表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/98

第92話 同じ志望校と、待ってほしい約束

 共通テストが終わった。


 二日間の試験を終えて、今日は自己採点日。

 授業はない。各自マークシートの写しと解答速報を照らし合わせて、担任に結果を報告する。

 教室には半分くらいの生徒しかいなかった。


 僕は昼前に採点を終えた。

 崩れなかった。大勝ちもしていない。でも、足掻ける土俵には立てた。

 担任に結果を見せて、教室を出る。


 このまま帰るつもりだった。


 ——のに、足が図書室のほうへ向いていた。


 朝の教室で桜井を見かけなかった。

 採点を終えた机の周りにもいなかった。

 だから——確認だ。ただの確認。


 図書室のドアを引くと、暖房の温もりと紙の匂いが混ざって届いた。


 窓際の席に、桜井がいた。一人だった。


 参考書が開いてあって、その横にマークシートの写しが伏せて置かれている。

 伏せてある。表を向けていない。


 僕は桜井の隣の椅子を引いた。


 音で気づいたらしい。桜井がこちらに目を向けた。

 開いたままの参考書のページが、さっきからめくられた気配がない。

 同じページを、ずっと見ていたんだと思う。


「……安藤くん」


「採点、終わった?」


「うん。さっき担任に見せてきた」


「そっか」


 桜井は口元だけで笑おうとしていた。でも、目が追いついていない。

 いつもの桜井とは、順番が逆だった。


 テキストの端を指先でなぞり続けている。読んでいるんじゃない。手が落ち着かないんだと思う。


 しばらく、沈黙が続いた。

 暖房の送風音だけが、妙に近い。


「……安藤くん」


 桜井が、テキストから目を上げないまま言った。


「充電切れそう」


 声にいつもの張りがなかった。


 「大丈夫?」なんて曖昧な言葉は、今の桜井には届かない気がした。

 慰める言葉は持っていないけれど、渡せるものはある。


 僕は黙って鞄のファスナーを開けた。


 中から取り出したのは、小さなプラスチック容器。

 白い蓋に水色のロゴ。ラムネだ。


 桜井の手元に、コトッと置く。


「……ラムネブースト。燃料」


 桜井の指が止まった。


 テキストの上に置かれたラムネを、数秒、見つめている。

 容器を手に取って、ラベルを確認するようにゆっくり回した。


「……これ、二年の時のと同じやつじゃない?」


「……まあ」


「まあ、って。どこで買ったの」


「共テの一日目の帰り。会場の近くのドラッグストアに寄った」


「一日目の帰りって……まだ二日目あったのに?」


「脳に糖分は必要だから」


「自分用じゃないでしょ、これ」


 図星だった。ラムネは自分では買わない。チョコ派だから。

 でもそれを認めると負けな気がして、僕は参考書のほうに目を逸らした。


「……別に。ついでだよ」


「ついでに私の好きな銘柄を覚えてて、わざわざ探したの?」


「……覚えてたっていうか、見たら思い出しただけで」


「それを『覚えてた』って言うんだよ」


 桜井がラムネの蓋をぱちんと開けた。

 一粒つまんで、口に入れる。噛む音が小さく聞こえた。


 もう一粒。さっきよりほんの少しだけ、顎の力が抜けている。


「……おいしい」


 その声は、図書室でなくても聞き逃しそうなくらい小さかった。


「……覚えてくれてたんだ」


 桜井がラムネの容器を両手で包み込むように握る。


 何度か蓋の縁を指でなぞってから、机の上で僕のほうへ容器を少しだけ滑らせた。

 これ以上はいい、という遠慮だと分かって、僕はそれを手で受け止める。

 そのとき、まだ容器の側面に添えられていた桜井の指と、僕の指が重なった。


 冷たかった。

 図書室は暖房が効いているのに、指先だけが痛いくらいに冷え切っている。


 どちらも、すぐには引かなかった。

