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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第91話 推薦一次通過の報告と、マフラーを直す口実

 共通テストまで、あと五日。


 放課後の教室は、ここ数日でさらに人が減った。

 席に残っているのは、自習する数人と、帰り支度を急ぐ数人だけ。

 廊下を歩く足音も少なくて、校舎全体がどこか息を詰めている。


 僕は席で赤本の英語を解いていた。

 ノートを渡した翌日から、自分の勉強に集中すると決めた。

 半年分のノートに費やした時間を嘆くつもりはない。

 ただ、残った時間でできることを、一つずつ片付けていくだけだ。


 隣の席では桜井が英語の長文にペンを走らせていた。


 佐伯と西村は自分の席からこちらに椅子を寄せてきている。

 放課後の自習は、いつの間にかこの窓際の最後列が定位置になっていた。


「あ、そうだ」


 桜井がペンを置いて、椅子ごとこちら側を向いた。

 三人の顔を順番に見る。


「報告があって。昨日、推薦の一次の結果が出たの」


 西村のシャーペンが止まった。


「——通った」


 一拍。


「通ったの!?」


 西村が椅子を蹴って立ち上がった。


「ちょ、千夏、声——」


「通ったんでしょ!? すみれ!」


「通った、通ったから、声——」


 西村は聞いていなかった。

 桜井の肩に両手で飛びついて、そのまま揺さぶる。


「やったー! さっすがうちのエース! いっつも言ってたでしょ、すみれは大丈夫だって!」


「千夏、首がもげる~」


「もげない! もげないから!」


 桜井が苦笑しながら西村の腕をぽんぽんと叩いている。

 教室の空気が一瞬だけ明るくなった。

 共通テスト前の静けさに、西村の声だけが穴を空けている。


 佐伯が参考書から顔を上げた。


「一次通過率と、すみれの書類の完成度から見て、妥当だと思う。あとは共テで大きなミスがなければ問題ない」


「サエ、それ褒めてるの?」


「事実を言ってる。……褒めてるのと同じかもしれないけど」


 佐伯の声はいつも通り平坦だった。

 でも、参考書を閉じて桜井の方を向いた。

 佐伯がわざわざ手を止めるのは、それだけで十分な肯定だ。


 西村がようやく桜井から離れた。


 桜井が乱れた髪を直しながら、息をひとつ吐く。

 頬がほんのり上気していて、照れくささと嬉しさが混ざったような顔をしていた。


 西村たちのあたたかい反応に当てられたのか——その桜井の体が、ほんの少しだけ僕の方に傾いた。


 椅子に座ったまま、両手がわずかに持ち上がって、こちらに手を伸ばしかける。

 合格を知った瞬間の喜びというより、一番伝えたかった相手へその熱をそのまま共有しようとするような——そんな無意識の動き。

 でも、それは途中でブレーキをかけたように、ぴたりと止まった。


 桜井自身、一瞬遅れて自分の姿勢に気づいたらしい。

 行き場をなくした両手がそっと膝の上に下ろされ、肩が引かれて元の姿勢に戻る。


「安藤くんも聞いた? 一次」


 何事もなかったように、声のトーンが切り替わっていた。


「うん。おめでとう。よかった」


 自分でも、ちゃんと言えたと思った。


 桜井が「ありがとう」と笑った。


 その笑顔を見ながら、胸の奥で何かが引っかかっている感触があった。

 おめでとうという言葉も、嬉しい気持ちも、決して嘘じゃない。

 なのに——なぜか、すとんと落ちてこない。


 何が足りないのか、いまの僕には分からなかった。


 西村と佐伯が、一瞬だけ視線を交わしたのが見えた。

 何の確認だったのかは、分からない。

 聞かないほうがいいような気がした。


 ◇


 帰り支度をして、四人で昇降口を出た。


 校門を抜けて、駅に向かう道。

 西村と桜井が並んで少し前を歩いていた。

