149.覚悟
一瞬で頭は真っ白に。
間抜けにも口をぽかんと開いた醜態を晒し、我に返ったのはシスが葡萄を半分食べてからだ。
「なっ、な……!!?」
人間怒りが勝ると声も出なくなるらしい。
少なくともヤーシャはそうだ。脳裏にありとあらゆる罵詈雑言が浮かび、すべてが喉元まで押し寄せて詰まった。
声にならない音が部屋を支配し、ヤーシャにできたのは目に付いたカップを投げることだけ。王族に似つかわしくない木作りの無骨な代物だが、兄が作ってくれたからと大事に使っていたものだ。それをオルレンドル皇帝は、やはり澄まし顔でひょいと躱す。顔面すれすれをカップが過ぎていったはずだが、感想は淡泊だった。
「単純だな」
「き、きさ……俺に兄上を裏切れなど、どの口が――」
つまりそういうことだ。
この男は、みそっかすヤーシャに、正当な王位継承権を有する兄から王位を奪えと言っている。
到底あり得てはならない提案だが、皇帝はしれっと言う。
「そう難しい話でもないのだがな。諭した者の責任として、相応の礼はするつもりではいる」
「…………私にオルレンドルの傀儡になれと言うのか」
「傀儡とは人聞きの悪い。これは助言であり、隣人への援助を検討しているだけに過ぎない」
「……その話を聞き入れるわけではないが、およそ正気ではない提案だな。さては貴様、外交下手だな」
誠に遺憾だが、もし自身がラトリアの冠を頂いたとして、だ。そこにオルレンドルの支援など受ければ、国民感情が悪化の一途を辿るのは想像に難しくない。否、そもそも隣国の王の言葉に耳を貸すなど愚の骨頂だ。こんな話を行うことすら背信行為だと、即刻会話を切り上げようとした青年に、皇帝は口角をつり上げる。
「さて、我が国は貧しい隣国へ少々の手助けをするだけであり、救いの手を取った国の内情に口を挟むなど、とてもできるわけがない」
つまりヤーシャの事など知ったことではないし、その程度は自分でどうにかしろというわけだから適当に言ったのだ。
あるいは、その程度成せなくては意味はないと言いたいのかも知れないが……ともあれ、はなからヤーシャに不利なばかりの、本当に最低最悪の妄想の言だ。
ただ……と、すぐに冷静さを取り戻した。なぜならとても嫌な想像をするが、仮にこの言葉をヤーシャ以外が、もっといえば母違いの兄弟の誰かから囁かれていたら、興味で胸を高鳴らせていたろうと容易く理解できてしまうからだ。
オルレンドル皇帝の思惑に乗るつもりはない……そう頭では思えど、彼の国が三国の間では一歩抜きん出ているのは事実。その後ろ盾を得られるのであれば、己の欲望のために甘言に乗る。少なくとも、正当な後継者だった腹違いの長兄を処刑したことで、他の兄弟達は、もう父に従順ではなくなってしまっているのを、ヤーシャは肌で感じ取っている。
だからオルレンドルのよからぬ企みを聞いたのは、自分でよかった。
あとはヤーシャが兄を裏切ることはないのだと、とくと思い知らせねばと――。
「だが、それが一番人が死なぬ提案だ」
なによりも聞き逃せない言葉。
問い返したのは失敗だったかもしれない。
「なに?」
「戦争を起こそうという武人より、臆病者でも頭を使える学者肌の方が、いまのラトリアには良いと言った」
ヤーシャは礼儀も忘れ、露骨に嫌悪感を露わにした。
「貴様、何を言っている」
「貴公こそ、私が何を言いたいのか本当にわからないか?」
「だから……」
「貴公は馬鹿ではない。ならば、その内面に秘めた微かな欲望を嗅ぎとっているのではないか」
途端、この男を部屋から追い出したくなった。
肌がチリチリと、まるで暖炉の炎に近寄りすぎたときのような熱さが押し寄せる。
否定できなかったのは、ヤーシャ自身が、もしやもしやと疑っていた疑惑を、第三者が指摘してきたからかもしれない。
しかしどうして、弟であるヤーシャがようやく嗅ぎ取れた気配を皇帝は……。
ヤーシャの疑惑には、図らずもシスが肩をすくめた。
「類は友を呼ぶからな。嫌な話だよホントにさ」
同類の嗅覚を嗅ぎ取ったということらしいが、当の皇帝は否定する。
「世の中を知らぬ娘に王冠を与えようとしたこと以外にも、大量の鉄が流れ込んでいることは調べがついている。加えてファルクラム領付近への軍の派遣。隣国としては、これが確信犯ではないと言う方が無理がある」
「そっちは確信材料で、元々怪しんでたくせに」
先ほどから感じていたのだが、このシスという男は皇帝の友人なのだろうか。しかし友人と言えばしかめっ面をしそうな関係にも見えるし、ヤーシャには理解し難い関係だ。
隣国の王の交友関係に現実逃避をしながら、しかしここで本物の馬鹿になれば、たちまち皇帝は自分への興味を失うだろうという確信に、ヤーシャは現実を見た。
「私に王になれだの、兄を頭のおかしいもの呼ばわりだの、まったく失礼な男だ」
「そういう貴公こそ、オルレンドル皇帝に対してなかなか不敬な態度を取る」
「夜中に侵入してくるような不審者に払う敬意などあってたまるか」
そして小さな嘆息を吐くと、当初から抱いていた疑問を口にした。
「貴様の話を百歩譲り前向きに考えるのならば、どうにも我が国との戦争を避けようとしているように聞こえる」
「そのつもりで話している」
「何故だ」
ラトリアは常々ファルクラム領を狙っている。