 二秒。三秒。

 重なった部分から、微かな震えが伝わってくるような気がした。


 桜井の睫毛が一度深く伏せられて——先に手を離したのは、桜井のほうだった。


「……ありがと」


 ラムネの容器を自分の手元に引き寄せ直して、両手で大切に包み込むように目を伏せた。

 頬が少しだけ赤い。暖房のせいだと思うことにした。


 ——桜井の指先が冷たかった。

 それだけのことなのに、手のひらに、まだ残っている。


 ◇


 一月の最終週。


 自己採点から数日が経って、学校は出願準備の空気に変わっていた。

 廊下のあちこちで「どこ出す?」「判定何だった?」という声が聞こえる。


 僕の自己採点は、本命校のボーダー付近だった。

 安全圏じゃない。でも、射程には入っている。

 古文が思った以上にできた。半年間、桜井のためにノートを作り続けた効果だった。


 担任との面談で「本命で出します」と伝えた。

 担任は少し眉を上げたけれど、止めはしなかった。


 ——放課後。


 教室には、僕と桜井だけが残っていた。


 桜井は推薦の二次選考に向けた準備を再開したらしく、手帳にスケジュールを書き込んでいる。

 数日前の図書室と比べて、声のトーンも表情も、少しずつ戻りつつあった。


 窓の外に、夕焼けが差している。


「桜井さん」


 気づいたら、声が出ていた。


 桜井がペンを止めて、こちらを見る。


「出願、今日出してきた」


「うん。……どこに出したの?」


 ここだ。

 言うなら、今しかない。


「……桜井さんと同じ大学。学部は違うけど」


 桜井の手が、手帳の上で止まった。


 数秒、何も言わなかった。

 ペンを持ったまま、僕の顔をじっと見ている。


「……同じ、大学」


「うん」


「学部は」


「文学部じゃなくて、社会学部のほう」


「……いつから」


「夏くらいから、ずっと」


 桜井がゆっくりと目を伏せた。

 手帳のページに視線を落としたまま、ペンのキャップを何度かカチカチと押している。


「……なんで、言わなかったの」


 言えるタイミングがなかった。それは言い訳だ。

 本当は、決めるのが怖かっただけだ。


「……ぎりぎりだったんでしょ」


 責めるような声じゃなかった。最初から全部、分かっているような声だった。


「……うん。でも、出せた」


 桜井がペンを置いた。


「もう少しだけ、待ってほしい」


 声が、思ったより小さかった。


 桜井が顔を上げた。


「二次が終わるまで。結果が出るまで。……それまでは、まだ何も言えないけど」


 何を待ってほしいのか、具体的には言っていない。

 言えなかった。

 ただ——このまま曖昧にしておくことだけは、もう違う気がした。


 桜井が僕を見ていた。

 まっすぐに。逸らさずに。


「……うん」


 短かった。

 でも、確かだった。


 桜井が椅子から立ち上がった。


 一歩、僕のほうに近づいた。


 ——そして、止まった。


 半歩の距離が残ったまま、動かない。

 桜井の視線が、一瞬だけ自分の足元に落ちた。

 ——それから、ゆっくり鞄を肩にかけ直す。


「……二月になったら、また忙しくなるね」


「うん」


「風邪、引かないでよ」


「桜井さんも」


 桜井が教室のドアに手をかけた。

 振り返らなかった。

 でも、ドアの前で一拍だけ足が止まって、そのまま廊下に出ていった。


 手を伸ばせば届く距離だった。

 伸ばさなかった。


 教室に残された僕は、机の上の出願書類に目を落とす。

 志望大学の欄。桜井と同じ大学の名前。


 同じ場所に、行く。

 土俵には立てた。でも、まだ立っただけだ。


 左の手のひらを、無意識に握りしめていた。


 窓の外で、夕焼けが薄くなり始めていた。

 二月が来る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