第87話 一番最初の読者と、見られていた観察係
十二月に入ってから、教室の空気がまた少し変わった。
暖房が本格稼働して、窓ガラスの下のほうにうっすら結露ができる季節。
放課後の教室は、午後の陽が落ちるのが早くなった分、蛍光灯が点く時間も早くなった。
桜井の距離感は、あれ以来ずっとそのままだった。
近くもなく、遠くもなく——正確には、遠くなった分を桜井なりに取り繕った結果の距離。
教室では普通に話すし、文集作業の打ち合わせもいつも通りにこなす。
ただ、椅子の位置がほんの少しだけ外側に寄ったままで、何かを渡すときに指先が触れないよう渡し方が変わった。
桜井の推薦の一次選考は、確か来週だ。
この時期は、誰だって神経が尖る時期だと思う。
桜井が少し距離を置いているのは、そのせいだろう。
——そういうことに、しておきたい。
「だろう」と納得させたはずなのに、いつの間にか「しておきたい」に変わっている。
そうやって理由を貼り付けて、この少し遠い距離から目を逸らすことにも——最近は少し、疲れてきた。
◇
金曜日の放課後。
文集委員としての作業が一段落して、佐伯と西村が先に帰ったあとだった。
僕は自分の原稿ファイルを鞄にしまいながら、帰り支度を始めていた。
窓の外は、五時を回ったところで空がもう暗い。
蛍光灯の白い光が、がらんとした教室をやけに広く見せていた。
「安藤くん」
背後から、声がした。
振り返ると、桜井がいた。
両手で——何かを抱えている。
クリアファイルに挟まれた、A4の紙。
「……覚えてる?」
桜井の声は、普段より低かった。
声量を絞っているわけじゃない。
力が入っているのに、音が小さい。そういう声だ。
「書き上がったら、一番最初に読んでほしいって。……私、言ったよね」
覚えている。
高二の三月。
写真選定の帰りに、桜井がまっすぐこっちを見て言った言葉だ。
あのとき桜井の目は少し潤んでいて、声は震えていて、でも逃げなかった。
——忘れるわけがなかった。
「覚えてるよ」
できるだけ、いつもの声で返した。
桜井の肩が、ほんの少しだけ下がった。
息をひとつ吐いて、強張っていた首の角度が変わる。
「……できたから、読んで、ほしい」
クリアファイルが、差し出された。
『観察者のいる教室』——表紙にはそう書かれていた。
タイトルの下に「桜井すみれ」の名前。
卒業文集用のエッセイだ。
受け取ろうとして、手を伸ばした。
——桜井の指が、離れなかった。
クリアファイルの両端を、桜井の両手が握っている。
指の関節が白くなるくらい、力が入っているように見えた。
僕が右端に手をかけると、ファイルが二人の間で橋のようになった。
桜井のほうから引っ張られるでもなく、こちらに押し出されるでもなく、ただそこに留まっている。
桜井の指先が、かすかに震えていた。
「……もらっても、いい?」
小さく聞いた。
桜井が、一瞬だけ唇を噛んだ。
それから、指がゆっくりと開いた。
クリアファイルの重さが、僕の手に移った。
——さっきまで桜井の体温があった場所が、紙越しにまだ温かかった。
◇
教室の机に原稿を広げて、読み始めた。
桜井は僕の斜め向かいに座っていた。
いつもの隣ではなく、少しだけ離れた位置。
でも視線は——僕を見ていた。
読み始めてすぐ、それは分かった。
視界の端で、桜井がこちらを見ている。
原稿のページをめくるたびに、桜井の呼吸がわずかに変わる。
一段落目。
教室の風景。窓際の席。午後の光。
「主役じゃない誰か」の話だと、最初の段落で宣言されていた。
二段落目。
文化祭の準備。段ボールを運ぶ手。誰よりも早く来て、最後まで残る背中。
三段落目。
教室で誰かが困っているとき、名前を呼ばれなくても気づく人。
気づいた上で、その人のやり方を壊さないように手を差し伸べる人。
——『モデルは安藤くん』と本人から聞いてはいた。
けれど、改めて文字で突きつけられると、思っていたよりずっと重たい。
名前はどこにも書かれていない。
『端の席の誰か』
