150.兄弟
ヤーシャの問いは、その場の幾人かに眉を顰めさせた。
大抵は半端者が何を言っているのかと思っているのかもしれないし、自身の疑問を口に出したことに様子見を決めたのかもしれない。どちらにしても、いまの彼には兄以外の存在に心を砕く余裕はない。
唯一違うと言えば武器を尊ぶこともないウツィアだが、彼女はヤーシャ自身に思うところがあったのか、一度だけ星穹を見やり、彼の頷きを見て静観を決めた。
そして問われた張本人は未だ静観を貫いている。
堂々たる精神は、きっと迫る相手が自分でなくても揺るがないだろう。
武芸に秀でた体躯には、憧れが全て詰まっている。
羨ましいのは相変わらず、ピクリとも動かない表情に、ちょっとは揺らいでほしいと泣きたい心地だ。
それでも、いまここで堤防にならねばラトリアが崩壊する。
感情に呑まれ、父の愛する国民が血に溺れるなど決して許してはならない。
「兄上。お答えください。貴方はこのまま、ラトリアを中心に戦火を広げるおつもりか」
「戦火とは、また大袈裟なことを言う」
「私は子供ではなく、またこの言葉に間違いがあるとはひとつも思っていません。すべては貴方の起こした事実を基に発言しています」
「事実とは?」
「言わねばなりませんか?」
言ってもよかった。
わずかに躊躇してしまったのは、衆目の前で兄の信頼を崩したくなかった……かもしれない。
兄弟喧嘩であれば無言の意思疎通で通じたかもしれないが、公の場で非難した以上は許されないのだと気づき、一度……悔しさを隠しきれずに目を瞑り、下唇を噛んだ。
「コンラート領に軍を派遣されている。ただの復興と言い訳にするには、もはや隠しきれない数をです」
詳細は、あの憎たらしい皇帝から聞いている。
その証言を基に、わずかな伝手を使って『赤狼』の知り合いに頼み込み、事実確認を行ったのが今朝である。懐から取り出したのはいくらかの書類だった。
「港に蓄えていた大量の鉄と食料が倉庫から動いたのを確認しました。もしこれを否定するのであれば、これらを父上の承認なく放出した理由をお聞かせ願いたい」
証拠もなく叫ぶだけでは、兄の信奉者から不敬者と取り押さえられるのはわかっている。
静かな動揺が、何も知らない者達の間に広がるのを感じながら、ヤーシャはまた一歩踏み出した。
「あれは軍が保有するものではない。来たる冬に備え、国民に配られるべき非常食だ」
ラトリアの冬は雪が深い。
元々土地が枯れているから、農業や畜産には限界があって、それゆえに豊かな土地は奪い合いの対象だ。港があっても海産物だけに頼るのは難しく、基本的に国民が貧しい冬を送る。父が即位し貯蔵庫を作らせるまでは、春に遺体がごろごろ転がっていたと聞いている。
ヤーシャは恵まれている人間だから餓えは知らないが、話はいくらでも聞いていた。
冬の暖炉。
『赤狼』の年寄りがもう飢え死にした遺体を見かけなくて済む。口減らしに祖父母を殺さなくて済むのだ……と安堵した笑みを見せる度に、父ヤロスラフ王の偉大さを胸に刻んだ。
王とは民を餓えさせないためにいるのだと信じているからこそ、王宮ではなく港の所蔵庫に手を付けた兄を責めずにはいられない。
隠れて事を行ったからには後ろめたさがあるはずだが、シグムントは単調だった。
「ああ、それか」
「それか?」
先の内乱では国が荒れた。
主犯である長兄と叔父との戦いは長引いた。
最終的に困窮した彼らでさえ港の貯蔵庫は襲わなかったのに、平然と言ってのける兄は、まるで別の生き物のようだ。
「確かに軍は派遣した。私が必要だから送ったものだが、それに何の問題がある」
「父上は認めておられない。そもそも、勝手に貯蔵庫に手を付けるなどあってはならないはずだ」
「暗黙の了解というだけで、そんな法は存在しない」
「存在してもしなくても、食料がなければ民が餓えるのです!」
少し前までは仲の良い兄弟だったはずなのに、いまはまるで違う生物を相手にしている気分だ。
ヤーシャは兄と仲が良いつもりだった。
しかし今は、もしかしたら兄を勝手に理解した気になっていただけで、昔から自分たちには溝があったのかもしれない。
そう思いながら……感情を抑えるように強く拳を作った。
「コンラート領に軍を派遣すれば、オルレンドルから侵略行為と看做されるのは必然でしょう。そして軍を派遣したということは、手ぶらで戻ってくるなど許されない行為のはずだ!」
