第94話 合格の報告と、最初の原稿
三月になっていた。
二次試験が終わって、合格発表があって。
スマホの画面に自分の受験番号を見つけた。
試験が終わって、鞄に荷物を詰め直したとき。
参考書の裏表紙に指が触れた。
あの付箋は、まだそこにあった。
——『待ってる』。
待たせた。
でも、同じ場所に、立てた。
◇
卒業式の前日。
放課後の教室は、壁の掲示物が剥がされて画鋲の跡だけが並んでいた。
ロッカーもほとんど空で、教室がいつもより広く見える。
窓際の席で鞄を整理していたら、西村と佐伯がやってきた。
少し遅れて、桜井も。
「で、結果は?」
西村が僕の正面に座って、身を乗り出す。
今朝の発表からずっとそわそわしていたのは気づいていた。
「受かったよ」
「——っしゃ!」
西村が両手を叩いた。乾いた音が教室に響く。
「やるじゃん湊! 受かったじゃん!」
「……教室中に聞こえてるよ」
「いいの! 卒業式前日だよ? 騒いでいい日でしょ!」
佐伯が指先でペンを一回転させた。
「C判定からの合格率を考えると、よくやったほうだね。……妥当」
「サエの『妥当』って、最大級の褒め言葉だよね」
「事実を言ってるだけ」
「はいはい、事実事実」
西村が笑いながら手をひらひら振る。
桜井は西村の隣に座っていた。
口元が少し緩んでいて、肩の力が抜けているのが見えた。
でも——何だろう。視線が一瞬だけ自分の鞄に落ちて、すぐに戻った。
「おめでとう、安藤くん」
「ありがとう」
「同じ大学だね」
「うん。学部は違うけど」
「キャンパスは一緒でしょ?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないよ。調べたもん」
桜井が少しだけ口を尖らせた。
佐伯が小さく息を吐いた。
その音だけで、何か言いたそうなのが伝わった。
「あーもう、このやりとり」
西村が額に手を当てて天井を仰いだ。
「ずっと見てきたけど、ほんと変わんないね、あんたたち」
「何が」
「何がじゃないよ湊」
窓から夕日が差し込んでいる。
壁に残った画鋲の跡が、小さく光っていた。
体育館のほうから、明日の式典のリハーサルらしい音楽がかすかに聞こえる。
西村がふっと表情を変えた。
さっきまでのからかいモードとは違う。
目が、少しだけ真剣になっていた。
「——うち達、先帰るわ」
唐突だった。
佐伯が西村を見た。
西村が佐伯に、小さく頷く。
「すみれ、湊と帰んなよ」
桜井が顔を上げた。
「……千夏」
「大丈夫。うちはサエと寄り道して帰るから」
西村が鞄を肩にかけながら、桜井の目をまっすぐ見た。
いつものノリで言っているようで、声のトーンだけが違っていた。
佐伯が立ち上がった。
桜井の前で足を止めて、目を合わせた。
「……あとは、自分でね」
一言だけだった。
目の奥だけが、いつもより少し柔らかかった。
桜井が唇を引き結んで、小さく頷いた。
西村がドアに手をかけた。
「じゃあね、二人とも」
振り返って、にっと笑った。
「……楽しかった」
佐伯が西村の後ろから、こちらに一瞬だけ視線を向けた。
何も言わなかった。でも、口元だけがほんの少し動いて——そのまま廊下に出ていった。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかっていく。
◇
校門を出ると、三月の風が冷たかった。
隣を歩く桜井は、いつもより少しだけ歩幅が狭い。
鞄を両手で持っている。普段は片方の肩にかけているのに。
「……受かってよかった」
桜井が、前を向いたまま言った。
「うん」
「LINEじゃなくて、直接聞きたかったんだよね。だから今日まで聞かないでいた」
「……知ってたの」
「なんとなく。朝、スマホずっと見てたでしょ」
図星だった。
発表の時間をまたいでも、すぐには結果を見る気になれなくて、ホーム画面を行ったり来たりしていた。
「ばれてたか」
「観察係がばれてるの、珍しいね」