『背景に溶け込むのが上手い人』
文化祭の裏方、教室の空気を読む横顔。
——桜井が拾い上げているのは、全部、僕の隣で起きていたことだった。
五段落目を読み終えたあたりで、喉の奥がきゅっと詰まった。
桜井の文章は、いつもの新聞原稿とは手触りが違った。
取材記事のときの桜井は、対象との距離を保って、言葉を選んで、読者に「見せる」文章を書く。
でもこの原稿は——距離が、近い。
「端の席の彼」が何を見ていたか、何を考えていたか、どんな顔をしていたか。
桜井がずっと見ていたことが、一文ごとの密度で伝わってくる。
一年生の頃の些細な出来事まで、細部が鮮やかだった。
最後の段落を読み終えて、顔を上げた。
——桜井と目が合った。
ほんの一瞬。
桜井がこちらを見ていた。
まばたきを忘れたみたいな目で、僕の反応を待っていた。
目が合った瞬間、桜井がぱっと視線を落とした。
膝の上でカーディガンの袖口をいじりながら、何でもないふうを装っている。
でも耳の端がうっすら赤い。
「……すごいね」
自分の声が、思ったより穏やかに出た。
桜井の原稿を見てきた二年半の中で、何十回と繰り返してきたはずのやりとり。
なのに、今日は喉の奥が少し熱い。
「僕、こんなにちゃんと見られてたんだ」
桜井が、手元から顔を上げた。
さっき逸らしたばかりの目が、もう一度こちらを向いている。
「……ちゃんと見てたよ。ずっと」
声が、少しだけ掠れていた。
僕は原稿に目を戻した。
良い文章だった。
桜井の原稿の中で、一番完成度が高いかもしれない。
構成に無駄がなくて、情景の選び方が的確で、最後の一文が静かに効いている。
文集に載る原稿としては、申し分ない。
——なのに、どこか引っかかる。
窓の外で、グラウンドの照明が消える音がした。
かちん、と金属的な音。
教室が一段暗くなったような気がして、蛍光灯を見上げたが、明るさは変わっていなかった。
行間から、何かが抜け落ちているような。
さっき読んだとき、文章は確かに熱を持っていた。
「端の席の誰か」を見つめる桜井のまなざしが、文字の向こうに透けていた。
でも、その熱が——均されている。
温度を一定に保つために、わざと高い部分を削ったような。
文章として整っている分、削った痕が逆に目立つ。
何を削ったのか。
どこを均したのか。
観察係として二年半、桜井の文章を一番近くで見てきた。
その勘が「何かが足りない」と言っている。
でも、それを言葉にする方法を、僕は持っていなかった。
「……完成度、高いね。文集用としては、これで出せると思う」
桜井の原稿を見てきた人間としての評価を、そのまま口にした。
嘘じゃない。
嘘じゃないけれど、全部でもない。
桜井は小さく頷いた。
「……ありがとう。安藤くんに読んでもらえて、よかった」
声は落ち着いていた。
でも、クリアファイルを受け取るとき、桜井の手がまたほんの少しだけ震えていたのを、僕は見逃さなかった。
◇
帰り支度を始めた頃、教室のドアが開いた。
「すみれー、まだいるー? 忘れ物取りに——あ、湊もいんじゃん」
西村が、半分だけ教室に入ってきた。
マフラーを巻きかけたまま、ロッカーのほうに歩いていく。
「千夏、忘れ物多すぎ」
桜井が笑った。
さっきまでの緊張がほぐれたような、軽い声だった。
「だって体育館シューズがここに——あった。セーフ」
西村がロッカーからシューズ袋を引っ張り出して、鞄に突っ込んだ。
それから、ふと何かを思い出したように桜井のほうを向いた。
「そういえばすみれ、あの原稿どうした? まだ持ってんでしょ」
桜井の動きが、一瞬だけ止まった。
「……持ってるけど」
「捨てないでよ」
西村の声は軽かった。
いつもの口調。深刻さは欠片もない。
でも、桜井を見る目だけが、少しだけ真剣だった。
「……うん」
桜井が、小さく頷いた。
僕は鞄のファスナーを閉めながら、その会話を聞いていた。
あの原稿——文集用のエッセイの下書きだろうか。
桜井が何本もボツにするのは、いつものことだ。
