいた。

 陸が「主役になれ」と言い続けてくれなかったら、僕は足を動かせなかった。


 偶然をちゃんと拾えたのは、あの四人がいたからだ。


 隣を歩くすみれの横顔を、視界の端で見た。

 泣いた跡が残っている。少し赤みを帯びた目元が、春の光に柔らかく照らされていた。


 三年間、「観察係」としてずっと見てきた横顔と、同じ顔だ。

 でも今は、観察係でも、ブレーキ係でも、支え役でもない。


 一月、陸に言った。「一番いい席で、彼女の続きが読みたい」と。


 ——一番いい席は、観客席じゃなかった。

 最初から、ここだった。


 繋いだ手のひらから、体温が伝わってくる。

 さっきまで冷たかった指先が、少しずつ温かくなっている。


 三年かかった。

 でも、悪くない三年だった。


 校舎の玄関が見えてくる。

 外には三月の風が吹いている。


「……すみれ」


「……なに」


「なんでもない」


「なんでもなくないでしょ」


「……呼んでみただけ」


 すみれが、繋いだ手をぎゅっと握り返してきた。


 玄関の向こうに、春の光があふれている。


 僕たちは繋いだ手の熱を確かめるように、その光の中へ歩いていった。

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