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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第90話 安藤くんから誘うの、明日雪降るかも

 一月の教室は、放課後になると急に静かになる。


 共通テストまで、あと十日を切った。

 予備校に向かう組、家に帰って追い込む組。

 みんなそれぞれの場所に散っていく時期だ。


 桜井が帰り支度をしている。

 西村が「すみれー、早くしないと電車来ちゃうよ」と急かしていた。


「湊ー、帰んないの?」


 西村がこちらにも声をかけてきた。


「もうちょっとだけ」


「根詰めすぎないでよー。共テ前に倒れたら元も子もないからね」


 ひらひらと手を振って、桜井と一緒に廊下に出ていく。


 いつも通りだった。特別なことは何もない。

 ただ、冬休み明けからこういう声のかけ方が少しだけ増えた気がする。

 廊下ですれ違うときに「ちゃんと寝てる?」と聞かれたり、LINEで用事があるようなないような連絡が来たり。


 西村なりの、いつも通り。


 佐伯は放課後に担任に呼ばれて職員室に向かっている。

 進路関連の書類確認だったはずだ。


 教室には、僕だけが残っていた。


 机の上に広げているのは、一冊のノートだ。


 赤本は脇に閉じてある。

 開いているのは古文の参考書と、夏から書き溜めてきたそのノート。

 B5の方眼ノート。百二十ページ。

 ほぼ埋まっていて、残りはあと数ページだった。


 古文の頻出単語を意味グループごとに図解でまとめる。

 助動詞の接続を表にして色分けする。

 重要構文はフローチャートにして、一目で全体像が掴めるように。

 参考書を一冊丸ごと、図解に圧縮する。

 ここまで、半年かかった。


 きっかけは七月の雨の日だった。

 桜井の鞄のファスナーの隙間から見えた古文テキスト。

 付箋がびっしり貼られていて、厚みが倍くらいになっていた。

 英語も小論文も強いのに、古文だけあの量。

 得意科目のそれじゃなかった。


 あの日、雨の中を走って帰りながら思った。

 僕にできることは、まだある。


 桜井は視覚優位だ。

 二年近く隣で原稿を見てきたから分かる。

 文字の羅列より図や表のほうが頭に残る。

 だったら——試験当日、会場の休憩時間にぱっと開いて全範囲を見返せるノートがあれば。

 分厚い参考書の代わりに、これ一冊で。


 模試の判定がBからCに落ちたとき、このノートに使った時間のことは頭をよぎった。

 でも、やめようとは思わなかった。

 自分の古文の復習にもなっていたし——いや、半分は言い訳だ。


 陸の前で「足掻くよ」と言った日から、ペンを握る手に前より力が入るようになった。

 やるべきことが増えたんじゃない。

 やりたいことが、はっきりしただけだ。


 蛍光ペンのキャップを外して、助動詞の活用表に最後の色を入れる。


 ◇


 最後のページに差しかかったところで、廊下から足音が近づいてきた。

 迷いのない、一定のテンポ。

 落ち着いた静かな足音が、僕の席の横で止まった。


「湊」


 佐伯だった。


「まだいたんだ。担任が湊にも用があるらしいけど、明日でいいって」


「了解。ありがとう」


 佐伯は帰り支度を済ませた格好だった。

 鞄を肩にかけて、もう出るところだったんだろう。


 そのまま帰ると思った。


 佐伯の視線が、僕の机の上を横切った。


 閉じてある赤本。

 開いてる古文の参考書。

 そして、百二十ページ近く埋まったノート——図解と色分けが施された、明らかに自分用ではない一冊。


「……湊。それ、すみれ用?」


 視線は机の上に落としたまま答えた。


「……うん。桜井さん、視覚優位だから。参考書を丸ごと図解にすれば、試験当日でもぱっと見返せるかなって」


 佐伯がノートに目を向けた。


「開いていい?」


「……うん」


 佐伯がノートをめくる。


 ページをめくるたびに、びっしりと書き込まれた図表が現れる。

 夏から半年かけて積み重ねた時間が、そこには詰まっていた。


 佐伯の手が止まった。

 最後のページ付近まで開いて、最初に戻して、もう一度厚みを確かめた。


「……百二十ページ?」


「だいたい」


 佐伯が少しの間、何も言わなかった。


「……いつから作ってるの」


「夏くらいから。少しずつ」


 佐伯の指が止まった。

 半年分の厚みを確かめるように、ノートの背を親指でなぞった。


「……君の勉強時間は?」


「古文は共テで必要だから、自分の復習も兼ねてた。

 そこまで非効率じゃない……と思う」


「……本気でそう思ってる?」


 平坦な声。責めているわけじゃない。

