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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第93話 二月の図書室と、言い訳のないチョコ

 二月に入って、学校の空気が変わった。


 共通テスト前の張り詰めた静けさは薄れて、代わりに、それぞれの緊張が漂い始めていた。

 出願を済ませた人、二次に向けて追い込みをかける人。

 同じ教室にいても、見ている場所がみんな違う。


 そして——桜井の推薦は、最終合格が出ていた。


 二月の第一週。

 朝のホームルームが終わった直後、桜井が西村と佐伯のところに行って、何かを伝えた。


 西村の声が教室中に響いた。


「受かったの!? すみれ!」


「……だから声。前もそうだったでしょ」


「前も今も関係ないの! うちのエースが受かったんだから!」


 西村が桜井の肩をばしばし叩いている。

 桜井は苦笑しながらも、隠しきれない笑みが口元に浮かんでいた。


「共テのスコアも加味されての最終合格。一次通過率と書類の完成度から見て、妥当だと思う」


 佐伯がシャーペンをくるりと回しながら言った。

 一拍、間があった。


「……おめでとう」


「サエ! 今の録音したい!」


「……しないで」


 佐伯は無表情を維持していたけれど、参考書を閉じて桜井の方を向いていた。

 佐伯がわざわざ手を止めるのは、それだけで十分な肯定だ。


 西村がようやく桜井から離れた。


 桜井が乱れた髪を直しながら、息をひとつ吐く。

 頬がほんのり上気していて、照れくささと嬉しさが混ざったような顔をしていた。


 僕は自分の席から、その光景を見ていた。


 立ち上がって、桜井のそばに行く。


「桜井さん、おめでとう」


 今度は、ちゃんと言えた。声も、目も。

 一月に言い直したあの「おめでとう」の、続きのつもりだった。


 桜井がこちらを見た。

 一瞬だけ、表情が揺れたように見えた。

 それは嬉しさなのか、別の何かなのか、判別がつく前に、いつもの笑顔に戻った。


「ありがとう。……安藤くんも、あと少しだね」


「うん。あと少し」


 一月の終わりに、僕は桜井に言った。

 同じ大学に出願したこと。学部は違うけど、夏からずっと決めていたこと。

 桜井は「待ってほしい」と返した。

 あれから二週間。あの言葉の続きを、僕たちはまだ交わしていない。


 西村が僕と桜井の間に顔を突っ込んできた。


「ちょっと湊、合格祝い何がいいか言ってみ?」


「……僕に聞くの?」


「だって一番近くで見てたでしょ、すみれの受験」


 桜井が西村の腕を引っ張った。


「千夏、それと合格祝いは関係ないでしょ」


「関係大アリだよ。ねえサエ」


「……巻き込まないで」


 佐伯が目をそらした。

 でも口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。


 西村も、佐伯も、まだ受験を控えている。僕も。

 それぞれの「あと少し」が、あちこちで静かに進んでいる。


 ◇


 二月十四日。


 放課後の図書室は、人口密度が減っていた。

 本番直前になって、家での自習に切り替える人間が増えたらしい。


 窓際のテーブルを確保して、参考書を広げる。

 二次試験まで、あと二十日を切った。


 英語の長文読解。数学の過去問。

 時間配分を考えながら、一問ずつ潰していく。


 シャーペンの芯を入れ替えた回数で、今日の進捗が測れるようになってきた。

 三本目に差しかかったところで、ふと顔を上げる。


 ひとつ隣のテーブルに、桜井がいた。


 推薦の合格が出てからも、桜井は放課後の図書室に来ている。

 手元には文庫本が一冊。

 本人は「監視」だと言っていた。


「隣だと安藤くんが集中できないかもしれないから、こっちにいるね」


 僕のテーブルではなく、わざわざひとつ隣。

 見える距離だけど、隣ではない。

 桜井なりの線引きなのだと思った。


 僕は「助かる」とだけ返して、それ以上は何も言わなかった。


 図書室のヒーターが低く唸っている。

 他のテーブルにも受験生がぽつぽつといて、鉛筆の走る音と、ページをめくる音だけが重なっている。


 数学の大問に集中していた。

 場合分けの条件を整理して、二行目の計算に入ったところで、手が止まった。

 符号が合わない。もう一度最初から。


 少し頭を冷やそう、と思って席を立った。


「……自販機行ってくる」


 桜井が文庫本から顔を上げた。


「うん。あったかいの買ってきなよ」


「そうだね。そうするよ」


 一階の自販機コーナーまで降りて、缶のホットココアを買った。

 立ったまま飲んで、空き缶を捨てて図書室に戻る。


 席に着こうとして——気づいた。


 参考書の上に、何か置いてある。


 小さな包み。

 茶色い紙に包まれた、手のひらに収まるくらいの大きさ。

 その上に、正方形の付箋が一枚。


 付箋には、見慣れた筆跡で、一言だけ。


 ——『待ってる』


 息が詰まった。


 去年の「編集長手当」のときは、ちゃんとラベルがあった。

 一年前の「正当な報酬」から引き継いだ、きれいな言い訳。


 今年は、何もない。


 手当でも、報酬でも、補給でもない。

 ただ、『待ってる』。


 一月の放課後に、僕は言った。

 「もう少しだけ、待ってほしい」と。


 桜井は「うん」と返した。


 その「うん」の続きが——この付箋だった。


 顔を上げる。


 桜井はひとつ隣のテーブルで、文庫本を開いていた。

 本の上端から、目だけがちらりとこちらを窺って——ぱっと視線が落ちた。


 文庫本が少し持ち上がって、顔の下半分を隠す。


 耳が赤い。


 図書室のヒーターのせい、ではないと思う。


 包みを開けた。

 中にはチョコレートが一枚。

 シンプルな、見覚えのあるメーカーの。飾り気のない、でもちゃんと選ばれたもの。


 去年の紺色の箱とは違う。

 でも——だからこそ、ごまかしようがなかった。


 ふと、目を上げた。

 桜井の持つ文庫本のページが、さっき席を立った時から全く進んでいないことに気づいた。


 ……集中できていないのかもしれない。

 まあ、僕もだけど。


 視線を参考書に戻そうとして——もう一度、桜井のほうを見てしまった。


 桜井は文庫本の向こうで、まだ耳が赤いまま、ページを捲る気配がない。


 チョコをひとかけ割って、口に入れた。


 甘い。

 冬の図書室の乾いた空気の中で、舌の上にゆっくり溶けていく。


 付箋をそっと剥がして、参考書の表紙の裏に貼り直した。

 ここなら開くたびに目に入る。


 残りのチョコを紙に包み直して、ペンケースの横に置いた。


 ……行ってきます。


 声には出さなかった。

 誰に言ったのかも、自分ではよく分からない。


 シャーペンを持ち直す。

 さっき間違えた符号の箇所を見つけて、修正する。

 次の行へ。


 図書室に、ペンが紙を走る音だけが戻った。

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