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「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録  作者: もりぞー


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第86話 バグった桜井さんと、観察係の空回り

 十一月の朝は、空気が冷たい。


 教室に入ると、暖房がまだ本調子じゃなくて、窓際の席は特にひんやりしていた。

 コートを椅子の背にかけて、鞄を机の横のフックに引っかける。いつものルーティン。


 隣の席には、もう桜井がいた。


 古文の単語帳を開いて、シャーペンの端で頬を軽く叩いている。見慣れた朝の光景だ。


 昨日の帰り道——あの声が、まだ耳の奥に残っている。


 ——『書くよ。ちゃんと書く』


 迷いのない、静かな声だった。


「おはよう、桜井さん」


 いつも通りに、声をかけた。


 ——桜井の肩が、跳ねた。


 椅子の上でぴくっと背筋が伸びて、単語帳を握る手がきゅっと力んだ。


「……おはよう」


 声が、少し高かった。

 いつもなら僕が声をかけた瞬間に返ってくる「おはよう」が、ほんの少しだけ遅れた。


 桜井はこっちを向いて笑った。

 口角の上がり方も、目の細め方も、普段と変わらない。


 ——でも、なんだろう。いつもの笑顔のはずなのに、どこか一手だけ遅い。

 パーツは合っているのに、タイミングだけが噛み合っていない感じ。


 何かあったのか、とは思った。


 推薦の書類か、志望理由書の手直しか。

 十二月の一次選考が近いし、神経が張っていても不思議じゃない。


 ——そういうことにしておいた。


 自分の席に座って、鞄から教科書を出す。

 一時間目は現代文だ。


 隣の気配が、かすかに揺れた。

 視界の端で、桜井がこちらをちらっと見て——すぐに単語帳に目を戻すのが見えた。


 気のせいだ、たぶん。



 昼休み。


 四人で机をくっつけるのは、高三になってからの日課だ。


 僕の正面に西村、斜め向かいに佐伯。そして隣に桜井。

 いつもの配置——のはずだった。


 桜井は弁当箱を持って隣の席に座った。

 いつもの席。いつもの場所。

 ただ、椅子の位置がほんの少しだけ外側にずれていた。


 肘が触れるか触れないかの距離が、今日は触れない側に傾いている。

 拳ひとつ分もないくらいの差。

 でも——いつもと違う。


「千夏、それ手作りの唐揚げ?」


「そう! お母さんの傑作。サエも食べる?」


「遠慮しとく。脂質過多。タンパク質なら他で摂る」


「サエ、いつもストイック」


 会話は普通に回っている。

 四人の昼休みは、こういう何でもないやりとりの積み重ねだ。


 ただ、ひとつだけ。


 桜井の視線が、おかしかった。


 僕のほうを見ようとして——途中で逸れる。

 逸れてから、少しして、もう一度こっちを見る。

 目が合いそうになると、弁当に視線を落とす。


 その繰り返し。

 ——今日の桜井は、全体的にどこか挙動がおかしい。


「ねえ桜井さん、文集の写真リスト、今日中にまとめられそう?」


 何気ない口調で聞いた。


 桜井の箸が、一拍だけ止まった。

 「桜井さん」と呼んだ瞬間だった。


「うん、大丈夫。放課後までにはまとめるよ」


 何となく声がいつもと違う気がするのは、気のせいだろうか。

 心当たりがない。

 昨日の帰り道では普通だった。


 疑問は浮かんだ。

 でも、それ以上は追わなかった。


 隣で、西村が佐伯のほうに少し体を傾けた。

 佐伯は、小さく頷いたように見えた。


 二人の間で何かが交わされた気配がしたけれど、僕には内容までは届かなかった。


 弁当箱の蓋を閉める。

 麦茶を一口飲んで、窓の外を見る。


 イチョウの葉がだいぶ落ちて、枝のシルエットが空に透けていた。



 放課後。


 文集委員の作業。机を四つくっつけて、いつもの配置。

 桜井の椅子が、また少しだけ端にずれていた。

 今日はずっとこうだ。


「桜井さん、そっち寒くない?」


 言ってから、自分でも少し不自然だったかもしれないと思った。

 でも、他にうまい言い方が見つからなかった。


 桜井の動きが止まった。


「え? う、ううん。大丈夫。ちょっと姿勢変えただけ」


 声が少し上擦っていた。

 さっきまで用紙に視線を落としていた目が、泳いでいる。


「……ならいいけど」


 それ以上は聞かなかった。

 桜井がそう言うなら、そうなんだろう。


「今日は写真の最終セレクトと、レイアウト案のたたき台までいけたらいいね」


 佐伯が手帳を見ながら言った。


「サエ、いつも通りテキパキ。助かるー」


 西村が自分の席から椅子を持ってきて座る。


 佐伯がリストを読み上げ、僕が該当する写真をファイルから探す。

 桜井がレイアウトの素案をスケッチし、西村がコメント案を書き出す。

 いつもの分業。役割が噛み合って、作業は順調に進む。


 三十分ほど経ったとき。


 桜井の手が、消しゴムを探すように机の上をさまよった。


 いつものことだ。

 夏休みの勉強会で何度もあった光景。

 桜井が視線を上げずに左手だけを差し出して、僕が消しゴムを手に載せる。言葉は要らない。


 今日も同じように、消しゴムを手に取って、桜井の手のひらに載せようとした。


 指先が、触れた。


「ひゃっ——!」


 桜井が弾かれたように手を引いた。

 消しゴムが机の上を転がって、写真ファイルの端にぶつかって止まった。