 事実の確認だ。


「……正直、褒められた時間配分じゃないと思う」


 佐伯に嘘をついても仕方がない。


 佐伯がノートを静かに閉じて、机の上に戻した。


「……湊。それ、"安全"って名前をつけてるだけの"保留"だよ」


 一言で、核心を突いてくる。


 僕はペンを置いた。佐伯の目を見た。


「……同じ場所に行きたいんだ、僕は」


 声は、自分でも少し驚くくらい落ち着いていた。


「でも、桜井さんが不安を抱えたまま試験に向かうのを黙って見てるのは——僕には、できなかった」


 佐伯が短く息を吐いた。


「……バグってるね」


「自覚はある」


「でも、その判断は、嫌いじゃない」


 佐伯は鞄の紐を直して、一歩引いた。


「共テ、何点必要なの。君の志望校」


「……七割五分」


「取れる見込みは?」


「やるしかない」


「……そう」


 ドアに向かいかけて、一度だけ振り返った。


「ノート、早めに渡したほうがいいよ。直前すぎると逆に焦るから」


 それだけ言って、教室を出ていった。


 足音が遠ざかる。

 僕はノートの最後のページに向き直った。

 あと少しで、完成する。


 ◇


 翌日。

 鞄の中のノートの重さが、朝からずっと気になっていた。


 昨日の夜、最後のページを仕上げて全体を通しで確認した。

 百二十ページ。半年分。

 今朝、鞄に入れた瞬間から、その一冊だけが妙に存在感を主張している。


 一限から六限まで、授業の内容がいつもより頭に入らなかった。


 放課後。


 西村と佐伯が帰ったあと、教室には桜井と僕だけが残っていた。

 桜井は席で英語の長文を読んでいる。


 僕は鞄を肩にかけて、立ち上がった。


「桜井さん」


「ん?」


 桜井が長文から顔を上げた。


「今日、一緒に帰らない?」


 言ってから、心臓が一拍遅れて跳ねた。


 普段は桜井や西村が「帰ろう」と声をかけて自然に合流する流れだ。

 自分から誘いの言葉を口にしたことに、どこか落ち着かない気分だった。


 桜井のシャーペンが止まった。


「……え?」


 僅かに目が見開かれて、それから瞬きが二回。


「いいけど……何かあったの?」


「えっと……ちょっと渡したいものがあって」


「渡したいもの?」


「帰りながら話すよ」


 桜井はシャーペンをペンケースに戻して、テキストを鞄にしまった。

 動作がいつもよりほんの少しだけ速い——ように見えたのは、気のせいかもしれない。


 二人で校門を出て、駅へ向かう道に出た。


 一月の空気は冷たくて、吐く息がすぐ白くなる。

 桜井はマフラーに鼻先まで埋めていて、半歩ほど横を歩いている。


「……安藤くんから帰ろうって言われたの、たぶん初めてだと思う」


「そうかもしれない」


「たぶん、じゃなくて初めてだよ」


「……そんなに珍しい?」


「珍しいよ。明日雪降るかも」


「降らないと思うけど」


「降ったら安藤くんのせいね」


 理屈が通っていない。でも桜井は満足そうにマフラーに顔を埋めた。


 改札を抜けて、各駅停車に乗った。


 ドア横のいつもの場所に並んで立つ。

 車内は空いていたけれど、座らなかった。


「……渡したいものって何?」


 桜井がマフラーの上から僕を見た。


「もうちょっと待って。降りてから」


「じゃないと渡せないの?」


「……電車の中だと、ちゃんと見てもらえないから」


 桜井が小さく首を傾げた。

 何か言いたそうにして、でも聞かなかった。


 数駅で最寄りに着いた。

 改札を出て、住宅街に入る。


 ケヤキ並木は葉を落としきっていて、街灯の光が枝の隙間からそのまま地面に届いていた。


「……重いもの?」


 桜井が隣を歩きながら聞いた。


「重くはない。物理的には」


「物理的には、って何。気になるんだけど」


「もうちょっとだけ待って」


「安藤くんって、たまにそうやって焦らすよね」


「焦らしてるつもりはないんだけど」


「結果的に焦らしてるの。……ずるいよ」


 ずるい。七月にも聞いた言葉だ。あのときは三回言われた。


「今日はまだ一回目だよ」


「……回数覚えてるの?」


「前科があるから」


 桜井が半歩だけ前に出て、振り返った。

 マフラーの上の目が、少しだけ細くなっている。


「前科って。わたしが言った回数まで数えてるって、それこそずるいでしょ」


「今ので二回目」


「……もういい」


 ぷいとそっぽを向いて、また半歩前を歩き始めた。

 怒ってはいない。

 耳の縁が、街灯の下でもわかるくらい赤い。


 十字路が近づいてくる。

 ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。


 いつもの分岐点の手前で、足を止めた。


