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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第87話 一番最初の読者と、見られていた観察係

 十二月に入ってから、教室の空気がまた少し変わった。


 暖房が本格稼働して、窓ガラスの下のほうにうっすら結露ができる季節。

 放課後の教室は、午後の陽が落ちるのが早くなった分、蛍光灯が点く時間も早くなった。


 桜井の距離感は、あれ以来ずっとそのままだった。


 近くもなく、遠くもなく——正確には、遠くなった分を桜井なりに取り繕った結果の距離。

 教室では普通に話すし、文集作業の打ち合わせもいつも通りにこなす。

 ただ、椅子の位置がほんの少しだけ外側に寄ったままで、何かを渡すときに指先が触れないよう渡し方が変わった。


 桜井の推薦の一次選考は、確か来週だ。

 この時期は、誰だって神経が尖る時期だと思う。

 桜井が少し距離を置いているのは、そのせいだろう。


 ——そういうことに、しておきたい。


 「だろう」と納得させたはずなのに、いつの間にか「しておきたい」に変わっている。

 そうやって理由を貼り付けて、この少し遠い距離から目を逸らすことにも——最近は少し、疲れてきた。



 金曜日の放課後。


 文集委員としての作業が一段落して、佐伯と西村が先に帰ったあとだった。


 僕は自分の原稿ファイルを鞄にしまいながら、帰り支度を始めていた。

 窓の外は、五時を回ったところで空がもう暗い。

 蛍光灯の白い光が、がらんとした教室をやけに広く見せていた。


「安藤くん」


 背後から、声がした。


 振り返ると、桜井がいた。


 両手で——何かを抱えている。

 クリアファイルに挟まれた、A4の紙。


「……覚えてる?」


 桜井の声は、普段より低かった。

 声量を絞っているわけじゃない。

 力が入っているのに、音が小さい。そういう声だ。


「書き上がったら、一番最初に読んでほしいって。……私、言ったよね」


 覚えている。


 高二の三月。

 写真選定の帰りに、桜井がまっすぐこっちを見て言った言葉だ。

 あのとき桜井の目は少し潤んでいて、声は震えていて、でも逃げなかった。


 ——忘れるわけがなかった。


「覚えてるよ」


 できるだけ、いつもの声で返した。


 桜井の肩が、ほんの少しだけ下がった。

 息をひとつ吐いて、強張っていた首の角度が変わる。


「……できたから、読んで、ほしい」


 クリアファイルが、差し出された。


 『観察者のいる教室』——表紙にはそう書かれていた。

 タイトルの下に「桜井すみれ」の名前。

 卒業文集用のエッセイだ。


 受け取ろうとして、手を伸ばした。


 ——桜井の指が、離れなかった。


 クリアファイルの両端を、桜井の両手が握っている。

 指の関節が白くなるくらい、力が入っているように見えた。


 僕が右端に手をかけると、ファイルが二人の間で橋のようになった。

 桜井のほうから引っ張られるでもなく、こちらに押し出されるでもなく、ただそこに留まっている。


 桜井の指先が、かすかに震えていた。


「……もらっても、いい?」


 小さく聞いた。


 桜井が、一瞬だけ唇を噛んだ。

 それから、指がゆっくりと開いた。


 クリアファイルの重さが、僕の手に移った。


 ——さっきまで桜井の体温があった場所が、紙越しにまだ温かかった。



 教室の机に原稿を広げて、読み始めた。


 桜井は僕の斜め向かいに座っていた。

 いつもの隣ではなく、少しだけ離れた位置。

 でも視線は——僕を見ていた。


 読み始めてすぐ、それは分かった。

 視界の端で、桜井がこちらを見ている。

 原稿のページをめくるたびに、桜井の呼吸がわずかに変わる。


 一段落目。

 教室の風景。窓際の席。午後の光。

 「主役じゃない誰か」の話だと、最初の段落で宣言されていた。


 二段落目。

 文化祭の準備。段ボールを運ぶ手。誰よりも早く来て、最後まで残る背中。


 三段落目。

 教室で誰かが困っているとき、名前を呼ばれなくても気づく人。

 気づいた上で、その人のやり方を壊さないように手を差し伸べる人。


 ——『モデルは安藤くん』と本人から聞いてはいた。