「……え、どうしたの」


 思わず声が出た。

 桜井の顔を見る。


 ——耳が、赤い。


 耳の縁から首筋にかけて、じわりと色が広がっている。

 目が大きく見開かれていて、口がぱくぱくと動いている。


「な、なんでもない、なんでもない。ちょっとびっくりしただけ」


 声が裏返っていた。

 慌てて消しゴムを拾い上げて、用紙に顔を伏せるように視線を戻す。

 けれどペンを持つ手が、微かに震えていた。


 ——夏の勉強会では、こんなことはなかった。

 同じことを何度もやってきた。

 言葉もなく、視線も交わさず、手だけで完結するやりとり。

 それが今日に限って——。


「……こっちこそ、ごめん」


 僕は何でもないふりをして作業を再開した。

 右手でシャーペンを握り直しても指先がうまく噛み合わない。

 視線がノートに戻らない。

 余白に意味のない線を一本引いて、ようやく手が動いた。


 正面で、西村と佐伯が顔を見合わせた。


 西村が何か言いたげに口を開きかけて——佐伯が視線だけで止めた。

 佐伯はそのまま手帳に目を戻して、何事もなかったようにメモを再開する。


 その一瞬のやりとりは、僕の目の端に映っていた。

 二人が何を確認し合ったのかは分からない。

 分からないけれど——なんとなく、聞かないほうがいい気がした。


 レイアウト案の確認に戻る。

 写真の配置を赤ペンで修正していく。

 こういう作業に没頭しているときは、余計なことを考えなくて済む。


 ——はずなのに。

 さっき触れた桜井の指先の感触が、なかなか消えなかった。



 作業が終わったのは、五時半を過ぎた頃だった。


 窓の外は、もうほとんど暗い。

 街灯がぽつぽつと灯り始めて、校庭の向こうの住宅街に明かりが滲んでいる。


「おつかれー。今日けっこう進んだね」


 西村が伸びをしながら立ち上がった。


「佐伯さん。レイアウト案、明日チェックお願いできる?」


「うん。朝イチで見る」


 佐伯が手帳に予定を書き込んでいる。


「じゃ、わたし先に行くね。志望理由書の直し、今日中に担任に出さなきゃいけないから」


 桜井がスケッチ用紙をクリアファイルにしまって、椅子から立ち上がった。


「がんばって、すみれ」


「ありがと、千夏」


 桜井が鞄を肩にかけて、教室のドアに向かう。


 僕は資料を片付けながら、背中でその気配を追っていた。

 追っている自分に気づいて、手元に視線を戻す。


 西村が立ち上がりかけて——一瞬だけ、桜井が出ていったドアのほうに目を向けた。

 何かを測るような間があって、それからいつもの声に戻った。


「うちもちょっと野暮用。先帰るねー」


 ひらひらと手を振って教室を出た。


 佐伯は手帳を閉じて、ファイルを鞄にしまい終えると、立ち上がった。


「お先に」


 短く言って、ドアに向かう。

 佐伯が一瞬だけ振り返って——何か言いかけて、やめた。

 口を閉じて、小さく頷いただけだった。


 教室に、僕だけが残った。


 ファイルを鞄にしまい終えた頃、ふと廊下側に目を向けた。


 ガラスの嵌まったドアの向こうに、人影が見えた。


 壁にもたれて、立っている。

 胸のあたりに手を当てていた。


 桜井だった。


 さっき「先に行く」と言って教室を出たはずの桜井が、廊下の壁に背中をつけて、目を閉じていた。


 教室の中で見せていた笑顔が、全部剥がれたみたいな顔をしていた。

 肩が小さく上下している。

 呼吸を整えているように見えた。


 ——声を、かけようとした。

 腰が浮いて、足が一歩だけ前に出かけた。


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


 西村だった。


 西村は桜井の横に立つと、何も言わなかった。

 ただ、桜井の隣の壁にもたれて、同じ姿勢で並んだ。

 二人の間に言葉はなかった。


 桜井が目を開けて、西村の顔を見て——それから、小さく息を吐いた。

 力が抜けたように、桜井の肩が少しだけ下がった。


 僕はそれをガラス越しに、見ているだけだった。


 しばらくして、二つのシルエットがゆっくりと動き始めた。

 並んで歩いて、階段のほうへ消えていく。


 教室に、僕だけが残っている。


 鞄の持ち手を握り直した。


 ——隣にいたのは、僕じゃなかった。


 昼休み、いつもより少しだけ離れた椅子。

 消しゴムを渡したとき、弾かれるように引いた手。

 作業が終わったあと、「先に行くね」と言って出ていった背中。


 どの瞬間も、僕は桜井の隣にいた——はずだった。


 なのに、桜井が本当の顔を見せた瞬間、そこに立っていたのは西村だった。


 観察係は、見ることが仕事だ。

 見て、記録して、必要なときに言葉を置く。

 桜井の距離を尊重して、求められるまで動かない。


 ——それが正しいはずだった。


 なのに、足を出そうとして出なかった。

 ——誰かが先にいたから、止まっただけだ。


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 名前はつけない。つけたら、今の全部が動き出してしまう。


 ——あのとき動こうとしたのは、観察係だからじゃなかった。


 鞄を肩にかけて、教室を出た。


 廊下は静かだった。

 さっきまで桜井がもたれていた壁に、誰もいない。

 夕方の冷えた空気だけが、そこに残っていた。

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