 鞄を開けて、ノートを取り出す。


「これ、よかったら使ってほしくて」


 桜井に差し出した。

 B5の方眼ノート。表紙には何も書いていない。


「古文の頻出単語と文法を図解でまとめたノート。

 桜井さん、図とか表のほうが頭に入るタイプだと思うから」


 桜井がノートを受け取った。両手で持って、表紙をめくる。


 一ページ目は助動詞の接続表。

 色分けされたフローチャートで、活用の種類から助動詞への繋がりが矢印で示してある。

 二ページ目は頻出単語の意味マップ。三ページ目、四ページ目——めくるほど出てくる。

 夏のページは青いボールペン、秋から黒に変わり、十一月以降は赤ペンの補足が加わっている。


 桜井のページをめくる手が、遅くなった。


「……これ、全部手書き?」


「図解は手書きのほうが見やすいかなって」


「いつから……」


「夏くらいから。少しずつ」


「……半年分、あるんだ」


 声のトーンが変わった。

 教室で話すときの張りが消えて、もっと静かになった。


「試験当日、会場で見返せるように作ったんだ。休憩時間にぱっと開いて、全範囲確認できるようにしてある」


「……安藤くんの受験は?」


「古文は僕も共テで必要だから、復習も兼ねてた」


「……それだけ?」


「それだけ、じゃないかもしれないけど」


 嘘はつきたくない。でも、全部は言えない。


「桜井さんが試験会場にいるとき、僕はそこにはいないから。隣で『大丈夫』って言うこともできない。

 だったら——代わりに、使えるものを作りたかった」


 桜井がノートから顔を上げた。


 目が合った。


 街灯の光が横顔を白く照らしている。

 冷たい空気の中で、マフラーの上に出ている目元と鼻先だけが見えた。


 桜井は何も言わなかった。


 ノートを閉じて、胸元に抱えた。

 両手で、離さないように。


「……ありがとう」


 声の前に、一度だけ、小さく息を吸った。

 それから言った。


 いつもの桜井の声じゃなかった。

 もっと近い距離の、僕にだけ届けばいい、という音量。


 桜井がノートを抱えたまま、一歩だけ後ろに下がった。

 距離を取ったのか、足元が定まらなかっただけなのか、分からない。


「……七月の雨の日、覚えてる?」


「うん」


「傘、くれたでしょ。古文のテキストが濡れるからって」


「覚えてるよ」


「あのとき言ったの、覚えてる? わたし」


「……さっきの言葉は返品不可、って」


 桜井が、ほんの少しだけ目を見開いた。


「……覚えてるんだ」


「忘れてないよ」


 桜井が視線を落とした。

 胸元のノートの角を、指先でなぞった。


「あのときの借り、まだ返してないから」


「傘は返してもらったよ」


「傘の話じゃないの」


 そう言って、マフラーに顔を埋めた。

 目元だけが見えている。


「……このノート。ちゃんと使うから。本番まで、ずっと」


「うん」


「当日も持っていく。休憩時間に見る。安藤くんがそう作ったんでしょ」


「……うん。そのつもりで作った」


「じゃあ、安藤くんの言う通りにする」


 マフラーの奥で、ほんの少し笑った。

 目尻だけが柔らかく下がる。教室の中心で見せるような完璧なものじゃない。

 もっと無防備で、小さな微笑みだった。


「……じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 桜井が左の道に折れた。


 三歩。五歩。


 振り返らなかった。


 でも、歩幅がいつもより少しだけ狭くなっていた。

 ノートを胸元に抱えたまま、片手でマフラーの位置を直す仕草が、どこかちぐはぐだった。


 角を曲がって、見えなくなる。


 ◇


 まっすぐの道を歩きながら、ポケットの中で手を握った。


 さっきノートを渡したとき、桜井の指先にほんの一瞬だけ触れた。

 冷たかった。

 一月の夕方だから、当たり前だ。


 それなのに、触れた部分の微かな冷たさだけが、いつまでも指先に残っている。


 ノートを鞄に入れなかったな、と思った。


 胸元に抱えたまま歩いていった。

 百二十ページ、半年分。

 あれが桜井の役に立つなら、C判定に落ちた分の時間も無駄じゃなかったことになる。


 ——それだけのことだ。


 それだけのことなのに、足取りがやけに軽い。


 家に帰ったら赤本を開く。

 十日後の本番に向けて、やるべきことは山ほどある。

 半年分のノートに使った時間を取り戻すつもりはない。

 あれは、僕がやりたくてやったことだ。


 足を速めた。


 暗くなりかけた空の西のほうに、まだ少しだけオレンジが残っていた。

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