第88話 二人のイルミネーションと、三年間の引き出し
十二月二十四日は、思ったほど特別な顔をしていなかった。
朝から曇り空で、空気は冷たいけど雪が降るほどじゃない。
教室の暖房は相変わらず本調子じゃなくて、窓際の席はコートを脱ぐのに勇気がいる温度だった。
終業式は午前中で終わり、教室はもう半分くらい空になっている。
帰り支度がのんびりな人たちと、冬休みの課題プリントを忘れて担任に呼び出されている数人が残っているだけだ。
「よし、じゃあ行くよ!」
西村が、机を叩くように立ち上がった。
「クリスマスイブにまっすぐ家帰るとか、高校生活の無駄遣いだからね!」
「……千夏、声大きい」
佐伯が小声でたしなめるが、西村は聞いていない。
きっかけは三日前だった。
西村が四人のグループLINEに『24日、ファミレス集合! クリスマスくらい息抜きしよ!』とスタンプ付きで投げてきた。
佐伯は『了解』の一言、僕も『行けるよ』と返した。
桜井だけ、既読がついてからしばらく間があった。
三十分後に届いたメッセージは『勉強あるから……ごめん』だった。
翌日の昼休み、桜井が「千夏に電話で押し切られた」と苦笑いしていた。
受験生だからこそ充電が必要、という理屈だったらしい。
この三年間、西村のその手の説得に桜井が勝てたことは、あんまりない。
◇
向かった先は、駅前のファミレスだった。
去年の冬にも四人で来た店だ。
窓際の四人掛けテーブルを確保して、いつもの配置に座る。
窓側に僕と佐伯、通路側に桜井と西村。
メニューを開く。
冬季限定のビーフシチューセットが表紙を飾っていて、西村が「これこれ!」と身を乗り出す。
「受験生にはカロリーが必要なの。脳みそのガソリンだから!」
「脳のエネルギー源はブドウ糖だから、ビーフシチューは効率が悪い」
「サエ、空気読んで」
「読んだ上で言ってる」
注文が済んで、西村がドリンクバーに立ち上がった。
「すみれも行くでしょ?」
「……うん」
桜井が椅子から腰を上げた。
二人がドリンクバーのコーナーに向かう。
西村が先にカップを構えて、何かのボタンを押しているのが見えた。
しばらくして、二人が戻ってきた。
桜井の手には、カップがひとつだけだった。
オレンジジュース。自分の分だけ。
——高二の冬、桜井は僕の分も一緒に持ってきてくれた。
「いつもの、でしょ?」と得意そうに笑って、僕の好みを完璧に再現したジンジャーエール。
氷少なめの、あの一杯。
今日は、持ってこなかった。
「安藤くんは? 取ってこなくていいの?」
席に着いた桜井が聞いた。
いつも通りの声。いつも通りの表情。
「あ、うん。自分で取ってくるよ」
立ち上がって、ドリンクバーに向かった。
ジンジャーエールのボタンを押す。氷を少なめに入れて、席に戻る。
それだけのことだ。自分の飲み物を自分で用意する。当たり前のこと。
去年は、桜井が持ってきてくれた。
今日は、自分で注いだ。
同じジンジャーエールのはずなのに、最初のひと口がやけにぬるかった。
◇
料理が運ばれてきて、しばらくは食べることに集中する時間が続いた。
西村がビーフシチューの肉を頬張りながら何か喋って、佐伯が「咀嚼してから話して」とたしなめて、桜井が笑う。
笑う、けれど。
去年の同じ店で、同じ四人で座ったときの、あの自然さがない。
会話は回っている。テンポも悪くない。
でも桜井だけが、ほんの半拍だけ遅れてリズムに乗っているような感じがする。
僕の気のせいかもしれない。
西村も佐伯も、特に何も言わない。
食後のコーヒーを啜っていたとき、西村がぱっと顔を上げた。
「あ、やば。サエ、うちら用事あるから先帰らない?」
佐伯のカップが、口元で止まった。
「……ないけど」
「あるの!」
西村が佐伯の肩に手を置いて、耳元に顔を寄せた。
けれど、声量は、まったく落ちていなかった。
「あ・る・の!」
「……了解」
佐伯はカップを置いて、静かに席を立った。
一瞬だけ僕と桜井を交互に見て、何か言いかけた口が閉じる。
「じゃあ、メリークリスマス! 二人ともゆっくりしてって!」
西村がひらひらと手を振る。
佐伯がコートの襟を直しながら、小さく頷いて出口に向かった。
自動ドアが閉まる。
ファミレスのBGMが急にはっきり聞こえるようになった。
スピーカーからジングルベルのインスト版が流れている。
四人掛けのテーブルに、二人。
「……」
「……」
沈黙は、重くもなく、軽くもなかった。
ただ、以前ならこの間は何かの話題で埋まっていたはずだ。
桜井が「次の原稿の構成なんだけど」と切り出すか、僕が「そういえば」と何か拾うか。
そういう自然な流れが、今日はどこかで詰まっている。
桜井がストローでオレンジジュースをゆっくりかき混ぜていた。
氷がからからと小さな音を立てる。
「……安藤くん」
桜井の声は、低かった。
「最近、ごめんね。なんか、うまく話せなくて」
ストローを持つ指が、グラスの縁を沿うように動いた。
「……僕も。たぶん、同じだよ」
桜井が顔を上げた。
目が合った。
桜井の目がほんの一瞬見開かれて——それから、睫毛がゆっくり伏せられた。
頬に色が差しているのが分かった。
桜井がストローから指を離して、グラスの横に手を置いた。