 けれど、改めて文字で突きつけられると、思っていたよりずっと重たい。


 名前はどこにも書かれていない。

 『端の席の誰か』

 『背景に溶け込むのが上手い人』


 文化祭の裏方、教室の空気を読む横顔。

 ——桜井が拾い上げているのは、全部、僕の隣で起きていたことだった。


 五段落目を読み終えたあたりで、喉の奥がきゅっと詰まった。


 桜井の文章は、いつもの新聞原稿とは手触りが違った。

 取材記事のときの桜井は、対象との距離を保って、言葉を選んで、読者に「見せる」文章を書く。


 でもこの原稿は——距離が、近い。


 「端の席の彼」が何を見ていたか、何を考えていたか、どんな顔をしていたか。

 桜井がずっと見ていたことが、一文ごとの密度で伝わってくる。

 一年生の頃の些細な出来事まで、細部が鮮やかだった。


 最後の段落を読み終えて、顔を上げた。


 ——桜井と目が合った。


 ほんの一瞬。

 桜井がこちらを見ていた。

 まばたきを忘れたみたいな目で、僕の反応を待っていた。


 目が合った瞬間、桜井がぱっと視線を落とした。

 膝の上でカーディガンの袖口をいじりながら、何でもないふうを装っている。

 でも耳の端がうっすら赤い。


「……すごいね」


 自分の声が、思ったより穏やかに出た。

 桜井の原稿を見てきた二年半の中で、何十回と繰り返してきたはずのやりとり。

 なのに、今日は喉の奥が少し熱い。


「僕、こんなにちゃんと見られてたんだ」


 桜井が、手元から顔を上げた。

 さっき逸らしたばかりの目が、もう一度こちらを向いている。


「……ちゃんと見てたよ。ずっと」


 声が、少しだけ掠れていた。


 僕は原稿に目を戻した。


 良い文章だった。

 桜井の原稿の中で、一番完成度が高いかもしれない。

 構成に無駄がなくて、情景の選び方が的確で、最後の一文が静かに効いている。


 文集に載る原稿としては、申し分ない。


 ——なのに、どこか引っかかる。


 窓の外で、グラウンドの照明が消える音がした。

 かちん、と金属的な音。

 教室が一段暗くなったような気がして、蛍光灯を見上げたが、明るさは変わっていなかった。


 行間から、何かが抜け落ちているような。


 さっき読んだとき、文章は確かに熱を持っていた。

 「端の席の誰か」を見つめる桜井のまなざしが、文字の向こうに透けていた。


 でも、その熱が——均されている。

 温度を一定に保つために、わざと高い部分を削ったような。

 文章として整っている分、削った痕が逆に目立つ。


 何を削ったのか。

 どこを均したのか。


 観察係として二年半、桜井の文章を一番近くで見てきた。

 その勘が「何かが足りない」と言っている。


 でも、それを言葉にする方法を、僕は持っていなかった。


「……完成度、高いね。文集用としては、これで出せると思う」


 桜井の原稿を見てきた人間としての評価を、そのまま口にした。

 嘘じゃない。

 嘘じゃないけれど、全部でもない。


 桜井は小さく頷いた。


「……ありがとう。安藤くんに読んでもらえて、よかった」


 声は落ち着いていた。

 でも、クリアファイルを受け取るとき、桜井の手がまたほんの少しだけ震えていたのを、僕は見逃さなかった。



 帰り支度を始めた頃、教室のドアが開いた。


「すみれー、まだいるー? 忘れ物取りに——あ、湊もいんじゃん」


 西村が、半分だけ教室に入ってきた。

 マフラーを巻きかけたまま、ロッカーのほうに歩いていく。


「千夏、忘れ物多すぎ」


 桜井が笑った。

 さっきまでの緊張がほぐれたような、軽い声だった。


「だって体育館シューズがここに——あった。セーフ」


 西村がロッカーからシューズ袋を引っ張り出して、鞄に突っ込んだ。

 それから、ふと何かを思い出したように桜井のほうを向いた。


「そういえばすみれ、あの原稿どうした? まだ持ってんでしょ」


 桜井の動きが、一瞬だけ止まった。


「……持ってるけど」


「捨てないでよ」


 西村の声は軽かった。

 いつもの口調。深刻さは欠片もない。

 でも、桜井を見る目だけが、少しだけ真剣だった。


「……うん」


 桜井が、小さく頷いた。


 僕は鞄のファスナーを閉めながら、その会話を聞いていた。


 あの原稿——文集用のエッセイの下書きだろうか。