 西村がまだ興奮冷めやらない様子で、桜井の腕に絡みついている。


「ねー、すみれ。共テ終わったらお祝いしよ。ファミレス。うちが奢る」


「千夏、共テの前にそういうこと言わないで。プレッシャー」


「えー、ご褒美があったほうが頑張れるでしょ」


「千夏のご褒美ってだいたいドリンクバーじゃん」


「ドリンクバーの何が悪いの!」


 二人の声が、冬の空気の中で弾んでいる。


 僕は半歩後ろを歩いていた。

 隣に、佐伯がいた。


 西村の笑い声がひときわ大きく響いたとき、佐伯が小さく口を開いた。


「湊」


「……ん?」


「さっきの『おめでとう』」


 静かな声だった。前の二人には届かない音量だ。


「声だけだったよ」


 足が、一瞬止まりかけた。


「目が笑ってなかった。……自分では気づいてない?」


 図星を突かれたように、一瞬言葉に詰まった。

 それでも、自分の中にある確かな感情だけを必死にすくい上げる。


「……嘘じゃないよ。本当に、嬉しいって思ってる」


「……そう」


 佐伯はそれ以上追わなかった。


 いつもの交差点に差しかかった。

 ここで、佐伯とは別々の道になる。


「じゃあ、また明日。……三人とも、体調だけは気をつけて」


 佐伯が足を止めて、反対方向に向き直った。

 西村が振り返る。


「サエ、バイバーイ! ちゃんとご飯食べなよー!」


「……千夏こそ」


 短く返して、佐伯は歩き出した。

 冬の夕方の光が、遠ざかっていく背中を淡く照らしている。


 声だけだった。


 佐伯にそう言われるまで、気づかないふりをしていた。


 桜井が一次を通過したことは、心から嬉しい。

 それは嘘じゃない。


 でも、彼女のゴールが近づくほど——気がついてしまう。

 自分がそこにいない可能性が、少しずつ輪郭を持ち始めていることに。


 同じ場所に行きたいと言ったのは僕だ。

 なのに、追いついていないのも僕だ。


 その全部をごまかしたまま、無理に「おめでとう」と笑おうとした。

 言えたつもりになっていただけだった。


 ◇


 駅に着いて、改札を抜けた。


「じゃ、うちこっちのホームだから! すみれ、湊、共テ頑張ってね!」


 西村がICカードをひらひらさせながら、反対側のホームへ続く階段に向かった。


「ありがとう。千夏も気をつけて帰ってね」


「はーい! 二人とも、絶対に風邪引かないようにねー!」


 ひらひらと手を振って、西村は階段を駆け上がっていった。


 桜井と二人、各駅停車のホームに並んだ。


 電車が来るまで数分。

 ベンチには座らず、ホームの端に立っていた。


 線路の向こうで、夕焼けが薄く残っている。

 ホームの屋根がその半分を切り取っていた。


「桜井さん」


「ん?」


「おめでとう」


 桜井の手が、鞄の紐の上で止まった。


「……それ、さっきも聞いたよ?」


「……さっきのは、ちゃんと言えてなかった気がして」


 自分の声が、思ったより静かだった。

 駅のアナウンスがホームに響いて、その音に半分溶けた。


 桜井がこちらを見た。


 目が合う。


 数秒、何も言わなかった。

 それから、桜井の目尻がほんの少しだけ下がった。

 教室で西村に揺さぶられていたときの笑顔とは違う、もっと小さな表情の変化だった。


「……安藤くんのそういうところ、ずるいんだよ」


「……今日ので何回目だっけ」


「……数えないでよ」


 声が、怒っていなかった。

 むしろ少しだけ笑っている。


 電車が滑り込んできて、ドアが開いた。

 いつものドア横に並んで立つ。

 車内は空いていたけれど、座らなかった。


 ◇


 最寄り駅で降りて、住宅街に入る。


 ケヤキ並木は相変わらず枝だけで、街灯の光が遮られずに歩道に落ちていた。


 桜井が半歩前を歩いている。

 マフラーに鼻先まで埋まっていて、吐く息が白い。


「共テの勉強、進んでる?」


「……ぼちぼち」


「古文は?」


