第95話 桜井の最初の原稿と、三年分の答え合わせ
デスクライトの光が、白い封筒の角を照らしている。
いつからこうしていたのか、分からない。
気がついたら机の前に座っていた。十字路で桜井と別れてから、どのくらい経ったんだろう。
時計を見た。四十分。
四十分間、僕はこの封筒の封に指を沿わせたり、離したりしていた。
桜井が「帰ってから」と言った。
なら、読むのが筋だ。
でもその前に、やることがある。
椅子を引いて、机の引き出しを開けた。
一番奥。教科書やプリントの下。手を差し入れると、指先に折り目のついた紙が当たった。
取り出す。
二つ折りの紙。端が少しだけ黄ばんでいる。
高一の文化祭のシフト調整表だ。
なんで持ち帰ったのか、正直よく覚えていない。
スタッフブックの余りと一緒にクリアファイルに挟んで、そのまま引き出しに入れた。それだけだ。
でも、捨てなかった。
この紙がなければ、僕はたぶん、ずっと背景のままだった。
教室の隅から空気を読むだけの、名前のないモブ。
シフト表を机の横に置いた。
スマホを手に取る。
画面には、桜井から届いたLINEのURLが表示されたままだった。
◇
リンクをタップした。
ブラウザが開く。
白い画面に、シンプルなレイアウト。投稿一覧が並んでいる。
一番上に、アカウント名。
その下に、「主役じゃない人たちの高校生活」というコンセプト文。
知っている。
高一の五月、屋上で聞いた。
あの日、桜井はノートを開いて「読む?」と聞いた。
僕は「やめときます」と答えた。
読んだら変に意識しそうだったから。
それから三年間、一度も開かなかった。
投稿日の一番古いものまでスクロールする。
第1話。
タップした。
◇
最初の一行で、息が止まった。
『窓際の後ろから二番目に、いつも静かに座っている人がいる』
僕の席だ。
『その人は、教室のどこで何が起きているか、
たぶん誰よりも正確に把握している。
なのに、自分からは絶対に動かない。
まるで、自分が風景の一部であることを、
意図的に選んでいるみたいに』
屋上のフェンス越しの風を思い出した。
桜井が【教室の隅の住人たち】というノートを開いて、「安藤くんって、そういうの、よく気づいてるでしょ」と言った。
あれが、全部ここから始まっていたのか。
スマホの画面をスクロールする。指が少しだけ冷たい。
◇
第1話から、順に読んだ。
読み進めるうちに、気づいた。
このエッセイの中に、僕の言葉が混じっている。
六月の学年レクの話。誰も手を挙げなかったホームルーム。
『一人目が手を挙げた瞬間、その沈黙は"拍手の準備運動"に変わる』
——これは僕が出した表現だ。
桜井に「ネタにしていい?」と聞かれて、「まあ、いいけど」と答えた。
梅雨の委員会の話。
『責任を引き受けたくない人たちの輪』——最初は「サークル」だった。
「それだとエグくない?」と僕が言って、桜井が「じゃあ、どうする?」と首をかしげた。
テスト前の教室、テスト後の自販機前。
「キャラ変する教室」も「誰も見てないのにノート綺麗な人特集」も、全部あった。
ネタにしていいかと聞かれて、僕が頷いた場面が、一本ずつ形になっている。
スマホを持ち替えた。右手の親指が、スクロールで少し痺れている。
夏休み。
「夏の夜っぽい景色、見に行かない? ネタになるかもだし」
あのLINEの文面が、そのままエッセイの中で景色になっていた。
河川敷の虫の声。暗い水面に映る街灯。
あれが取材だったのか何だったのか、三年経った今でもよく分からない。
——いや。今なら、少し分かる気がする。
文化祭。
「今日一番」を集めた裏パンフレットがエッセイの一本になっていた。
冬。
「ネタに困ったら、取材に協力してくれない?」
「一人で行くとぼっちだけど、観察係と一緒なら取材になるでしょ?」
あの言い訳を、僕は笑って受け入れた。
クリスマスの放課後の教室の話が、ここに載っている。
全部、覚えている。
桜井が相談してきた言葉。僕が返した言葉。
そのやり取りの破片が、一本一本のエッセイの中に、種みたいに埋まっている。
◇
高二に入ると、文体が変わっていた。
文章の温度が、一定に保たれている。
熱くなりかけたところで、すっと一歩引く。結論を急がない。断定しない。
覚えがある。
五月の昼休み。学級新聞の五月号が配られた日。
桜井が「ブレーキが欲しい」と言った。
「書くと、熱が上がるでしょ。上がった熱のまま書くと、刺さるようなこと書いちゃうかも」
僕は言った。
「感情は標本にしてから見直したほうがいい」
「結論を急がない。観察で止めて、断定しないこと」
桜井は目を瞬かせて、「今の、いいね」と笑った。
「安藤くんの言葉は、私のブレーキにちょうどいいから」
——それが、ここにある。
僕が渡した言葉が、桜井の文章の骨になっている。
三年分のエッセイの、どこを切っても、あの日の「標本」と「断定しない」が根底に流れている。
読みやすかった。すっと入ってきて、最後の一文で少しだけ余韻が残る。
