第89話 閑話 田中陸は、モブが主役になる瞬間を見届ける
千夏ちゃんからLINEが来たのは、年明けの三日目だった。
『ごめん、ちょっと聞いていい? 最近、湊と連絡取ってる?』
正月のぐうたら生活を全力で満喫していた俺は、こたつの中でスマホを持ち替えた。
『年末に「あけおめ」送ったくらい。既読はついた』
『返事は?』
『「あけおめ。今年もよろしく」。以上。句読点までテンプレ』
少し間が空いてから、返事が来た。
『なんかさ、クリスマスのあと湊の返事がそっけないっていうか……勉強で忙しいだけならいいんだけど』
俺はこたつから上体を起こした。
千夏ちゃんが「ちょっと聞いていい?」を使うときは、大体ちょっとじゃない。
『そっけないって、具体的には?』
『スタンプだけとか、既読スルーが増えた。前はもうちょっと中身あったのに』
なるほど。
千夏ちゃんは大げさに騒ぐタイプじゃない。
わざわざ俺に聞いてくる時点で、それなりに引っかかっているということだ。
『了解。気にしとくわ。何かあったら連絡する』
『ありがと。……心配しすぎかもだけど』
『心配しすぎくらいでちょうどいいよ。あいつ、自分からSOS出すタイプじゃないから』
そう送ってから、こたつに背中を預けた。
天井を見上げる。
湊の返事がそっけない。
秋に会ったときは、文化祭のことを聞いても妙に口数が少なかった。
年末にLINEで「調子どう」と聞いたときも、「まあぼちぼち」の四文字で終わった。
あいつは元々、自分から語るタイプじゃない。
でも「語らない」と「閉じている」は違う。
最近の湊は、後者に見える。
◇
一月の冬休み明け。
予備校の直前対策講座の帰り道。
試験終了のチャイムが鳴って、建物を出る。
一月の風は顔が痛い。
マフラーを口元まで上げて、駅に向かう途中——人混みの中に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
黒髪。猫背気味の姿勢。
ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、周囲に溶け込むように歩いている。
見慣れた背中だ。
十何年、ずっと見てきた。
「おい」
声をかけると、湊の肩がぴくりと跳ねた。
振り返った顔は、思っていたより疲れていた。
「……陸?」
「おう、奇遇だな」
「奇遇って……なんでここに」
「俺は直前講習。それよりお前、なんかゾンビみたいな顔してるぞ」
湊が小さく息を吐いた。
白い呼気が、一月の空気に溶ける。
「寒い。どっか入るか」
湊が頷く。断る気力もなさそうだった。
駅前の通りを少し入ったところに、チェーン系のカフェがあった。
受験生だらけの時期だが、昼過ぎの微妙な時間帯のおかげで、奥のテーブル席が空いていた。
ブレンドコーヒーを二つ頼んで、向かい合って座る。
湊は上着を脱いで、椅子の背にかけた。
俺はコーヒーを一口飲んで、聞いた。
「受験、どうよ?」
「……この前返ってきた模試が、C判定だった」
「Cか。まだ戦えるじゃん」
「前回はBだったんだよ。落ちてる」
湊はカップを両手で包んだ。指先が白い。
「一度B出せてんなら、ポテンシャルはあるってことだろ」
「そういう問題じゃないんだよ……」
湊の声は、平坦だった。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、疲れている。
「……やっぱりさ、分相応なところに変えたほうがいいのかなって」
湊が、コーヒーの水面を見つめたまま言った。
「本命のままだと、共通テストでかなり取らなきゃいけないし。
ランク落とせば、今の偏差値でも安全圏に入る」
論理的に聞こえる。
だが、あいつが「分相応」って言葉を使うときは、大体自分を低く見積もっているサインだ。
俺はコーヒーを置いた。
「なあ、湊」
「何」
「志望校の話は一回置いとく。別のこと聞いていいか」
湊の眉が、わずかに動いた。
「お前さ、気づいてんだろ。桜井さんの様子がおかしいの、お前が一番分かってんだろ」
湊の手が、カップの上で止まった。
「なんで陸が桜井さんの様子を知ってるんだよ……」
「千夏ちゃんから聞いた」
「……そっか」
湊は一息つき、少ししてから口を開いた。
「……共通テスト前で忙しいんだよ。桜井さんは」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「じゃあなんで、"桜井さん"って言うときだけ目が逸れるんだよ」
湊が黙った。
高二の十二月に湊に会ったとき、俺は「文化祭のあと何かあった?」と聞いた。
あのときも湊は黙ったけれど、その沈黙は「言いたくない」だったと思う。
今のは、たぶん違う。
言葉にする方法を探しているような、そういう黙り方に見えた。
「……共通テスト前だから、ってのは嘘じゃないよ。実際、忙しいとは思う」
湊は、コーヒーの水面に目を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「でも……それだけじゃないのは、たぶん分かってる」
「たぶん、じゃないだろ」
「……うん。桜井さんの様子が違うのは、分かってる。
でも、何が違うのかはうまく言えない」
静かに認めた。
カフェのBGMが、やけに遠くに聞こえる。
隣のテーブルで参考書を広げている女子二人組の鉛筆の音だけが、やたら近い。
俺は、一つだけ聞いた。
「……で、お前はどうしたいんだよ」