 桜井が何本もボツにするのは、いつものことだ。

 推敲の過程でいくつか書き直したはずで、没になった版を西村が「捨てるな」と言うのは、桜井の書いたものを大事にする親友らしい振る舞いだと思った。


「じゃ、先帰るね! すみれ、湊、またねー」


 西村がマフラーを巻き直して、ひらひらと手を振って出ていった。



 校門を出て、駅までの道を二人で歩いた。


 十二月の空気は冷たくて、吐く息が白い。

 桜井はマフラーに鼻先まで埋めて、半歩ほど前を歩いている。


 改札を抜けて、各駅停車に乗った。

 ドア横のスペースに並んで立つ。


 車内は空いていたけれど、座らなかった。

 どちらからともなく、いつもの場所に立つ。


 窓の外を暗い景色が流れていく。

 どちらも、何も言わなかった。


 数駅で最寄りに着いた。


 改札を出て、住宅街に入る。

 ケヤキ並木は葉をほとんど落としていて、街灯の光が枝の隙間からそのまま地面に届いていた。


 桜井が、マフラーの中からぽつりと言った。


「……今日、ありがとう。読んでくれて」


「うん。いい原稿だったよ」


「……そう言ってもらえると、報われる」


 桜井は前を向いたまま、少しだけ歩幅を狭めた。

 僕もそれに合わせる。


 十字路が近づいてきた。

 ここから先、僕はまっすぐ。桜井は左。


 足を止めるいつものポイントで、桜井が立ち止まった。


「じゃあ、また月曜」


「うん。また月曜」


 桜井がマフラーの奥で小さく笑って、左の道に折れた。

 三歩。五歩。


 ——振り返った。


 今日は、振り返った。

 マフラーの上から目だけがこちらを向いて、片手が小さく上がった。


 僕も軽く手を上げて返した。


 桜井の背中が角を曲がって、見えなくなる。


 まっすぐの道を歩きながら、ポケットの中で手を握った。

 さっき原稿を受け取ったときの感触が、まだうっすら残っている。

 桜井の指が離れるまでの、あの数秒の温度が。


 ——見られていた。

 ずっと、見られていた。


 観察係として桜井を見てきたつもりだったのに、桜井のほうがずっと先に、僕を見ていた。


 それを知って——胸の奥が、じんと熱くなった。

 観察係としてではなく。桜井の原稿を見てきた人間としてでもなく。

 ただ、安藤湊として。


 でも。


 あの原稿の行間にあった沈黙が、帰り道をずっとついてきていた。


 何が足りないのか、分からない。

 分からないのに、足りないと感じている自分がいる。


 ——足りないのは、文章じゃないのかもしれない。


 そこまで考えて、首を振った。


 『答えを出そうとすると、それで決まっちゃうから。「分からない」って状態のまま書くのが、たぶん一番誠実』


 かつて、僕が桜井に言った言葉だ。

 今の僕には、それが都合のいい言い訳のように思えた。


 『足りないもの』の正体に名前をつけてしまったら、もう元の場所には戻れなくなる。


 僕も、たぶん——同じだ。


 家の玄関に手をかけたとき、ポケットの中でスマホが震えた。


 桜井からのLINE。


 『感想、三行以内でいいから。また聞かせて』


 ——前にも、同じことを言われた気がする。


 あのときは手書きのメモで、三行の感想を返した。

 おいしかったよ、と書いた。チョコの話だった。


 今度は——何を書けばいいんだろう。


 「良い原稿でした」では足りない。

 「行間に何かが足りない気がした」とは、書けない。


 玄関の段差に座って、しばらくスマホの画面を見つめた。

 入力画面のカーソルが、点滅している。


 三行だけ打った。


『うまく言えないけど、桜井さんの目を通した教室は、僕が知ってるのと全然違った。

 見えてなかったものが見えた気がする。

 ありがとう』


 送信ボタンを押した。

 

 部屋に入って上着を脱いで、スマホを握ったままベッドに寝転んだ。


 返信はまだ来ない。


 ……と思った矢先、握っていたスマホが震えた。


 画面にメッセージが届いていた。


『ありがとう。

 ちゃんと、届いた』


 それだけだった。


 僕は起き上がって、スマホを机の上に置いた。


 あの原稿に足りなかったものの正体を、僕はまだ知らない。

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