コンラート領付近の森は手に入れることができたが、それだけでは足りない。いまだ旧王都を狙っていることは、オルレンドル皇帝ならば知っているはず。ラトリアの混乱と崩壊はオルレンドルにとって安寧の道に他ならない。それに人となりを見るに、男には人並みに支配欲はある。もしかしたら想像以上に、いまあるものだけで満足する男でもないと思っている。あの皇后があまりにも市民に近い感覚を有していて、それを愛おしそうに見つめている夫婦を目の当たりにしているから勘違いしそうになるが、この男単体は存在がマズい、と本能がヤーシャに警告している。皇帝交代時からオルレンドルを危険視していた父の気持ちがわかるような気がするのだ。
見た目『だけ』はまさしく絶世の美丈夫。
だがその内面は恐ろしい侵略者のはず。
しかし空気を張り詰める青年に対し、皇帝は淡泊だ。
「貴公の安息所はどこだ?」
「は?」
「私の場合は庇になる。そこ一点のみだ」
質問しておきながら答えを求めていない、一方的な会話。
皇帝の体はここにありながら、心はここにはいない誰かを見ている。
「その庇は私と違い、戦果で身心を消耗する。愚か故に無視しても構わない愚衆に目を向ける。ならば長く在れるよう、大事に手入れするのが私の務めというもの」
庇が誰なのかは、すぐに思い至った。
ひどく愛おしそうに告げる姿はいたく情熱的で、もしこれが歌劇ならば、頬に手を当ててうっとりしてしまそうな艶がある。
だがヤーシャにすれば恐ろしいほどの傲慢さだ。
「まさか、それだけの理由で?」
「私には、何に置いても優先すべき事由だ」
「……オルレンドル皇帝は、争いは嫌いだと?」
「まさか」
く、と笑った表情は、いたく性格が悪そうだ。
自分には決して持ち得ない感覚は、これが『王』というものなのかと感じながら、同時にこの場にいない人間へ悪態を吐く。
――あの皇后め、男の趣味が最悪だ。
馬鹿らしいほど愚直な理由だが、だからこそ嘘だとは思わない。オルレンドルの皇帝は、信じがたいことに、妻のために戦を避けたがっている。
逆を言えば自分程度に嘘を言う理由がないだけ――とも一瞬過ったが、そのせいで、男に言われた言葉を真面目に頭の中で反芻する羽目になった。
夜の出来事を思い返しながら、現実に意識を戻したヤーシャは、端から兄を見つめている。
兄の息が掛かっている場は、オルレンドルへの敵対心に溢れている。ウツィアは青い顔でじっと座るだけ。完全に味方だと信じていた星穹は、白夜の出現のせいで難しい立場に追いやられている。
兄は同盟者である竜を呼ぼうとしたが、どういうわけか反応がないと言う。
この状況にまったく信じ難いのは、己の不利に武力行使をしようと提言した者がいたことだ。
せっかく他国の貴賓を招いている場で、その実力差も、国際問題も、精霊の印象すら理解せずに放たれる発言に、幾人かが同意したとき、ヤーシャの意識は遠のきかけた。
こんなの、知性ある政とは程遠い、蛮族の集まりではないか――。
だがヤーシャにとって、それ以上に信じがたいのは、彼らを誰一人として兄が咎めないということ。
ここに父が居れば一声で治めたろうに、彼にはその実力があるのだと理解しているだろうに、民の熱狂のまま、愚かな行動を許そうとしている。流石にウツィアが青ざめ、星穹も眉を顰めたが……。
その光景に、ヤーシャはくしゃりと顔を歪ませながら、片手で顔半分を覆う。
「結局、本当に私しかいなかったのか」
なぜ自分だったのか、半分はからかいと、兄と同じ血を汲む弟の情を訴えたのだと思っていた。
だが徹頭徹尾、あいつは真実しか言っていなかった。
オルレンドルの政を預かる人間は馬鹿ではない。ファルクラム領付近における軍派遣の話を加味すれば、この国にはオルレンドルの草がいて、オルレンドルはそこからラトリアの情報を得ている。
つまるところ王族の末席にしがみついているだけの自分なんかに話を持ちかけてきたのは、他に話になりそうな人間が一人としていなかったということ。ヤーシャの味方はいないと暗に告げながら、覚悟を促した。
ああ、と小さく呟く。
目尻に浮かんだ涙を拭い、息を吸って、熱狂のただ中に割って入るため、腰元の鞘を掴む。
それ引き抜いて、床にたたきつけた。
力いっぱい乱暴に扱ったせいか、ことのほか大きな音が立った。
「兄上」
場が一気にシン、と静まりかえったのは、音以上にラトリアの男なら尊ぶべき武器を床に放ったせいだ。
ヤーシャは歩き出しはじめに、わざとそれを蹴りつける。
ガシャン、と床を滑る剣に、なんてことを――誰かがそんな悲鳴をあげたが、雑兵を気にかけるほどの余裕は、もう、ない。
己を鼓舞するように、ヤーシャはもう一度「兄上」と呼びかける。
彼はラトリア人にとって、存在感すら薄かった、王の情けだけで王族の席に就いている半端物。
普段ならば一笑に笑す程度で留められる存在が、だがどういうわけか、一歩踏み出すごとに人々が道を譲られる。ここにいる者達はそれぞれが武人だからこそ、追い詰められた者特有の、恐怖を忘れた鬼気迫る表情に慄いたのだ。
ヤーシャはシグムントに迫った。
何も言わぬ兄に、眼を真っ赤に染めながら弟は尋ねる。
「兄上は、この国に死の風を運ぶおつもりですか」
ライナルトが饒舌なのは、ヤーシャの愚かな部分が(少しカレンに似てるために)気に入ってるからです。
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