「……うん。あのノートのおかげで、だいぶ整理できたよ。すごく分かりやすくて、助かってる」


「よかった」


「当日も持っていくから。……約束したでしょ」


「うん。そのつもりで作ったから」


 桜井が小さく頷いた。マフラーの中で、口元が動いたのが分かった。


 十字路が近づいてくる。

 ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。


 いつもの分岐点の手前で、桜井の足が止まった。


 振り返って、僕の正面に回る。


「安藤くん、ちょっと動かないで」


「え?」


 桜井の両手が伸びてきて、僕の首元に触れた。


 マフラーの重なりに指を立ち入らせて、緩んだ生地をきゅっと引き直す。


「……巻き方、雑。風邪引くよ」


 距離が近い。

 マフラーを直しながら、桜井の視線は僕の首元に落ちている。

 白い吐息が交じりそうな近さだ。伏せられた長い睫毛がかすかに震えているのが見えた。

 指先が、マフラーの生地越しに鎖骨のあたりをかすめる。


 一月の空気は冷たいのに、触れられた場所だけ熱を持ったように温度が違う。


 直し終えたらしい。

 桜井の手が止まった。でも、すぐには離れなかった。

 マフラーの端を指先で摘んだまま、不意に、伏せられていた視線が上がる。


 至近距離で、目が合った。

 マフラーに半分埋もれた頬から耳元にかけてが、街灯の灯りでも分かるくらい赤く染まっている。

 自分でやったことの近さに今更気づいたのか、いつもの涼しげな瞳が少しだけ揺らいでいた。


 お互いに動けないまま——数秒分の、長い一拍。


「……うん。これでいい」


 熱から逃れるように、ふいっと手が離れた。


 桜井が一歩後ろに下がる。


「共テまで、風邪引かないでよ。……編集長命令」


「……新聞係、もうないけど」


「……肩書きだけ、残してるの。……もう少しだけ、心配させて?」


 桜井がマフラーに顔を埋めた。目元だけが出ている。

 街灯の光が、その横顔を白く照らしていた。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 桜井が左の道に折れた。


 今日も、振り返らなかった。

 歩幅はゆっくりで、鞄の紐を両手で握っている。


 角を曲がって、見えなくなる。


 ◇


 まっすぐの道を、一人で歩く。


 マフラーは、曲がっていなかった。

 教室を出る前、ちゃんと自分で巻き直したから。

 桜井もたぶん、薄々それに気付いていたと思う。


 口実を作って手を伸ばした桜井と、それに気付きながら黙って受け入れた僕。

 言葉にする代わりに、ほんの少しだけ触れる距離にいたかったのだと思う。


 佐伯の言葉が、頭の片隅で反復する。

 ——声だけだったよ。


 駅のホームで言い直した、二回目の「おめでとう」。

 あの時は、声だけじゃなく、目もちゃんと笑えていただろうか。

 彼女が今、僕に向けてくれたこの熱に見合うだけの、まっすぐな顔ができていただろうか。


 自分の顔は見えないから、本当のところは分からない。


 冷たい空気の中で、ポケットに入れた手を強く握り込んだ。

 鎖骨のあたりには、桜井の指先がかすめた時の熱が、まだはっきりと残っている。


 五日後に共通テストがある。

 桜井は一次を通過した。あとは共テで崩れなければいい。

 僕は、共テの先に二次試験が待っている。

 同じ場所に行きたいと言った。足掻くと決めた。

 だったら、今やるべきことは一つしかない。


 家に帰ったら赤本を開く。

 ノートに使った時間は取り戻せない。

 でも、これからの五日間は、全部自分のために使える。


 足を速めた。


 マフラーの内側に、かすかに桜井の指先の温度が残っていた。

 ——それだけのことだ、と思おうとして、思いきれなかった。

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