たとえ軍事演習だと偽っても内外から非難轟々だろうし、そもそもこの兄が無為な行動を起こすとは思えない。「侵略しない」と言う方が無理なのだと、しかし兄を信じたい気持ちで表情が強ばる弟へ、シグムントはわずかに目を見張った。
それは責められていることに対するものではなく、弟が自分を案じていることに驚いた瞳だ。
しかし感情を声に乗せることはせず、彼は言った。
「お前の懸念は正しい。私は折を見てファルクラム領を奪うつもりでいた」
「どうしてそんなことを……」
わかっていたはずなのに、認めた姿を目の前に、声から力が失われて行く。
シグムントが否定しない姿に、幾人かの者もうめき声を漏らしたのをヤーシャの耳は捉えた。
兄はとうとう教えてくれた。
「ラトリアの発展のためだ。お前が思う以上に、先の内乱は国を衰えさせている」
「だからファルクラム領から奪うと?」
「そうだ。あの国……いまはもうオルレンドルの支配領でしかないが、父上や祖先が狙っていたのも同じ理由だ。私はそれを実行しただけであり、すべては国のためを想って実行しただけに過ぎない」
兄の言葉に嘘を感じる。
その正体を探りながら、ヤーシャは首を横に振った。
「貴方の考えを否定はしません。ですが戦には時期というものがあると、実戦を知らない私でも知っています」
たとえば、戦争は準備を怠っては仕掛けてはいけないということ。
充分な蓄えもなしに身を切り崩して後のない軍は、成功しなければただ死に行くだけだ。
「貴方の行動は、ただ民を無為に死なせるだけとしか思えない。なぜウツィアの近くで、そこの精霊の力を見ていながら、侵略行為を行うのですか。彼らは土地を豊かにすると約束してくれたというのに……そうだよな、ウツィア」
「えっ? あ……ええ、そうよ」
突然話を振られたウツィアは、素っ頓狂な声を上げ、これにシグムントは反論した。
「精霊の力に頼りきりになるなどあってはならない。自らの力で奪うからこそ、ラトリア人と言えるだろう」
「そのために無謀な行為を繰り返すというのですか。失敗すれば本国すら衰えるというのに」
「奪えばいい。ファルクラム領には充分な食料と資源が眠っている」
「その後、オルレンドルに蹂躙される未来が決まっていてもですか」
ヤーシャの言葉に、シグムントは何故か含み笑いを漏らす。
「お前は先ほどから、ラトリアが負ける前提で話すのだな」
「そうなる未来しか見えませんから」
「兄を信じないと?」
「兄上は信じるに足る行動を示しておりません。私には、貴方がただ戦をしたいのだという風にしか……」
そこまで話して、気付いてしまった。
シグムントが笑んだ。
言葉はなかったが、正解を言い当てたご褒美とばかりに感情を見せた姿に、ヤーシャの口から空虚な息だけが漏れる。
兄の無為な行動の意味、さっぱり理解できなかったが、この瞬間に通じ合ってしまった。
「ああ……そうなんですね」
目を背けていた事実を突きつけられたせいで、一瞬、肩から力が抜けた。
あの皇帝が言っていたのはそういうことだ。
なんてことはない、兄はただ戦がしたいのだ。
父も民も誰かの意思も関係ない。
負けても勝っても関係ない。
ただ彼は争いの渦中にいたい。
そのためならばいかな犠牲を厭おうとも関係ないのだ。
長く声を失ったと思っていたが、実際はほんの数秒。
ヤーシャは緩慢な動きで、星穹へ頼んだ。
「星穹。貴方が少しでも我が国の未来に憂いてくれるのであれば、頼みがある」
小さく首を傾げる仕草は、拒絶ではないはずだ。
正直何を考えているのかわからないから不気味な生き物だが、理想論者に付き合えるなら悪い奴ではないはずだ。
「父上をここに連れてきてくれ」
星穹はウツィアに目線を送り、彼女の同意を得て姿を消した。
次に衆目にはウツィアを残して下がるよう指示を送る。ごねられると思ったが、皆が言うことを聞いてくれたが意外だ。
ヤーシャは相変わらず微動だにしない兄を見た。
ここから先は、いとこ以外には聞かせられない話だ。
弟として訊いた。
「兄上は、どうして戦を起こしたいのですか」
問いは問いによって返された。
「お前は対峙した相手が自分を斬り捨てようと、振り下ろしてきた刃をどう思う?」
「刃、ですか?」
試合とか殺し合いだろう。
ヤーシャは素直に「怖い」と答え、シグムントは鷹揚に頷いた。
「それは死にたくないからか」
「だと、思います。普通だと思いますけど……」
痛いのは嫌だし、後が苦しい。
どちらも好きになれるはずもないし、怪訝そうに答えた弟に、兄はこう答えた。
「私は相手を愛おしく思う」