湊の視線が、手元に落ちた。
カップの縁を、指先で無意識になぞっている。
「……最近さ」
声が小さくなった。
「いつも通りに見てたのに、間に合わなかったことがあって」
「間に合わなかった?」
「桜井さんが、一人で辛そうだったとき。……僕より先に、別の人が隣に立ってた」
湊の言い方は曖昧だったが、何かを指しているのは分かった。
具体的に何があったのかは知らない。
千夏ちゃんからも、そこまでの詳細は聞いていない。
ただ、湊の声が、さっきの「分相応」とは別の色をしていた。
模試の疲れや志望校の迷いじゃない。
もっと違う、生々しい何かだ。
「……隣にいたのは、僕じゃなかった」
口からこぼれ落ちたその一言に、言った本人が一番驚いているような顔だった。
カフェの暖房が、低く唸っている。
「……で、どうしたかったんだよ」
俺は、できるだけ普通の声で聞いた。
長い間。
湊が、カップから手を離した。
「……隣に、いたかった」
短い言葉だった。
だが、そこに乗っている重さを、俺は聞き逃さなかった。
高一の夏。
ファストフード店で「恋愛から逃げるな」と言ったとき、湊は「モブ志望です」で流した。
高二の秋。
コンビニの前で「手ぇ伸ばせ」と言ったとき、湊は「欲しいものなんて、特にないけど」と返した。
あのとき「ない」と言い切っていたやつが、今——「いたかった」と言った。
ない、じゃなくて。
欲しい、だったんだ。ずっと。
「……やっと言ったな」
声が少し掠れた。自分でも驚いた。
「やっと、"欲しい"って言ったな。お前」
湊が顔を上げた。
目が合った。
……ああ、こいつ。自分が今どんな顔してるか、分かってないだろうな。
観客席に座っていたやつの顔じゃない。
殻に隠れてモブを気取っていたやつの顔でもない。
「……一番いい席で」
湊は、俺から視線を外さなかった。
「彼女の続きが読みたいんだ。だから……足掻くよ」
カップを握る手に、力がこもった。
さっきまでの無意識のなぞり方とは、明らかに違っていた。
俺は、奥歯を噛んだ。
笑ってないと、別の何かが漏れそうだった。
こいつに「主役になれ」と言い続けて、何年だ。
小五のあのとき——教室で全員が俺を犯人扱いしかけたとき、一人だけ手を上げたあの湊と、同じ目をしていた。
ずっと知ってた。こいつは本気を出したとき、誰よりかっこいいってことを。
「……やっと主役の顔になったな」
俺はニヤッと笑った。
「身の程なんかさ、後から付いてくる。だから、頑張れよ!」
つい熱くなってしまった。
けれどそんな俺の言葉に、湊は、ほんの少しだけ目を細めた。
笑った、というには足りない。
でも、さっきまでの疲れた顔とは、明らかに違っていた。
「……うるさいな、お前は。昔から」
「外部相談役だからな」
「もう高三だぞ。そろそろ肩書き返上しろよ」
「やなこった。卒業まで更新済みだ」
湊が、ふっと息を吐いた。
それは、久しぶりに見た、力の抜けた呼吸だった。
◇
カフェを出ると、日が傾き始めていた。
一月の夕方は早い。駅前のロータリーに、街灯がぽつぽつと点き始めている。
「じゃ、俺この後寄るところあるから」
「ん。……今日はサンキュー」
「だから何もしてないって。コーヒー飲んだだけだ」
「まあ、それはそうだけど」
湊がマフラーを上げた。
鞄を肩にかけ直すとき、ぽつりと呟いた。
「……やっぱ、本命で出す」
独り言のつもりだったんだろう。俺に聞かせるための声じゃなかった。
だからこそ、本音だと分かった。
「……じゃあな」
「おう。死ぬなよ、受験生」
「お前もな」
湊の背中が、人混みに消えていく。
十何年見てきた背中だ。猫背で、目立たなくて、人の流れに溶けるのがうまい。
でも今日のあいつは、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。
たぶん、本人は気づいていない。
◇
駅の改札を抜けてから、俺はスマホを取り出した。
千夏ちゃんとのトーク画面を開く。
『さっき湊に会った。偶然』
送信。
すぐに既読がついた。
『え、マジで!? どうだった??』
『大丈夫だよ。あいつ、ちゃんと前向いてた』
少し迷ってから、もう一行追加した。
『ちょっとだけフォロー頼んでいいか。
桜井さんのほうじゃなくて、湊のほう。
あいつが変に気を張りすぎないように、いつも通りでいてくれるだけでいい』
『了解。いつも通りね。得意分野だわ』
『佐伯さんにも共有しといてくれると助かる。
同じ感じで。普段通りにしてくれてるのが、たぶん湊には一番効く』
『りょ。サエにも言っとく。……ってか陸くん、心配性すぎない?』
『うるせえ。外部相談役なめんな』
送信して、スマホをポケットにしまった。
ホームに電車が滑り込んでくる。
ドアが開いて、受験帰りの学生がぞろぞろと降りてくる。
湊が「隣にいたかった」って言ったとき。
あいつは、小五のあのときと同じ目をしていた。
震える足で、それでも立ち上がったときと同じ。
今日のあいつも、怖いまま、言葉にした。
だから、大丈夫だ。
電車のドアが閉まる。
俺はつり革を掴んで、窓の外を見た。
一月の空は、もうほとんど暗い。
でも、西のほうだけ、まだ少しだけオレンジが残っていた。
あいつが足掻くなら、俺は観客席で見届ける。
それが俺の持ち場だ。昔から、ずっと。
——ただ、一つだけ。
『一番いい席で、彼女の続きが読みたい』
あれを聞いたとき、背中にぞわっと来たのは、たぶん一生あいつには言わない。