「今日は勘弁してほしい」
桜井が小さく笑った。
いつもの掛け合いのリズムだ。でも、桜井の手が鞄の持ち手を握り直すのが見えた。
駅に向かう坂道を下る。
並木の影が、アスファルトの上に長く伸びていた。
改札を抜けて、各駅停車に乗った。
ドア横に並んで立つ。車内は空いていた。
桜井の指が、鞄の持ち手を何度か握り直していた。
数駅で最寄りに着いた。
改札を出て、住宅街に入る。
三月の夕暮れの中、ケヤキ並木の枝先に小さな芽が膨らみかけていた。
いつもの十字路が近づいてくる。
ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。
二年半、ずっとそうだった。
十字路の手前で、桜井の足が止まった。
「……安藤くん」
「うん」
「卒業式の前に、渡したいものがあるの」
桜井が鞄を開けた。
中から取り出したのは、白い封筒だった。
A4の紙が入るサイズ。表にも裏にも何も書かれていない。
桜井がその封筒を、両手で差し出した。
手が、震えていた。
指先だけじゃない。封筒を持つ手首から、小さく波打つように。
でも、目は逸らさなかった。
「これが、本当に最初に書いた原稿」
声は静かだった。でも、揺れてはいなかった。
「推敲版じゃない。……本物のほう」
本物。
十二月に受け取ったエッセイとは、別の原稿がある。
桜井がずっと持っていた、最初のもの。
「読んでくれなくてもいい。捨ててくれてもいい。でも——」
桜井が一度だけ、唇を噛んだ。
「このまま卒業するのは、いやだから」
僕は封筒を受け取った。
軽い。紙が数枚入っているだけだ。
なのに、指先にかかる重さが、見た目と釣り合わなかった。
桜井が自分のスマホを取り出した。
画面を操作して——僕のスマホに、通知が来た。
LINEだった。
URLが一つ。
「もうひとつ」
桜井がスマホを鞄にしまった。
「これも、読んでほしい」
URLを開いた。
エッセイの投稿ページだった。
桜井がWebに載せている、あのエッセイ——高一の屋上で「読む?」と聞かれて、「やめときます」と答えたもの。
読んだら変に意識しそうだったから。
それから三年間、ずっと読まないでいた。
「読まないでいてくれたの、知ってる」
桜井の声が、ほんの少しだけ掠れた。
「……ずっと、守ってくれてた」
心臓が、一つ大きく跳ねた。
「でも、もう読んでほしい。全部」
桜井が僕を見ていた。
三月の夕日が、斜めから桜井の横顔を照らしている。
睫毛の影が頬に落ちていて、でもその奥の目だけが、まっすぐにこちらを向いていた。
「……今は読まないで」
桜井が視線を落とした。
「帰ってから」
桜井が鞄を肩にかけ直した。
いつもより丁寧な動作だった。
「明日、卒業式だね」
「……うん」
「じゃあ、また明日」
桜井が、左の道を歩いていく。
振り返らなかった。
背中がまっすぐだった。
小さく見えたのは、坂道のせいだと思った。
十字路に立ったまま、僕はその背中を見ていた。
左手に封筒。右手にスマホ。
どちらも軽い。なのに、心臓だけがうるさくて、足が動かなかった。
◇
気がついたら、家にいた。
十字路で別れてから、どうやって家に着いたのか、覚えていない。
自室の机に座っている。
デスクライトを点けた覚えもないのに、白い光が手元を照らしていた。
鞄から封筒を出す。
スマホを横に置く。画面には、まだ桜井のLINEが表示されている。
封筒の表面を、指先でなぞった。
紙の手触りが、妙にはっきりと伝わってくる。
十二月に受け取った推敲版のエッセイを読んだとき、行間に何かが足りないと感じた。
この封筒と、何か関係があるんだろうか。
時計の秒針が、壁の向こうで小さく鳴っている。
明日は卒業式だ。
——僕も、明日。
封筒の封に、指先を沿わせた。
まだ、開けない。
デスクライトの光が、白い封筒の角を照らしている。
白い紙の上に、指先の影だけが動いていた。