「……安藤くんの、持ってくればよかった」
声が小さかった。
ファミレスのBGMにほとんど溶けそうな音量だった。
一拍。
「……って、今のは忘れて」
桜井がグラスに視線を落とした。
耳の端が、暖房のせいだけでは説明できない色に染まっている。
忘れられるわけがないだろう、とは思った。
思ったけれど。
「……うん」
それだけ答えた。
それしか、返せなかった。
ジングルベルのインスト版が、サビに入った。
◇
ファミレスを出ると、夜の空気が頬を刺した。
息を吐くと白くなる。
桜井はマフラーに鼻先まで埋めて、半歩ほど前を歩いている。
いつものペースだ。
僕が少し遅れて、桜井が少し先を行く。
この距離は、もう何十回と歩いて出来上がったものだ。
ファミレスの角を曲がると、駅前ロータリーが見えた。
去年——高二の冬に、四人でイルミネーションを見に来た場所。
街路樹に巻きついたLEDは今年も健在で、枝の形をなぞるように白い光が連なっている。
簡易ツリーも、去年よりさらにひと回り大きくなった気がする。
桜井の足が止まった。
「……去年、ここで写真撮ったね」
マフラーの中から、声がした。
「……うん。四人で」
西村がタイマーで撮った集合写真。
佐伯の横顔がほんの一瞬だけ柔らかくなっていたこと。
桜井の耳が赤かったこと。
全部、覚えている。
イルミネーションの白い光が、桜井の横顔を照らしていた。
去年と同じ光。去年と同じ場所。
でも、立っているのは四人じゃなくて、二人だ。
「来年は……どうなってるかな」
桜井の声が、少しだけ揺れた。
「……分からない」
少し間が空いた。
「でも、悪くないようにしたい」
自分の口から出た言葉が、思ったより素直だった。
格好つけたわけじゃない。
ただ、そう思った。
桜井が、こちらを見た。
少しだけ、笑った。
マフラーの上から見える目元だけが細くなって、イルミネーションの光がそこに小さく映り込んでいた。
「……うん。私も」
そのまま、二人で歩き出した。
ロータリーを抜けて、住宅街に入る。
街灯がぽつぽつと並ぶ夜道を、どちらも何も言わずに歩いた。
でもそれは、あの日——原稿を受け取った帰り道の沈黙とは、少し違った。
あのときは「足りないもの」がずっとついてきていた。
今日の沈黙は——重さがない。
何かが足りないのかもしれないけれど、今はこのまま並んで歩いていていいような気がした。
十字路の手前で桜井が立ち止まった。
いつもの分岐点。
ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。
「……じゃあ、また」
桜井がマフラーを直した。
鞄の持ち手を握り直す。今日の桜井の鞄は、いつもより少しだけ膨らんでいるように見えた。
何か入っているのか、とは聞かなかった。
「うん。また」
桜井がマフラーの奥で小さく笑って、左の道に折れた。
三歩、五歩。
この前——原稿を渡してくれた日は、桜井は振り返った。
マフラーの上から目だけがこちらを向いて、片手が小さく上がっていた。
今日は、振り返らなかった。
歩幅だけが、少しずつ狭くなっていくのが分かった。
桜井の背中が角を曲がって、見えなくなった。
◇
家に着いて、コートを脱いで、部屋の明かりをつけた。
冬休みの勉強に差し支えるから、机の上を少し片付けておこうと思った。
テスト期間から積み重なったプリント類や参考書の付箋が散乱している。
引き出しを開けて、不要なプリントを移そうとしたとき——手が止まった。
一枚の紙が、引き出しの隅に挟まっていた。
シフト表だった。
高一の文化祭のシフト表。
厨房組、ホール組、記録・運営組、買い出し組。
全員の名前が書かれた、あの日一日分の配置図。
黒板から剥がしたときの折り目がまだ残っている。
端が少しだけ黄ばんでいた。
文化祭の片付けの日に、黒板から剥がした。
クラス全員の一日分の動きが全部残っている紙を、ただの紙ごみにするのが惜しくて、机に入れた。
それだけだった。
それだけだったはずなのに——二年以上経った今も、ここにある。
シフト表をしまおうとして、引き出しの奥に目がいった。
高一の文化祭のスタッフブック。
去年のファミレスのレシート。
折り畳んだメモ用紙。
どれも、些細なものだ。
普通なら捨てているようなもの。
いつ残したのかも覚えていないものもある。
でも——全部、桜井に関わるものだった。
スタッフブックには桜井が書いたエッセイが載っている。
レシートは四人でファミレスに行ったときのもの。
メモ用紙には桜井の原稿に対する僕の走り書きが残っている。
何一つ、捨てられていなかった。
二年以上。
僕はこの引き出しの中に、桜井と過ごした時間の破片を、一つずつ——たぶん、無意識に——積み重ねていた。
口では「観察係」と言い続けている。
名前をつけることを避け続けている。
なのに、この引き出しだけは何も忘れていない。
シフト表を折り直して、引き出しの一番奥に押し込んだ。
引き出しを閉めて、机の上の赤本に手を伸ばした。
勉強を再開する。年明けの共通テストまで、あと三週間。
やることは決まっている。やらなきゃいけないことも。
——でも、引き出しの中身のことが、しばらく頭から消えなかった。