でも——
十二月に読んだ推敲版のエッセイと、同じ印象がした。
行間から何かが抜け落ちている。
熱を一定に保つために、高い部分を削った痕がある。
読みやすい。読みやすいけれど、どこかフィルターがかかっている。
読み終えたとき、スマホの画面の明かりだけが顔を照らしていた。
時計を見た。一時間以上が経っていた。
◇
スマホを机に置いた。
目の前に、白い封筒がある。
桜井が両手で差し出したときの、指先の震えを思い出す。
封筒を握る手がかすかに震えているのに、目だけはまっすぐだった。
「これが、本当に最初に書いた原稿」
封筒の端に指をかけた。
紙が裂ける小さな音が、静かな部屋に響いた。
◇
中身はA4の紙が三枚。
二つ折りの跡がくっきり残っている。何度も開いては折り直したのか、折り目が少し弱くなっていた。
一行目を読んだ。
——空気が、変わった。
『彼はいつも、わたしが欲しい言葉をくれる』
さっきまで読んでいた公開エッセイとは、何もかもが違った。
整理されていない。構成も、配分も、余韻の計算もない。
その代わり、一文字ごとに温度があった。
『彼というフィルターを通すと、退屈な教室が愛おしく見える』
『標本にしろと言われた。断定するなと言われた。
守ってきたつもりだった。
でも、この文章だけは、標本にできなかった』
喉の奥が、きゅっと詰まった。
『テスト前に教える係になっている彼の横顔を、
わたしは教室の端じゃなくて、こっそり隣から見ていた』
『ノートを閉じるとき、いつも左手で角を揃える。
その癖を知っているのは、たぶん教室でわたしだけだ』
……知らなかった。そんなところまで見られていたなんて。
『夏の夜。取材だと言った。ネタになるかもと言った。
嘘だ。ただ、一緒に夜の景色を見たかっただけだった』
指が震えている。
紙を持つ手の、指先。
『体育祭の前の日。あの人のメモの裏に、書いた。
「頼りにしてる」——たったそれだけのことが、書けなかった。
書いたあと怖くなって、消しゴムで何度も擦った』
——あの日の、消し跡。
僕が「読み取ってはいけない」と目を逸らした、あのざらついた余白。
その下に隠されていたのは、そんなまっすぐな言葉だったのか。
『クリスマスの教室で、「取材」と言い張った。
観察係と一緒なら仕事になると言った。
仕事じゃなかった。ずっと、最初から、仕事じゃなかった』
公開エッセイに散らばっていた種の、全部の正体が書いてあった。
隣にいる口実を、一つずつ、丁寧に積み上げていただけだ。
『わたしは、彼に見つけてほしかったんだ』
最後の一行で、手が止まった。
紙を机に置いた。
椅子の背もたれに体を預けて、両手で顔を覆った。
——あの時。
十二月に読んだ推敲版に足りなかったもの。
行間から抜け落ちていたもの。
その正体が、全部ここにあった。
顔を覆ったまま、天井を仰いだ。
……全部、書いてあるじゃないか。
いや、違う。
全部、見えていたじゃないか。僕には。
椅子の位置がずれた日も。
ドリンクを持ってこなかった日も。
袖を摘んだ指先も。
ページがめくられていない文庫本も。
観察係を名乗って、三年間隣にいて、全部見えていたのに——僕は、名前をつけなかった。
つけたら壊れると思った。
つけたら戻れないと思った。
だから「観察係」という名前に隠れた。三年間、ずっと。
◇
しばらく、そのまま動けなかった。
デスクライトの光だけが、机の上を照らし続けている。
時計の秒針が、等間隔に部屋を刻んでいく。
どのくらい経っただろう。
時計を見た。日付が変わっていた。
スマホを手に取った。
連絡先を開いて、陸の名前をタップする。
コール音が三回鳴った。
「——おう」
陸の声。眠そうだ。
「起きてた?」
「寝かけてた。……どした」
「読んだ」
一拍、間が空いた。
「で?」
陸は何を読んだかも聞かなかった。
こんな時間に電話をかけてきた声の色だけで、充分だったんだろう。
「……明日、伝える」
自分の声が、思ったより静かだった。
電話の向こうで、小さく息を吐く音が聞こえた。
「……やっとかよ、このバカ」
陸の声が、少しだけ掠れていた。
「遅いんだよ。三年だぞ、三年」
「……うるさいな」
「湊」
急に、名前で呼ばれた。
「ちゃんと言えよ。お前の口から」
「……ああ」
「寝ろよ。明日、顔ひどいまま行くなよ」
「お前に顔は見えないだろ」
「見えなくても分かるんだよ。お前の声でな」
通話が切れた。
◇
スマホを机に置いた。
部屋が静かだ。
デスクライトの光の中に、三つのものが並んでいる。
高一の文化祭のシフト表。桜井の生原稿。そして、スマホに映ったエッセイの投稿一覧。
三年分だ。
僕と桜井が過ごした時間の、全部の証拠。
明日は卒業式だ。
シフト表の折り目を指でなぞった。
ここから始まった。ここが最初のチケットだった。
カーテンの隙間から、空の色が変わり始めているのが見えた。
……明日。
明日、僕は、ちゃんと名前をつける。