推敲の過程でいくつか書き直したはずで、没になった版を西村が「捨てるな」と言うのは、桜井の書いたものを大事にする親友らしい振る舞いだと思った。
「じゃ、先帰るね! すみれ、湊、またねー」
西村がマフラーを巻き直して、ひらひらと手を振って出ていった。
◇
校門を出て、駅までの道を二人で歩いた。
十二月の空気は冷たくて、吐く息が白い。
桜井はマフラーに鼻先まで埋めて、半歩ほど前を歩いている。
改札を抜けて、各駅停車に乗った。
ドア横のスペースに並んで立つ。
車内は空いていたけれど、座らなかった。
どちらからともなく、いつもの場所に立つ。
窓の外を暗い景色が流れていく。
どちらも、何も言わなかった。
数駅で最寄りに着いた。
改札を出て、住宅街に入る。
ケヤキ並木は葉をほとんど落としていて、街灯の光が枝の隙間からそのまま地面に届いていた。
桜井が、マフラーの中からぽつりと言った。
「……今日、ありがとう。読んでくれて」
「うん。いい原稿だったよ」
「……そう言ってもらえると、報われる」
桜井は前を向いたまま、少しだけ歩幅を狭めた。
僕もそれに合わせる。
十字路が近づいてきた。
ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。
足を止めるいつものポイントで、桜井が立ち止まった。
「じゃあ、また月曜」
「うん。また月曜」
桜井がマフラーの奥で小さく笑って、左の道に折れた。
三歩。五歩。
——振り返った。
今日は、振り返った。
マフラーの上から目だけがこちらを向いて、片手が小さく上がった。
僕も軽く手を上げて返した。
桜井の背中が角を曲がって、見えなくなる。
まっすぐの道を歩きながら、ポケットの中で手を握った。
さっき原稿を受け取ったときの感触が、まだうっすら残っている。
桜井の指が離れるまでの、あの数秒の温度が。
——見られていた。
ずっと、見られていた。
観察係として桜井を見てきたつもりだったのに、桜井のほうがずっと先に、僕を見ていた。
それを知って——胸の奥が、じんと熱くなった。
観察係としてではなく。桜井の原稿を見てきた人間としてでもなく。
ただ、安藤湊として。
でも。
あの原稿の行間にあった沈黙が、帰り道をずっとついてきていた。
何が足りないのか、分からない。
分からないのに、足りないと感じている自分がいる。
——足りないのは、文章じゃないのかもしれない。
そこまで考えて、首を振った。
『答えを出そうとすると、それで決まっちゃうから。「分からない」って状態のまま書くのが、たぶん一番誠実』
かつて、僕が桜井に言った言葉だ。
今の僕には、それが都合のいい言い訳のように思えた。
『足りないもの』の正体に名前をつけてしまったら、もう元の場所には戻れなくなる。
僕も、たぶん——同じだ。
家の玄関に手をかけたとき、ポケットの中でスマホが震えた。
桜井からのLINE。
『感想、三行以内でいいから。また聞かせて』
——前にも、同じことを言われた気がする。
あのときは手書きのメモで、三行の感想を返した。
おいしかったよ、と書いた。チョコの話だった。
今度は——何を書けばいいんだろう。
「良い原稿でした」では足りない。
「行間に何かが足りない気がした」とは、書けない。
玄関の段差に座って、しばらくスマホの画面を見つめた。
入力画面のカーソルが、点滅している。
三行だけ打った。
『うまく言えないけど、桜井さんの目を通した教室は、僕が知ってるのと全然違った。
見えてなかったものが見えた気がする。
ありがとう』
送信ボタンを押した。
部屋に入って上着を脱いで、スマホを握ったままベッドに寝転んだ。
返信はまだ来ない。
……と思った矢先、握っていたスマホが震えた。
画面にメッセージが届いていた。
『ありがとう。
ちゃんと、届いた』
それだけだった。
僕は起き上がって、スマホを机の上に置いた。
あの原稿に足りなかったものの正体を、僕はまだ知らない。




